6.暴かれる完璧、あるいは毒蛇の報復
6.暴かれる完璧、あるいは毒蛇の報復
翌朝、バルトは宣言通り、数人の法務官と会計士を伴って現れた。
彼らは皆、バルトが領地から呼び寄せた腹心であり、主君と同じく隙のない、感情を削ぎ落とした冷徹さを纏っている。
「アメリア、準備はいいかな。早々に書類の確認を済ませてしまおう。君をこれ以上、この薄暗い屋敷に留めておくのは忍びないからね」
バルトは穏やかに微笑みながら、応接室の長テーブルに陣取った。法務官たちが広げたのは、子爵領の負債リストと、伯爵家への資産移譲に関する合意書だ。
セドリックは、部屋の隅で影のように控えていた。
バルトは一度も彼を見ようとしない。
まるで、そこにある壁や椅子と同じように、意志のない静物として扱っているかのようだった。
「セドリック、お前がまとめたという帳簿を出せ。我々が精査し直す」
バルトの側近が命じると、セドリックは一言も発さず、一冊の古い帳簿をテーブルに置いた。
バルトはそれを手元に引き寄せ、流れるような動作で頁を捲っていく。
「……ふむ。エドワードの放蕩による負債額、未払いの給金。よくまとまっている。お前にしては、上出来な事務処理だ」
バルトは感心したように頷きながら、傍らの法務官に目配せをした。移譲の書類にサインを促す合意書が、アメリアの前に差し出される。
「さあ、アメリア。ここにサインを。これで君は、エドワードの遺した泥沼から解放される。伯爵家がすべてを肩代わりし、君の生活は私が保証しよう」
アメリアはペンを手に取り、セドリックを見た。
彼は、微かに口角を上げていた。
それは、獲物が罠の真上に足を置いた瞬間に、猟師が見せる悦びの色。
「……兄上。その帳簿の最後から三頁目をご覧になりましたか?」
セドリックの静かな声が、部屋の空気を震わせた。
バルトは不快そうに眉を寄せたが、余裕を崩さぬまま、指摘された頁を捲った。
「最後から三頁……? これは、エドワードが裏ギルドから借り入れていた金の、詳細な出所リストか……。それがどうした」
「その貸し付け元である商会の筆頭出資者を、お調べください。兄上が完璧に統治されているはずの、伯爵領の運営資金から流用された形跡がございます」
バルトの動きが、止まった。
柔和な仮面の下で、彼の瞳が鋭く細められる。法務官たちが慌てて別の書類を広げ、照合を始めた。
「……馬鹿な。私の管理に、そのような不備があるはずがない」
「ええ。兄上は完璧です。ですが、あまりに実利を急ぐあまり、中間の商会がどのような『不純物』を混ぜ込んでいるかまでは、目が届かなかったようですね」
セドリックがゆっくりと歩み寄り、バルトの背後で立ち止まった。
「エドワード兄上は、あなたの知らないところで、伯爵領の『表に出せない資金』を吸い上げて遊興費に充てていた。この帳簿が王宮の監査官に渡れば、伯爵家の運営そのものが疑われることになります。……さて、これを『精査』し直すのは、本当に懸命な判断でしょうか?」
静寂が応接室を支配した。
バルトの額に、一筋の汗が流れる。
貼り付けていたはずの完璧な笑顔は、今や張り付いた薄い皮一枚のように危うく、その内側から憤怒と動揺が漏れ出し始めていた。彼は初めて、セドリックを「どうでもいい無害な弟」ではなく、自分の盤石な足元を崩しかねない「厄介な敵」として認識した。
「……お前、最初からこれを……」
「兄上が、わざわざこの屋敷まで私の獲物を奪いに来ると仰ったので。歓迎の準備を整えておいたまでです」
セドリックはアメリアの隣に立ち、当然のような顔をして、彼女の肩を抱き寄せた。
バルトは内心で怒り心頭であったろうが、表情を劇的に崩すことはなかった。それが「優秀な嫡男」としての彼の限界であり、矜持でもあった。
「……なるほど。認めよう、セドリック。お前は私の想像以上に有能、あるいは……厄介だ」
バルトは深く息を吐き、静かに書類を閉じた。そして、崩れかけた笑顔の仮面を辛うじて繋ぎ合わせると、冷徹な取引を持ちかける。
「交渉をしよう。私はこの子爵領の利権から手を引く。その代わり、その帳簿は今ここで処分しろ。伯爵家の名誉を傷つけないと誓うなら、お前の不遜な振る舞いはすべて不問に処そう」
「条件がございます。今後、アメリア様のことには一切干渉しないと誓ってください。それさえ守っていただけるなら、私は兄上の『完璧な治世』を脅かすつもりはありません」
バルトの瞳から、アメリアへの慈しみという名の執着が消え、冷ややかな損得勘定が支配した。
「……いいだろう。アメリアについては、お前に任せる。エドワードの不始末も、お前が責任を持って葬れ」
バルトは立ち上がり、最後まで取り乱すことなく出口へと向かった。
彼は一歩引くことで、より大きな致命傷を避ける道を選んだ。領地に戻り、体制を立て直すことが最優先だと判断したのだろう。
「アメリア。……君の選択が、正しいものであることを祈っているよ。……セドリック、次は領地で会おう。その時は、お互いもう少し穏やかにいこうではないか」
バルトは最後まで「優秀で家族を思い遣る兄」としての体面を保ち、悠然と屋敷を去っていった。
もはや、彼がこの屋敷の主権を主張することはないだろう。
「……お疲れ様、セドリック」
「いいえ。……これでようやく、邪魔な『家族』が消えました」
セドリックはアメリアの前に膝をつき、安堵したような、しかし熱を帯びた瞳で見上げた。
「兄上は賢明な方だ。私がアメリア様にしか興味がないことを、正しく理解してくださった。……これからは、誰にも邪魔されません」
伯爵家という巨大な盾を、セドリックは自らの計略で遠ざけた。
アメリアは、彼の手を取り、その深く暗い情愛が作り出した静寂の中に、身を委ねることに決めたのであった。
(第2章 第6話 完)




