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幕間 終末、コソコソっとはじめました 其の二

 炎に焼かれた神社をあとにして、影山はふらつく足取りのまま街を彷徨っていた。


 呼吸は荒く、喉は焼けるように乾いている。  だが、そんなことはどうでもよかった。


「どこ……どこだよ……」


 視線は落ち着きなく左右へと揺れる。


 路地裏。

 壊れた自販機の影。

 半開きのコンビニの扉。


 どこにもいない。

 どこにも、あの銀色の輝きは見当たらない。


「いるはずだろ……! だって、あの人が……あの人が、あそこで終わるわけ……」


 言葉が続かない。


 頭の中では、燃え盛る神社の光景が何度も何度も再生されていた。

 あの場所にいたはずの「推し」の姿が、炎の中に飲み込まれていく想像が、勝手に膨らんでいく。


「やめろ……やめろって……!」


 影山は頭を振る。


 そんなはずはない。

 あれは女神だ。

 奇跡そのものだ。

 あんな程度でどうこうなる存在じゃない。


 ――そう信じなければ、立っていられなかった。


 足は止まらない。

 ただ、あてもなく歩く。


 時折、遠くで魔物の気配にビクつきながら、影山はそれでも進み続けた。


 探す。

 探す。

 探す。


 理由なんて、もうそれだけで十分だった。


 だが――


「……は、はは……」


 どれだけ歩いたのか分からない。

 足はもう限界で、膝がガクガクと笑っている。

 魔力の使い過ぎか、視界もぼやけてきていた。


「……ちょっと、休もう……」


 そう呟いて、影山は近くの建物へと目を向ける。

 影山の視界に、燃え尽きた神社から少し離れた場所にある、小さな個人病院の看板が映った。


「病院……?」


 人の気配は――ない、ように見える。

 シャッターが半分だけ開いた入り口へと慎重に近づき、耳を澄ませる。


 その時だった。


 ――ガンッ!!


 中から、何か硬い物体を叩きつけるような鈍い音が響いた。


「ひっ!?」


 影山は反射的に身を引く。

 心臓が一気に跳ね上がる。


(な、なに……? 人……? いや、魔物……?)


 だが、その恐怖の奥に、別の感情が顔を出す。


(もしかして……)


 ごくり、と唾を飲み込む。


(……いるかもしれない)


 あの人が。


 推しが。


 危険に晒されているかもしれない。


「……い、行くしか……」


 震える手でドアを押す。

 きぃ、と軋む音がやけに大きく響いた。


 『透明人間』を深く潜らせる。

 気配を殺し、呼吸を整えて。


 影山は、ゆっくりと中へ足を踏み入れた。


 薄暗い室内。

 散らばった机と椅子。

 埃の匂い。


 そして――


「……」


 そこに、いた。


 影山は、息を止めた。


 銀色の髪。

 白い肌。

 紅い瞳。


 間違いない。


「……あ」


 声にならない声が漏れる。


 そこに立っていたのは、紛れもなく、あの少女だった。


 無事だった。

 生きていた。

 それだけで、世界が救われたような気がした。


(き、奇跡……)


 膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。


(神……いや、これはもう神の御業……!)


 胸の奥からねちっこい何かが溢れ出す。


(やっぱりだ……やっぱり僕の推しは特別なんだ……!)


 涙が出そうになる。


(これはもう……世界が、僕の推し活を応援していると言っても過言では――)


 ――その時。


「……ん?」


 涙が出そうになるのを耐えている影山の視界の端に、別の影が映った。


 しかも、二人。


「……は?」


 思考が一瞬止まる。


 視線を推しから、ずらす。


 そこには、椅子に縛り付けられた「くたびれたおっさん」がいた。


 ぐったりと頭を垂れ、ピクリとも動かない。


(だ、誰……? 死んでる、のか? あ……まさか、この人が……)


 影山の脳裏に、松下から聞かされた情報が過る。


 ――レベルが高く、ステータスが異常なほど高い。この窮地を救いうる、望月友人という名の協力者。


 だが、目の前にいるのは、ただのぐったりとしたおっさんだ。


(いや……これが本当に、あの松下さんが言っていた『望月友人』なのか……?)

 

 椅子に縛り付けられた男。

 しかも、なぜか全裸で。


(なんでこの人、裸なんだ……?)


