第2話 運命の歯車
施設への受け入れ手続きから間を置くことなく、さっそく翌日にはハルは実験に参加することになった。
(う〜、緊張する……)
マリアたちの研究対象である『キューブ』とよばれる物質の概要を説明されたのは午前中のこと。
だが心の準備もままならぬうちに、午後の実験開始時間を迎えてしまった。
「ハル、大丈夫か? 調子悪いなら中止にしてもらうか?」
先を行くレンが心配そうに振り返って眉を寄せていた。
「平気です。ちょっと……緊張してるだけ……」
真っ青な顔色のまま、ハルは実験のおこなわれる保管室へと足を踏み入れる。
実験の同意書にサインはしたものの、こんな経験は初めてなのだ。緊張するなというほうが無理である。
「ハルはキューブに手をかざすだけでいい。あとはキューブがやってくれる。成功するかどうかは……キューブ次第だ」
「はい……」
保管室に設置された装置の中央にそれはあった。
両手に乗るほどの大きさをした立方体の宝石が、どういう原理かふわふわと宙に浮いていた。
(……これが、キューブ……)
「大丈夫だ。ハルならできるよ」
ぽんぽんとレンの手が軽く肩を叩く。
こわばった肩を小さく跳ねさせて、ハルは緊張をとくように大きく深呼吸した。
(……大丈夫……だいじょーぶ……)
レンの気配が保管室から出ていくのを横目に感じながら、ハルは正面の宝石にじっと目を凝らす。
『保管室のドアロック確認。キューブ、安定しています。テストを開始してください』
スピーカー越しの青年の声におもわず振り返る。
ガラス張りの保管室の向こう側で、複数の白衣を着た人たちがまっすぐにハルに視線を注いでいた。
(……どうしよう……怖い、かも……)
いまさらながら、実験に対する恐怖心が芽生えて一気に不安が押し寄せてきた。
だがもうあとには引けない。
ハルは視線を泳がせながらも再び装置と向き合うと、おそるおそるキューブに手を伸ばした。
「っ!?」
指先がキューブにふれた瞬間、まばゆい光の粒子がハルの全身を取り巻いていく。
ざわざわと神経を逆なでするような感覚が、ハルの心を無性にかき乱した。
(怖いっ、怖い怖い怖いっ……!)
そこにあるのは畏怖――。
体内を逆流して駆けめぐる熱にどうしていいかわからず、ハルは崩れるようにしてその場にしゃがみこんだ。
視界がぐるぐると渦を巻く。
心臓が握り潰されたかのように痛んで、反射的に浅くなる呼吸と早い脈拍に、おもわずハルは自身の胸元を掴んでうずくまった。
(なにこれっ……!? すごく、苦しい……!)
『数値、安定しません! このままでは危険です!』
スピーカー越しの声に、誰かの悲鳴にも似た声が重なる。
ぼやけて揺れる視界。こみ上げる嘔吐感。
全身をめぐる血液が沸騰しているような錯覚を覚え、ハルはおもわず固く目を閉じた。
(わたし、このまま死んじゃうのかも……)
『ハルっ!!』
「っ!」
周囲の音が靄がかかったように遠くなる中、ハルの鼓膜を鮮明に揺らしたのはほかの誰でもない。
ガラスの向こうで、レンが身を乗り出すようにしてグースネックマイクを掴んでいた。
『ハル、大丈夫だ。俺の目を見て、ゆっくり呼吸しろ』
言われるがままに、ハルはまっすぐにレンの瞳を見つめた。
闇のように深い色のまなざしに吸い込まれそうになりながら、意識的に深呼吸を繰り返す。
『……そう……それでいい。大丈夫だから……』
レンの低い声色にいざなわれるように、胸の痛みが和らいでいく。
同時に、全身を包み込む光に安らぎにも似たぬくもりを感じた。
自然とこぼれ落ちた涙が、ひとすじ頬を伝っていく。
『シンクロ率上昇! セーフティライン突破! 安定領域の維持を確認!』
響き渡った報告に、現場に安堵の雰囲気が漂う。
「……テスト成功だね」
責任者の発した言葉に、誰からともなく拍手が沸き起こる。
(……成功……? なにが、どうなって……)
喧騒を遠いことのように感じながら、ハルはぼんやりとしたまなざしで、そばに浮かぶキューブを見上げた。
キューブはまるで他人事のように、空中に七色の光を放っていた。
「ハル、立てるか?」
「……れ、ん?」
すぐ近くから聞こえた声に視線を向ければ、いつの間にかレンがそばにしゃがみこんでいた。
心配そうに眉間にしわを寄せて顔を覗き込む彼に、ハルはふるふると首を振る。
「腰、抜けちゃったみたいで……」
力の入らない足を懸命に動かしてみるが、軸が定まらずうまく立ち上がることができない。
「仕方ないな…………怒るなよ?」
「え? あっ、ちょ、レンっ……!?」
ふわりと体が浮き上がる感覚に、ハルは顔を真っ赤にして慌てて声を上げた。
急に喉を通過した音に小さく咳込む。
「暴れると落とすぞ」
言葉とは裏腹に、レンの声色はひどく優しい響きをしていた。
背中と膝裏から伝わる熱を感じながら、ハルは歩きだしたレンの首元へ腕をまわす。
恥ずかしいやら情けないやら。火照る顔をマリアたちには見られたくなくて、ハルは無意識にレンの肩口に顔を沈めた。
「レン、ハルを医務室へ連れていってちょうだい。ドロップの確認をするわ」
マリアの言葉に短く返事をしたレンが、そのままの足取りで保管室をあとにする。
「…………」
「…………」
レンに抱きかかえられたまま、廊下の先のエレベーターに乗り込む。
一瞬ふわっと浮き上がる感覚のあと、エレベーターは静かに上昇を始めた。
「……ハル、具合悪くなってないか?」
「だいじょうぶ」
「そか。なら腰が抜けただけか」
「なっ!? もうっ、下りる!」
「ははっ、悪かった。ちょっとからかってみただけだ」
レンに横抱きにされたまま、ハルはじたばたと足を上下させてささやかな抵抗を見せた。
「それだけ元気なら心配ないな」
「だから下りるってば」
「医務室に着いたらな」
エレベーターのドアがひらき、わずかに遅れてレンの足が前へ出る。
観念したらしいハルがおとなしく腕の中に収まっているのを視界に入れて、レンは満足そうに微笑みを浮かべていた。




