噂はぜんぶ、嘘でした
「やっと私の国宝になってくれたね。ずっと愛していたよ」
初夜の寝室で、公爵が放った第一声がそれだった。
わたしは硬直したまま、言葉の意味を理解できずにいた。
国宝。愛していた。ずっと――?
「あ、あの、人違いでは……わたし、本日はじめてお会いしたかと」
「君は覚えていないだろうね」
クロードは銀の髪をかき上げ、わずかに目を伏せた。その表情は、怪物どころか、はにかむ少年のようだった。
「三年前。社交界デビューの夜会で、転んだ令嬢を助けた子がいた。誰もが見て見ぬふりをするなか、ただ一人ね。あれが、君だ」
記憶の底で、何かがほどけた。
たしかに――壁際で泣いていた女の子に、手を差し出したことがあった。
「それで私は、君を探していた。フォードリック家に縁談を申し込んだのも、私だ」
「で、でも、噂では……公爵様は、女性に興味がなく、人を……」
「ああ」
クロードは、ふっと笑った。氷が溶けるような、不思議な微笑みだった。
「あの噂は、全部、私が自分で流したものだ」
「えっ」
「美しい令嬢には、悪い虫が集る。だが『人殺しの男色家』だと噂が立てば、誰も君に近づけない。私が君を迎えるまで、君を傷つける者を一人も寄せつけたくなかった」
つまり――冷酷無慈悲の噂は、ぜんぶ虫除けの嘘。
わたしは、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
*
翌朝から、わたしの生活は一変した。
「目が覚めたか。寒くはないか? 朝食は何が食べたい?」
寝起きの第一声がそれである。
部屋には毎朝、新しい花が届いた。
クローゼットは、見たこともない数のドレスで埋まっていく。
宝石箱は、開けるたびに増えていた。
「クロードさま、こんなに……いただけません」
「足りないか? すぐに宝石商を呼ぼう」
「逆です! 多すぎます!」
「多い、という概念が私には理解できない。君に似合うものは、世界中の宝石を集めても足りない」
大真面目な顔でそう言うので、こちらが恥ずかしくなってしまう。
食事の席では、わたしの皿に一番いいところを取り分け、寒い日には自分の上着をそっと肩にかけてくれる。
夜、悪夢にうなされて目を覚ますと、いつの間にか彼が枕元に座って、わたしの髪を撫でていた。
「怖い夢か。大丈夫、ここに私がいる」
その声を聞くと、不思議と眠りに落ちられた。
侍女頭になったハンナ――公爵が実家から引き抜いてくれた――が、こっそり耳打ちした。
「お嬢さま。旦那さまは、お嬢さまが嫁ぐと決まった日から、毎晩眠れずに準備をしておられたそうですよ。ドレスの色も、花の種類も、全部ご自分で」
「あの、氷の公爵が……?」
「ええ。使用人たちの間では『姫君が来てから、城に春が来た』と評判です」
窓の外で、クロードが庭師に何か指示している。
わたしのために、バラ園を作っているのだという。母が好きだった花だと、いつか何気なく話したことを、彼は覚えていた。
恐ろしいはずの横顔が、今は朝日に照らされて、ただ優しかった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
殺されると覚悟して来た場所で、わたしは生まれて初めて、大切にされていた。
*
そんなある日。
ハンナが、一通の手紙を持って青ざめた顔で駆け込んできた。
「お嬢さま、大変です。ベルタ様とソフィア様が――『様子を見に行く』と」
手紙には、こうあった。
『さぞ憔悴していることでしょう。骨を拾いに参ります』
ふふ、と思わず笑いがこぼれた。
骨を拾いに?
このわたしの。
その話を聞いたクロードが、ティーカップを置いて、すっと目を細めた。
氷点下の、冷たい眼差し。
久しぶりに見る「噂どおりの公爵」の顔だった。
「――そうか。君を売った連中が、わざわざ来てくれるのか」
彼は、ぞっとするほど優しく微笑んだ。
「ちょうどいい。私の妻を傷つけた礼を、たっぷりさせてもらおう」