 そして、それをすぐ目の前でじっと微動だにせず見つめる推し。


 何か見てはいけないものを見てしまったような気不味さが漂う。

 何かのプレイだろうか。

 影山には意味が分からなかった。


 確証が持てないまま見守っていると、そのすぐそばに、もう一人。


「……あ」


 影山の目が細くなる。

 見間違えるはずがない。


 竹原だ。


 竹原は手に持ったハンマーをスマホへと振り下ろすところだった。


 ――ガンッ!!


 先ほど聞こえた、何かを叩きつける音。


「チッ……」


 苛立たしげな舌打ち。


 そして、諦めたのかハンマーを放り捨てると、竹原はスマホを無造作に掴み上げた。


「……クソが。やっぱ壊れねぇか」


 そう呟き、窓の外へと投げ捨てる。

 スマホは放物線を描いて外へ――


 ――だが。


「……あ?」


 次の瞬間、何事もなかったかのように、縛られた男の元へと戻っていた。

 まるで、最初からそこにあったかのように。

 竹原はそれを見て、口の端を吊り上げる。


「……やっぱりな」


 確認した、とでも言いたげに。


 影山は、その光景を見ながら、内心で猛烈に憤っていた。


(な、何やってんだよあいつ……!)


 他人のスマホを勝手に弄り、あまつさえ壊そうとするなど。


(個人情報の塊だぞそれ! 警察官としてどうなんだよ……! 不祥事だぞ!)


 覗き魔がどの口で言うのかと、見事なまでの棚上げである。


 竹原は顔を上げ、銀髪の乙女へと視線を向けた。


「こいつのステータスは大体把握した。……まぁ、使えそうではある。こいつも犬にしちまうか」


 軽い口調。

 だが、その目は笑っていない。


「予定通り、避難所は俺が貰う。魅了した連中も、もう配置済みだ。合図一つで動く」


 ククッ、と喉を鳴らして笑う。


「松下も桐生も、他のうるせぇ奴らも、逆らうなら犬にするだけだ。……吸血鬼、分かってるな? お前も言うとおりにしろよ」


 だが――


 吸血鬼は、何も答えなかった。


 ただ、じっと一点を見つめたまま、動かない。


「……おい、テメェ聞いてんのか?」


 竹原の声に、ようやく反応する。

 しかし返ってきたのは、


「……ちょ、ちょっとの間、外すわ」


 それだけだった。

 なぜか動揺した声で。


 顔を俯かせ、そのまま踵を返す。


 影山の方へ――


「っ!?」


 心臓が止まりかける。

 影山の潜む、すぐ目の前を通り過ぎる。

 距離、数センチ。


(ちょっ、ちょっと!? ち、近っ……!?)


 甘い。

 今まで嗅いだことのない匂い、ふわりと揺れる銀髪。



 影山の思考が停止する――


 

 寸前で、影山は呼吸すら止めた。


 スキルを維持するために。

 意識を集中する。

 絶対に、気づかれるわけにはいかない。


 ――気合で、耐える。


 少女はそのまま、何事もなく部屋を出ていった。


「……」


 数秒後。

 影山は、ゆっくりと息を吐いた。


(い、生きてる……)


 膝が震える。


(今の……死ぬかと思った……)


 だが同時に、別のことも気になっていた。


(……なんか、ちょっと顔……赤くなかった?)


 ほんのりと上気していたような。

 口元も、わずかに緩んでいたような。


(……気のせい?)


 だが、考える余裕はない。

 竹原が再び動き出したからだ。


「……チッ。魔物がっ……。気持ち悪ぃ!」


 苛立たしげに頭をかく。

 だが、すぐに視線を縛られた男へと向けた。


「……まぁいい」


 にやり、と笑う。


「いい加減、このおっさんも起こしてやるか。はっ、泣き喚く姿が楽しみだ」


 そう言って、バケツを持ち部屋を出ていく。


 おそらく、水でも取りに行くのだろう。


 残されたのは、気絶した男と――


 透明なまま、固まっている影山。


(ど、どうする……?)


 頭の中がぐるぐる回る。


(この人……結局誰なんだ? 望月さんでいいのか? なんで捕まってる? 推しとどういう関係……?)


 分からないことだらけ。


(た、助けるなら、今がチャンス……いや、でも……)


 足が動かない。

 判断ができない。

 

 そうこうしているうちに――


 竹原が手にバケツを持って戻ってきた。

 不敵に笑い、そのままぐったりしている男の頭上へバケツを掲げ、


「ほらよ、いつまで寝てんだオッサン」


 ――バシャァッ!!


