プロローグ【2】
瞼の裏が白む。明るい光が告げる朝に気が付くと、何かが柔らかく前髪に触れた。薄く開いた視界に、誰かがベッドに腰を下ろしているのが見えた。
「おはよう。よく眠れたか?」
穏やかな声が優しく問いかける。曖昧に頷きながら、数回、瞬きをした。カーテンの隙間から漏れる朝陽に目が眩む。
「どんな夢を見た?」
「……わからない……」
寝覚めでぼやけた視界に人影が浮かぶ。温かい指がするりと目元を撫でた。
「……だれ……?」
「また僕の顔を忘れたのか?」
呆れを湛えた声が、溜め息とともに言う。その顔を確かめようと、少しだけ腕に力を込めた。目覚めたばかりの体が重い。
「僕はシドニー・グレンジャーだ。いつもそう言ってるだろ」
「……ああ……うん、そうだね」
深い逆光に目を細める。顔はよく見えないが、彼は確かにシドニー・グレンジャーだ。何度も確かめているのに、いつもわからなくなってしまう。寝惚けた頭に回転を求めるだけ無駄なのかもしれない。
「……ねえ、シドニー……」
「ん?」
「……どうして……、……ううん、なんでもない」
頭を枕に戻す。何かを考えたところで徒労に終わる。彼には、何もわからないのだから。
「僕は仕事に行く。体調が良くないなら、もう少し眠るといい」
「……うん……大丈夫」
彼が曖昧に頷くのを合図に、ベッドが小さく揺れる。陽を遮るものがなくなり、眩さに痛んだ目を閉じる。窓の音を最後に、意識は微睡の中に溶けていった。
――……
重い瞼を持ち上げても、この眼に映るのはただ無意味な世界だけ。
粗い砂嵐が視界を横切り、横暴な風が体に叩きつける。均衡を崩して瞬きすれば、無数の羽根が埃を立てた。
不快な雑音が走り、不協和音が響き渡り、不躾な叫びに鼓膜が破れてしまいそうだ。
あの煌めきは、償いの白昼夢。熱意の陰に押し出され、漏らした溜め息は肺を冒し、目が眩むような罵倒に掻き消される。
インクの染みは湖となり、濃霧は妖精の囁きに揺れた。くすくすと可笑しそうに笑う声に心を閉ざし、垣間見えた横顔は、遠い忘却を覗いて堕ちた。
こんな世界なら、もう眠りを妨げる必要はない。もう目覚める理由はない。
だからもう、誰も、僕を望まないで。
誰も、希望の名前を知らないのだから。
この星屑の世界で、呑まれるように眠れたら……――
……――
重い瞼をようやく持ち上げると、カーテンの向こうはすでに煌々と陽の光に溢れていた。ベッドの上に体を起こせば、眠気に引き摺られているかのように力が抜ける。それでも、そろそろ起きなければならない。
シリル・ラトは早起きすることができない。だが、その必要がないことは彼自身も他の者も同じ認識だ。早く起きたところで意味がないからだ。
シリルがようやくベッドのそばのスリッパを見つけると、コンコンコン、と遠慮がちなノックの音が鳴る。静かに開かれたドアの隙間から、若い侍女が顔を覗かせた。
「シリル様、おはようございます」
「おはよう、アイレー」
シリル付きの侍女アイレーは、手早く朝の支度をする。シリルが顔を濯いでいるうちに、鏡台の椅子にジャケットとスラックスが用意されていた。着替えはシリルがあくびをしているあいだに終わる。あとは、アイレーが満足するまでシリルの髪を整えれば完了だ。
耳元にかかる髪を避け、装置を着用する。アイレーが簡単な手直しをした。
「いかがですか?」
「うん、大丈夫」
邪魔でしかないと思っていた装置も、いつの間にか慣れている。これがないといけないということはないが、これがなければ不便だということは自覚していた。
「今日は来客の予定がありますが、体調はいかがですか?」
「ん……誰が来るんだっけ……」
「シリル様がお呼びになられたんじゃないんですか? あたしたちは詳しくは存じ上げませんけど……」
「ああ……そうだっけ」
まだ寝起きで頭がぼんやりしている。それはアイレーには百も承知だ。こうして鏡台の前に座っていると、また寝てしまいそうになる。それでも、アイレーが咎めることはないだろう。
「……ねえ、アイレー」
「はい」
「僕が起きたときにいつも居るあの人は誰?」
逆光の中に見えた人影を思い返しながら言うシリルに、アイレーは不思議そうに首を傾げた。
「どなたのことですか?」
「……わからない」シリルは俯く。「僕には何もわからない」
アイレーは柔らかく微笑んで、安心させるようにシリルの肩に触れる。
「大丈夫です。いつも通り、あの子に任せておけば大丈夫ですよ」
「……うん……そうだね」
あの子に任せておけば問題ない。そう確かめると、シリルはまた瞳を閉じた。




