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奈々華の瞳から一粒涙が零れ落ちるのを見て、俺は何を思ったのだろうか。動揺したのだろうか。やはり第三者の視点に立ったように、現実として泰然と受け入れたのだろうか。人間というのは自分が思っているより自分という者を理解していない。誰かがどこかで言った言葉をいつか聞いたことがある俺は、今それをぼんやり思い出していた。自分の感情であるはずなのに、上手く掴めていない。どこかフワフワした感覚なのに、ケツがびっしゃびしゃに汗をかいてるのはわかる。
<結構吃驚しました>
それはどのことに対してか。俺の隣の椅子に座ったサナちゃんの指の感触に軽い異物感を覚えた。
<お兄さんがいきなり奈々華ちゃんのこと口説き出すんだもん>
「口説いちゃないよ」
何を馬鹿な。サナちゃんの指が「説」という漢字を書いていた時点から反駁したくなっていた。余裕がない。そのことから、俺は少なからず動揺していたのだと気付く。サナちゃんはわかったのかわからないのか、曖昧に笑ってから俺の手を離してトイレの方に首をめぐらせた。突如ご乱心の我が姫は、ごめんとしきりに繰り返してトイレへと逃げ込んでいった。カナも心配になったのかその後を追っていった。面倒見の良い彼女のことだ。上手く落ち着かせてくれているんじゃないだろうか。
「口説いちゃないよ。ただ…… 何と褒めて良いかわからなかったんだよ。あの子も難しい年頃だし、そのくせ俺には懐いてくれてるし、どう言葉を選んだものか考えあぐねて……」
言い訳くせえ。また俺の顔を見たサナちゃんは微苦笑といったところ。なおも何か言い募ろうと俺の本能が働きかけたところ、遮るように第三者の声が聞こえた。先程参加者達を誘導していた女性だ。見たところ妙齢だが、元気な声をしている。参加者全員に向けたようで、今から出演順を決める籤をやるということだった。なるほど、厚紙で作られたらしい箱を持っている。参加者達は全員着替え終わっていて、俺達と同じように観客用の椅子に座ってくつろいだり、落ち着かない様子で場内を歩き回ったり、他の参加者と談笑したり、皆思い思いに過ごしていたのだが、鶴の一声とばかりに全員が引き締まった表情になり、おもむろに列を成し始めた。
<どうしましょう?>
奈々華たちのことだ。代わりに引くか何かした方が良いのだろうか。
「すいません」
声を張り上げる。
「ツレが便所に行ってるんですけど……」
「ああ。まだ時間はあるから、帰って来てから引いてもらう形で大丈夫です」
貴方達は先に引いていて下さいという追加の指示も飛んできた。丁度先頭の赤毛の女性が籤箱に手を突っ込んでいるのが見えた。俺達も並ぶ。
26番という数字を俺はどう捉えれば良いかわからず、後ろで引いたサナちゃんの番号を見せてもらったが、27番という数字にまた反応に困るという結果に終わった。ちゃんと混ざっているんだろうか、コレ。全自動卓とかいう麻雀以外に何ら利用できない産業廃棄物でさえ、クシャクシャに混ぜ繰り返して、ゴミみたいな配牌をプレイヤーに届けるというのに。
「俺の後か。冷えてるか温まってるかのどっちかだね」
それも氷河期か火口かの程度で。なにせ俺が着ている衣装ときたら、何の変哲もない紺の背広。便所の前に捨てられていた衣装はいくつかあったのだが、その背広以外のラインナップを挙げてみると、フィギアスケートで着るようなナルシズム全開のものや、半魚人変身セットとか。とにかく主催者側が俺にどういった役割を期待しているのかよくわかった。それでも悩んだ挙句、ピエロではなく安定を取った俺は、しかしながら三枚目。カナがこれから少し手を加えてくれる予定だが、基が知れてりゃ結局は付け焼刃。そしてそんなルックスを期待されていない一発ギャグ要因が妙に色気づいて中途半端に着飾って出て行っても、場は白けるかもしれない。ただ真剣に見に来た人が多そうなら逆におふざけは不快感を与えるかもしれない。こればかりは客層を見てみないとどう転ぶかわからない。そしてどういった巡り会わせか、俺の後に出るのがサナちゃん。とにかく。少し視線を下げて年齢にしては少し小さめの少女を見る。不安なのか、俯いて抽選番号が書かれた紙の皺をちっちゃな手で伸ばしている。サナちゃんの迷惑になるようなことだけは絶対にやらないように、臨機応変に対応しよう。そう思った。
俺たちが引き終わって五分くらいすると、奈々華とカナも帰って来て籤を引いた。どういう顔をして奈々華と接しようか思いあぐねていると、あっちの方が俺よりも気恥ずかしいのか、あまり目を合わせずに抽選番号だけ見せてくれた。8番ということで随分前に終わるようだ。気まずい沈黙が横たわりかけた時にカナに呼ばれて俺は無駄な努力と言う名の化粧を施してもらうことにする。時計を見ると開始まであと三十分ほどに迫っていた。