 容赦なく、水をぶちまける。


 そして、


「ぶはっ!? っつめてぇぇぇ!! おい!? なにすんだバカッ!?」


 全裸の男が文句を言いながら目を覚ました。



 ☆



 影山は、限界を超えていた。


 松下さんへの報告?

 避難所の危機?


 そんなものは「推しが目の前にいる」という事実の前では些事だ。

 魔力も体力も尽きかけの彼は、気合と根性だけでスキルを維持し、診療所の闇に溶け込んだ。


 そこからの展開は、影山にとって感情のジェットコースターだった。


 全裸で縛られたおっさんが、松下の言っていた協力者「望月友人」だと判明して一安心したのも束の間。

 竹原が推しへパワハラをかまして出ていき、傷心の推しの心の隙間へ、望月がぬるりと入り込んでいく。


(……待て。そのポジションは僕のだ。いや、僕ですら恐れ多くて近づけないのに……!)


 だが、推しが語る壮絶でエグい過去。

 それをすぐ隣で《《見守り》》していた影山は、ボロボロと涙を流した。


(やっぱりだ。僕が支えなきゃ。僕だけが、彼女の真の理解者として推し活を驀進しなきゃいけないんだ……!)


 勝手な決意を固める影山。

 しかし、事態は不穏な方向へ加速する。


 望月がいやらしい顔(影山フィルター)で甘い言葉をかけ、推しを勧誘し始めたのだ。


「……っ、この変態野郎……! 僕の推しを口八丁で拐かすつもりか!」


 堪忍袋の緒が切れ、姿を現してでも止めようとした、その瞬間。


 望月が、推しのステータスをスマホに表示させた。


 ――望月のスキル、『魔物鑑定』による、詳細なデータ。


 影山の『陰者』ゆえの視力が、その文字の羅列を正確に捉える。


 そこには――


「……え?」


 上から、95・58・90。


「……パ、Perfect Body(小杉感)……」


 影山の口から、思わずその単語が漏れた。

 同時に、脳内で封印されていた記憶の扉が今、凄まじい勢いで蹴破られる。


 真っ白い肌。

 背中に流れる銀髪。

 視界を埋め尽くす豊かな双丘。

 そこから絞られたようなくびれ、ムッチリとした肉感のヒップ。


 そして――備考欄に燦然と輝く、『処女』の二文字。


「しょ、処女……推しは、処女だったんだ……っ!!」


 あまりの衝撃と歓喜に、影山の集中力が霧散した。

 ふっとスキルが切れ、実体が現れる。

「あ」と口を押さえるが、幸い二人は部屋をあとにしようとしていたところで、振り返ることはなかった。


 影山はしばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。

 俗に言うユニコーンと呼ばれるオタク。

 その頂点に、今、影山光人は君臨ジョブチェンジしたのだった。


(処女……処女……。ああ、世界はまだ、希望に満ちている……!)


 ブツブツと限界オタク特有の呪文を唱えながら、彼はハッと正気に戻り、二人の後を追って病院を飛び出した。

 だが、外で見にしたのは、さらなる絶望だった。


「キコ……キコ……」


 遠ざかっていく、聞き覚えのある自転車の音。

 夕闇の中、望月が、推しを後ろに乗せてニケツしている。


「……ああああっ! あれはっ! 僕の、僕のサビサビ号(長年の相棒)じゃないか!!」


 変態パクリ野郎、望月。

 推しを毒牙にかけ、さらには愛車まで。


 影山は奥歯をギギギと鳴らし、血を吐きながらなけなしの魔力をさらに振り絞って『地獄耳』を推しにロックオンした。


 これさえあれば、離れていても音だけは拾える。

 いつだって、そばにいれる(ニチャァ)


 魔力が十全でないためか、電波の悪いラジオのようなノイズの中、二人の会話が聞こえてきた。


 ――《……自分より前に……偵察に来てた奴が……》

 ――《ああ、……覗き魔ね……》


(今、覗き魔って言った!? 言ったよね!? 今、推しが僕のことを覗き魔って……! うへへ、認識されてる! 推しに認知されてるよ、僕! ご褒美だ!!)


