曖昧な境界線
───『英雄』。
弛まぬ継続の末、頂きに至った者への称賛と憧憬か。
人生を費やした愚者への嘲りと憐憫。或いは嫉妬か。
しかして、その言葉に如何なる意味が込められていようと、それを投げかけられる本人にとっては自身を煩わせるノイズにすらなり得なかった。
現実から逃げ出し、迫りくる空虚から逃れるために、果てしない作業を己に課すことで思考を塗りつぶし続けてきた。
強さ(レベル)などその結果にしか過ぎなかったからだ。
そうして迎えた今日、大型アップデートの日──新たな頂きの先を、誰よりも、何よりも、身を焦がすような思いで迎えた……はずだった。
「なのに、なんでこんな……」
そうつぶやきながら、自分の体にそっと視線を落とすと、そこにはほぼ生まれたままの姿の女体があった。
現実の自分の肉体とは違う、しかして十五年という月日を共に歩んできた、見慣れたはずの白皙の肢体。
だが、その姿に僅かな違和感を感じる。視点の高さは変わらない。ただ、視界に入るその指先や腕の輪郭は、記憶にある「彼女」よりもどこか肉付きが薄く、未成熟なようにも見えた。
覗き込んだ水面に映る顔も、高原特有の強い風に揺れていてはっきりとは見えないが、やはりどこか幼いような……そんな形容しがたい違和感が意識の端をかすめる。
とはいえ……。
「……まぁ、自分の顔なんて滅多に見ないしなぁ……」
現実でも人間が鏡を使わなければ自身の顔を見られないのと同様、ログイン中に一体と化しているアバターの顔を眺める機会など、そう頻繁にあるものではない。
「う〜ん、まぁ、今はそこ気にしても仕方ないか」
寧ろ気にするべきは、自身の肉体が完全にアバターの姿になっていることの方だろう。
ログオフしている時間よりもログインしている時間のほうが圧倒的に長い生活を十五年も続けてきたお陰というべきか、弊害というべきか。
或いは先程のステータスを見た時に感じた、謎の『繋がった』感覚のおかげか。
自分でも驚くほどに、『葉月』の身体になっていることに違和感を覚えることはなかった。
「まぁ、ここが現実でモンスターがいるなら、この姿の方が好都合か」
もし『八神陽希』のままここにいたとしたら、先程カプラに襲われた時点でジ・エンドだっただろう。
そういう意味では、明らかにメリットの方が大きく感じられる。
ちなみに……なぜ女性のアバターを選んだかと言えば、特に大きな理由はない。
リリース当初に一緒にプレイをする約束をした学友が、「なんで現実でもムサイ男なのに、ゲーム内でもムサイ男の姿を見なきゃならんのだ。女にしろ女に」と言い放ったことに対して、まぁ別にゲームなんだし女のアバターでも良いか、そう思った程度の話である。
とまぁ、今はそんなことはどうでも良く、もっと大きな問題が二つある。
まず第一に、シンプルに『この世界は何なのか』ということである。
パッと思いつくだけでもいくつか考えられるケースがあり……それと同時に懸念すべき点がある。
真っ先に思いつくのは、ここはやはりゲームの中で、ドッキリイベントか何かでしたというものである。
しかしてそれは、先程までの出来事から有り得ないと断定された。
一つはリアリティの問題。五感を刺激する全てのものが現実以外にはあり得ないと教えてくれる。
加えて先程の戦闘だ。
『アビスゲートオンライン』において倒した敵は時間の経過とともに消滅する仕様である。しかし、あのモンスターの死体はいつまでもそのままであった。それに内臓がピクピクするような仕様もない。
……いや、思い出すのはやめよう……。
更にもう一つ、AGO内に排泄の仕様もない。
こちらもあまり良い思い出ではないが、あの時の出来事は現実以外では有り得ない現象なのだ。
これらの事を複合的に考えた上でここがゲームだと主張するのは、流石に現実逃避が過ぎるだろう。
では次に考えられるのが、何かしらの理由でゲームの中に入り込んでしまった、あるいはゲームによく似た世界に転移……あるいは転生してきた……というケースである。
フィクションとしては使い古された手法過ぎてどうかと思うが、いざ自分の置かれた状況を考慮すると、それが一番可能性としてはありそうだった。
その他にもいくつかのケースが考えられるが……今ある情報では所詮、可能性の域を出ない.
であれば、先程の転移説を仮定して考えておくのが建設的だろう。
では何が問題かというと……ずばり、現実の自分の身体である。
体ごとこの世界に転移してきたならば、まだ良いだろう。いや、良いのかは分からないが。
ただ今の自分の体は、ゲーム内アバターにそっくりなソレである。
であるならば、意識『だけ』がゲームの中に入り込んでいた可能性があり、そうなると現実……いや、地球と表現すべきか。
地球とこの世界の時間の流れ方が同じなのかは分からないが、もし同様の時間の流れであるならば、地球には抜け殻状態で今も体が放置されている可能性がある。
基本的に引き籠もりの自分が、誰かに発見される可能性はかなり低い。
ある程度の長期間になれば何かしらの理由で発見される可能性もあるが、直近でデリバリーの依頼やオンラインショッピングもしておらず、郵送物が届く予定もない。
となると、飲み食いもせず放置されたままになる自分の体は、数日後には死を迎えることになるだろう。
逆に死ななければ、意識と肉体がリンクしていない状態か、あるいは肉体ごとこちらの世界に移行している状態ということになるが……となると、なぜ地球における自分の体ではなくアバターの状態なのかという問題に立ち返る。
とはいえ、どれも仮定の話だ。
疑問も不安もあるが、生きるか死ぬかの答え合わせは数日後。それ以外のここがどういう世界なのかという疑問に関しては、答えがあるかも分からない。
ゆえにそちらの問題は一度棚に置き、もう一つの問題に思考を移すのだが……。
『■■』は、気が付けない。
生と死、現実と虚構。
命が掛かった事柄をあっさりと棚上げにし、思考を切り替えられているという事態の異常さに。
その思考の変化が『彼』に寄っているのか、『彼女』に寄っているのか……。
自らの境界線が曖昧になっていることに……。
『■■』は、気が付けない。
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