第3話 赤い月
◇◇◇
静寂に包まれた町に、赤みを帯びた月光が弱々しく影を落としていた。
住宅街の暗い夜道を歩きながら、柚木シュウは空に向かって短く息を吐き出す。
「……『赤い月は不吉の前兆』、だったっけ?」
当時は「なに言ってんだ、こいつ」としか思わなかった友人の言葉も、今になってみればわからない気がしないでもない。
「まあ、たしかに不気味ではあるけどな」
聞こえてくるのは小さな虫たちのかすかな羽音と、ウシガエルの低い鳴き声。
それと、せまい住宅街の路地に響くひとりぶんの足音だけ。
スニーカーのつま先で蹴飛ばした小石がアスファルトの上を転がる音に視線を落とせば、光る双眸が一瞬こちらを見つめ、すぐさま闇の中へと吸い込まれていった。
「……黒猫も不吉なんだっけ?」
今日にかぎって、やけにそんなことばかりが頭をよぎる。
「ぜってぇアイツのせいだな……あのオカルトマニア」
友人のよろこびそうなネタでも提供してやるかと、シュウはポケットから端末を取り出した。
まぶしいほどに明るい画面に表示された時刻は丑三つ時。
ここまでくると、さすがにもう笑うしかない。
「アイツ、さてはオレに念でも送ってんだろ」
適当に選んだふざけた絵柄のスタンプを送りつければ、待ってましたとばかりについた「既読」の文字。
間髪入れずに端末を震わせた着信に、シュウは「いや電話かよ」とおもわず苦笑した。
『よーっす。こんな時間までバイトなんて、フリーターは大変だね! とりあえず遊びにいく?』
「行かねぇよ」
『えー!?』
友人の不満げな声が端末越しに響く。
「うっせ。昨日もお前んちに泊まったばっかだろ」
『いいじゃん。いっつも泊まってくんだし』
「よくねぇよ。三日も家に帰ってないんだぞ。だいたい、今何時だと思ってんだよ」
『丑三つ時! ワクワクすんね!』
「しねぇわ」
苦笑しながらもシュウは、どこからか聞こえた窓を開閉する音に少しばかり声をひそめた。
『てかさー、来週みんなで遊園地行くじゃん?』
「おう」
『エリカが一緒に連れてけってうるさくてさー』
バツが悪そうに言う友人の言葉に、シュウは彼の妹の顔を思い浮かべた。
「『ぜったいに連れてけって言われるから黙っとく!』って豪語してたのはどの口だったっけ?」
『う〜ん……おれ?』
「お前しかいねぇだろ。ったく……まあいいんじゃね? どうせ男ばっかでつまんねぇし」
『うちのかわいいカノジョがいますけど!?』
「はいはい、そーでした」
『シュウもカノジョさん連れてくればいいのにー。もう付き合って二年だっけ?』
「ああ……たしか」
『いいよなぁ、バイト先の女子高生捕まえて、カノジョの大学進学と同時に同棲! うっらやましー』
「あー……行かねぇんじゃね? たぶん授業だし」
『そーなの? 残念ー。てかさ聞いてよー。今日カノジョがさー』
そこからひとしきりノロケ話を聞かされていれば、「カノジョから通知がきた!」と言って友人はいそいそと通話を切り上げた。
「ったく、相変わらず自由なやつだな……」
不意に見上げた街灯には、名前も知らない小さな虫たちが気持ち悪いほどに群がっていた。
ジリジリ……と熱を帯びたむき出しの蛍光管に運悪く接触したのか、バチッ、という耳ざわりな音が鼓膜を揺らした。
きっと夜が明ければ、街灯の真下には無数の虫の死骸が散乱していることだろう。
「……うげ」
安易に想像できてしまったその光景にシュウは顔をしかめつつ、しかし次の瞬間にはなに食わぬ顔で通りすぎる。
けっして広いともせまいとも言えない間隔で列を成す明かりのひとつが、チカ……、チカ……、と不規則な点滅を繰り返していた。
「っあれ? カギどこ入れたっけな……まさかアイツんちに忘れてきた?」
高くはない給料で借りた古いアパートのドアの前で、シュウはごそごそとバッグの中をまさぐった。
紛失防止のためにカギにつけた水色のペンギンのキーホルダーが、指先に当たって小さな鈴の音を鳴らす。
「あったあった……ただいまー」
真っ暗な室内は、しん……と静まり返っていた。
(静かすぎてこえー……って、ぜってぇアイツのせいだな)
胸中で友人に悪態をつきつつドアを閉めれば、どこからか小さな鈴の音が聞こえた。
おもわず手にしたカギを見たが、手中のキーホルダーはくぐもった鈍い音を鳴らすだけ。
「気のせい、か……?」
違和感に首をかしげながらも、シュウは暗い廊下を進んで手探りで部屋の壁のスイッチにふれた。
やわらかい明かりが室内を照らし出す中、テーブルの上のリモコンを取ってテレビの電源を入れる。
「……なんだ? 置き手紙……?」
シュウの視線は、テーブルの中央に置かれた一枚のメモ用紙に釘づけにされていた。
そこにあったのは、見慣れた筆跡で残された「さよなら」の文字――。
「…………は?」
状況がうまく飲み込めない。
突然のことに困惑しながらも、彼はおそるおそる寝室の引き戸に手をかけた。
「……ハル?」
呼びかけに返る声はない。
いつもなら彼女が寝ているはずのせまいベッドは寒々としていて、もぬけの殻だった。
「っハル……!?」
シュウは弾かれたようにきびすを返して、慌てて廊下を引き返した。
キッチンにバスルーム、トイレの中まで確認しながら玄関まで戻ってみるが、どこにも彼女の姿はない。
それどころか彼女の私物のなにもかもが消え失せていた。
まるではじめからこの部屋には存在していなかったかのように、『彼女がここにいた』という痕跡が一切見当たらない。
唯一見つけられたのは、玄関に転がっていたピンク色のペンギンのキーホルダーがついた合カギだけ。
「どういうことだよ……!」
部屋に戻りつつポケットから端末を取り出す。
落としそうになりながらも握りしめて、シュウは震える手で電話をかけた。
『おかけになった電話番号は、現在、使われておりません――』
「っ……!」
コール音もなく流れたアナウンス。
それが意味することを理解できないはずもなく。
シュウはずるずると崩れ落ちるように、壁に背を預けその場に座り込んだ。
「……意味、わかんね……」
部屋にはただ、不通を告げる電子音と、どこかの国の戦禍を伝えるニュースの声だけが響いていた。