 影山の脳内は既に修復不能なまでにバグっていた。


 だが、会話が進むにつれ、影山の顔からどんどんと余裕が消えていく。


 避難所に到着したらしい望月と推し。

 しかし、耳には「ドゴォ!」とか「ドゴンっ!」とか、魅了兵たちを淡々と事務的に頭を殴り倒していく音が鳴り続けている。


 影山はそれを聞いて戦慄した。


(あ……こいつ、ヤベェやつだ)


 ただのおっさんだと思っていたが、思い返せばあの目は常人のそれじゃなかった。

 すべてを諦めたような、人間をその辺に生えている雑草を見るような、昏く濁ったあの眼。


(ま、まぁ……これだけ強ければ、推しの護衛として、隣に立つのを許さないでもない、かな……?)


 手のひらを見事に返した影山だったが、トドメの一撃は、その直後にやってきた。


 ――《……血、ちょうだい》


 推しの、ねだるような声。


 ――《首筋に噛みつくのは、そういう関係になってから》


 ――《……あーん》



 まるで、恋人に対してするような甘い蕩けたような声に、影山の思考がフリーズする。

 

「は……? い、今、なんて……?」


 ――《ちゅっ》


 生々しい、吸い付くような音。


 ――《……おいしい》


 蕩けたような、官能的な吐息。


 ――《はぁ……、んっ……ちゅ……》


 荒い息遣いが『地獄耳』を通じて、影山の脳髄に直接叩き込まれる。

 

「ちゅっ、ちゅっ」と血を貪る音は、影山には「熱烈なキス」の音にしか聞こえなかった。


「……ね、ね、ね、……N、T、R………あば、あばば、あばばばばばばば」


 影山の脳裏には、見たくもないイメージが浮かび上がる。


(イェーイ影山くん見てるー? 今から君の推し、僕が美味しく頂いちゃいまーす!)


「……ひぎぃぃぃぃぃいいっ!!」


 その場で奇声を上げ膝から崩れ落ちる影山。


 影山は、避難所まであと数百メートルの路上で、真っ白な灰になった。

 魔力も体力も、そして男としての尊厳もすべて使い果たした彼は、這いつくばりながら「処女……処女……」とうわ言のように呟き、夜の闇に消えていった。



 影山光人は、死んだ。

 肉体ではない。

 その精神こころが、完膚なきまでに破壊されたのだ。


 耳の奥に残る、推しの『ちゅ……』という淫らな吸血の調べ。

 それが自分の地獄耳を通して、直接脳髄に叩き込まれた瞬間、彼の世界は真っ白に染まった。


(あ、あばばば……ネ、ネトラレだ……。僕の、僕の処女が……っ! 推しが、あのぽっと出の変態野郎に……!)


 あまりのショックに、生存本能が「これ以上は精神が崩壊する」と判断したのだろう。

 彼の意識はブレーカーを落としたかのように唐突に、そして強制的にシャットダウンされた。

 いわゆる、現実逃避型の気絶である。


 ……それから、どれほどの時間が経っただろうか。


「……う、うぅ……」


 影山は、重い瞼を持ち上げた。

 視界に入るのは、星が綺麗に輝く夜空。


「あれ……僕、なんで……?」


 自分がなぜここで倒れていたのか、何をしていたのかが思い出せない。

 記憶の断片を繋ぎ合わせようとすると、こめかみの辺りがズキリと、松下に殴られた時とはまた別の鋭い痛みを発した。

 彼の脳が、あまりの惨劇(妄想含む)に、その瞬間の記憶を厳重に封印した証拠だ。


「……そうだ、推しだ! 僕の推しはどこだぁぁ!!」


 ガバッと跳ね起きる。

 気絶と共に『地獄耳』のスキルは解除されており、周囲の音は平穏そのもの。

 それが逆に、彼を不安にさせた。


(まずい、まずいぞ! 僕が見守っていない間に、彼女に何かあったら……! 竹原くんの毒牙にかかっていたら、僕は……僕は、末代まで自分を呪う!)


 気絶による「強制睡眠」で僅かに回復したMPと体力にムチを打ち、影山は必死に避難所のある方角へと走り出した。


 数分の後、避難所へと到達した彼の目に飛び込んできたのは、無残にも燃え落ちたドン◯の象徴たるあのペンギンのオブジェ。

 そして、駐車場に転がっている、魅了を解除されてぐったりとした男たちだ。


 その男たちを、血で造られた小さなコウモリたちが懸命に運んでいる。


「……おおぉ……。これが、推しの血液魔法……! なんという機能美、なんという尊さ……。あんなコウモリですら、推しの慈愛に満ちている……ッ!」


 溢れ出す影山特有のキモい感傷を垂れ流しながら、彼はさらに加速する。

 きっと今頃、竹原が避難所で暴れ回り、推しがピンチに陥っているはずだ。


 それを救うのは、この僕――影山光人しかいない!


「待っててね、僕の推し……!」


 そして、彼は息を切らしながら、竹原や望月、最愛の推しがいるはずの避難所内へと飛び込んだ。


 そこで彼が目にしたのは、血みどろの決戦――


 なんかではなかった。


「……え? あれ?」


 影山は、言葉を失い固まった。


 視界の中央。

 そこには、自らの豊かなおっぱいを両手で持ち上げ、これでもかと強調して隣にいる望月へと見せつけている推しの姿があった。


「おい、だからここでやるなよ! あとにしろ!」

「だって貴方、ウメノのおっぱいばかり見てるんだもの」

「……望月さん、変態」


 そして、その対面にいるのは、避難所のアイドル(影山公認)こと、国宝級の神乳を持つ梅野さんだ。

 彼女もまた、推しに対抗するように少しだけ胸を張ってその圧倒的な質量を見せつけている。


(な……なんだ、これは……。天国? ここは、神々の遊び場か何かなのか……?)


 あまりの光景に鼻血を噴き出しそうになりつつ、視線を巡らせると、そこには松下もいた。

 しかし彼は、まるですべての煩悩を捨て去り、解脱してしまったかのような「無」の表情で、遠くを見つめて黙り込んでいる。


 さらに広間の隅に目を向けると、そこでは桐生に抱えられ、何故か毛布にぐるぐる巻きにされた竹原が、無残な姿で運び出されているところだった。

 同僚や避難民も手当てを受けている。


 そう、事態は完全に収束していた。


「……なんだ……。何が起きたんだ……?」


 影山が呆然と立ち尽くしていると、鼻をつく異様な臭いが漂ってきた。

 スパイシーで、それでいて致命的に不潔な、あの独特の臭気。


(……うっ。……なんか、めっちゃ臭い。何これ……え、何があったの本当に!?)


 自分が「寝取られ」に絶望して気絶している間に、世界は「脱糞」と「神乳抗争」へと塗り替えられていた。

 影山の理解を遥かに超えた現実に、彼はただ、痙攣するように口角をピクつかせることしかできなかった。


「……では、望月さん。あなた方は休んでいてください。後始末は我々が」

「じゃあ……お言葉に甘えて。おい、吸血鬼。いつまでもやってないで行くぞ」


「あ、ちょっと待ってよ! ウメノ、あなたも来なさい。いろいろ話を聞きたいわ」

「えっと、はい。私も何があったのか聞きたいですし、ご一緒しますね」


 推しが梅野の手を取り、望月の後を追うようにして駆けていく。

 影山はそれを追いかけようとして――やめた。

 視界の端に、同僚や避難民たちの傷ついて倒れている姿が映ったからだ。

 ただ、当然のことながら去っていく推しに『地獄耳』を貼り付けていたが。


「あ、あの……松下さん……!」


 影山は『透明人間』を切り、松下の前へと姿を現す。


「おや、影山くんですか……」


 振り返った松下の視線が、影山の目を貫いた。

 悟りを開いたような仏の顔ではなく、警察官としての厳しい表情をして。


「……っ! あ、あの、ぼ、僕が……」


「……いえ。君が無事で何よりです」


 松下は影山から視線を外して申し訳なさそうに零した。


「……私としたことが、竹原くんにしてやられました。見てのとおりです。なんとも……情けない」


 松下の絞り出すような声に、影山は息を呑んだ。

 いつも泰然自若として、仏のような微笑みを絶やさなかった上司の肩が、微かに震えている。


「松下、さん……」


「……避難所の指揮に集中するあまり、足元の毒蛇に気づかなかった。私の甘さが、多くの負傷者を出し、市民を恐怖に陥れた。……全ては私の責任です」


「違いますっ! 松下さんは悪くない!」


 そんな松下を見て、影山は思わず叫んでいた。


「……竹原くんだ、あいつが卑怯な真似をしたんでしょう!? 人質とか、搦手を使って……! 松下さんなら、本気を出せば、あのスキルを使えばあんな奴……!」


「……ええ。切り札を使えば、彼を止めることはできたでしょう。ですが……私は躊躇してしまった。状況的にも、心情的にも、ね。それがこの結果です」


「……っ、そんなの……そんなの、僕のせいです!!」


 影山は拳を固く握りしめた。

 視界に入る、手当てを受ける同僚たちの痛々しい姿。

 怯える子供たちの泣き声。


「……僕は、何のために警察官になったんだ……。弱い人を、守るためじゃなかったのか……。なのに僕は、自分の欲望を優先して……!」


「影山くん……君に望月さんのサポートを命じ、現場を空けさせたのも私の判断です。君が自分を責める必要はない」


「でもっ……! 僕がここにいれば、僕の『耳』と『目』があれば、あいつの不穏な動きだって事前に察知できたはずなのに……! 僕は、何をやってんだ……ッ!!」


 情けなくて、涙が溢れる。

 推しの裸に目を奪われ、吸血音に悶絶して気絶していた自分。

 その間に、街を、人々を守るために戦っていた仲間たちがいた。

 『陰者』なんて自嘲していたが、その力は本来、誰にも気づかれずに危難を払うためのものだったはずだ。


「……影山くん」


 松下が、影山の肩にそっと手を置いた。


「……悔やむのは、ここまでにしましょう。幸いなことに、最悪の結果は免れました。竹原くんの計画は阻止され、死者は一人も出ていない。……それは、望月さんと……あの、吸血鬼さんのおかげでもあります」


 松下はふっと、憑き物が落ちたような顔で微笑んだ。


「さぁ、顔を上げなさい。警察官としての仕事は、まだ終わっていませんよ」


「……は、い……っ!」


 影山は乱暴に袖で涙を拭った。

 鼻を啜り、いつもの猫背を少しだけ伸ばして、上司と向き合う。


「では、影山くん。報告を。……望月さんからも軽く事情は聞きましたが、君の視点から見た、事の経緯を正確に把握しておきたい。……偵察の結果を」


「了解しました。……私情を抑えて、報告します」


 影山は居住まいを正した。

 病院での竹原の動向、望月との接触、そして推し――吸血鬼とのやり取り。

 彼は努めて冷静に、事実を淡々と述べ始めた。



 しかし。



(……あ、れ。地獄耳に……)


 報告の最中、彼の『地獄耳』が、休憩所へ向かった三人の声を勝手に拾い上げてしまう。



『――ちょっと貴方。ウメノのおっぱい見すぎじゃない? なによそのスケベな顔。鼻の下伸ばしてやらしいわね』

『伸ばしてねぇよ! 俺は御神体に挨拶してるだけだ! 他意はない!』

『ふーん、本当に? 随分と啓蒙なこと。……じゃあ、その信仰、試してあげるわ』

『え? ちょっ、吸血鬼さん!? や、やめ、……あんっ……!』

『お、お前! 神乳に何してやがる! うらやまけしからん!』

『ほらほら、本当に他意はないのかしら? 目の前で貴方の言う御神体がこーんなことになってるのに? ……って、なにこれ見た目通りすっごいわね!』

『あ……いや……っ、……やめ、吸血鬼さ……んっ……!』

『ありがとうございます……ありがとうございます……! お、俺も触っていいすか!?』



「……影山くん? どうしました、急に黙り込んで。顔色が、また……なんというか、ドス黒いことになっていますが」


 松下の怪訝そうな声が遠くに聞こえる。

 影山は震えていた。

 先ほどまでの「熱い警察官の魂」は、どこかへ霧散していた。


(……この……っ、この、寝取りパクリ変態おっさん野郎ぉぉぉ……ッ!! 推しの純潔だけじゃ飽き足らず、神乳にまでその毒牙を……! さっきまで、ちゅっちゅっちゅっちゅっしてたくせにふざけんなよクソがぁぁぁぁ!! ……ん? 寝取り? ちゅっちゅっ? 僕は何を言って……)


「……影山くん?」


「……あ、いえ……っ。申し訳ありません松下さん、ちょっと……地獄の、地獄の片鱗が聞こえてきたもので……」


 影山は怒りと混乱で奥歯をガタガタ鳴らしながら、あわよくば地獄耳経由で自分もその「神聖な音」を中継したいという卑しい欲望を必死に抑え込みながら、血の涙を流して報告を再開した。


 警察官としての正義感と、限界オタクとしての殺意。

 その二つが入り混じった、極めて不安定な報告会が夜の避難所に響き渡った。

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