第五話
「――私は」
「起きたか?」
闇に溶け、曖昧になった意識が持ち上がる。目を開けた私は、清潔な白い部屋にいました。
私の部屋ではありません。どうしてここにいるんでしたっけ? 体を起こすと、大きな怪我もないのに、ひどく重い。
「大丈夫か? セメナ」
近くの椅子に腰かけた副隊長殿が、淡々とした中に不安をにじませる声で聞いてきました。いつもと同じ無表情に、私の記憶は蘇る。
「あっ――フリドは! “魔術師”フリドはどうなって」
「取り逃がした。手傷こそ与えたが、な。すまない」
副隊長殿は詫びるように小さく頭を下げました。どうして副隊長殿が謝る必要があるというのでしょうか。
見れば、モスグリーンの制服の端から、包帯が巻いてあることが分かります。手傷を負わせたという副隊長殿も、少なからず手傷を負っているのです。
「とりあえず、今は休むといい」
「副隊長殿はこれからどこへ?」
私が目覚めたと知るや、副隊長殿は椅子から立ち上がりました。
「ひとまず、けじめはつけないといけないだろうな。憲兵課だけに任せてもおけん」
副隊長殿は腰に剣を携えていました。私のいる病室の扉は音もなく開いて、閉じる。副隊長殿の姿はすぐに見えなくなってしまいました。
けじめ、とは死んだズアイとジロウラのことでしょうか。それともフリドのことなのでしょうか。
私たちに開拓者たちのアジトの情報を教えた第五小隊が、何者かの手によって処分されたと知ったのは、私が病室から出られるようになった翌日のことです。
*
フリドとの遭遇と取り逃がし。貧民区画の崩壊。ズアイとジロウラの死。これらの案件で、副隊長殿はしばらく事務仕事に追われるそうです。
そしてフリドとの戦いを知らない魔人たちは、「裏切り者だからフリドを逃がした」だと、「裏切りの次は味方殺しか」などとあけすけな悪意を副隊長殿に向けていました。
悪意にまみれた環境で、かつての仲間からすら殺意を向けられる中で、副隊長殿はやはり淡々と、自分のすべきことをしているのです。
「はぁ……」
小隊の仲間だったズアイとジロウラは死に、副隊長殿は書類に追われている。私は夜の都市を一人で巡視していました。
夜は基本的に家からの出入りは禁止となっています。例外は私のような見回りの統率局の局員か、“管理民”以上の方々のみ。
開拓者どもは夜も構わず出歩くのでしょうが、それも貧民区画です。私の今回っている秩序正しい区画に出ることはめったにありません。
だからこそ、私一人だけでも巡回ができるというわけです。
「静か、ですね」
魔人の気配無き夜は静寂に包まれています。“都市”の建物に明かりがともっていないかを確認し、手に持った魔導光で怪しい魔人がいないか確かめる。
巡視があることを示すだけの、仕事らしい仕事でもない仕事です。秩序を守る“労働民”として当然の責務ではありますが、今日に限ってはどうしても無為なことを思えてしまいます。
私のそばに、仲間が誰もいないからかもしれません。
大事な任務中であるにもかかわらず、私の思考は取り留めのない方向に傾いていきます。
敬愛する副隊長殿がどのように生きてきたのか。副隊長殿――レン殿は貧民区画の最底辺。生んだ両親すらわからないような場所で生まれた、生まれながらのブラックだったと聞きたことがあります。
ブラックの魔人の行き着く先など決まっています。開拓者。レン殿は開拓者として成長し、頭角を伸ばし――ある時突然開拓者の仲間たちを裏切りました。
開拓者として有名だったレン殿が統率局の局員になるために積んだのは、部下であり、仲間であった百人の開拓者の死体の山。
レン殿は開拓者であったことを後悔して、統率局に入った様子ではありません。フリドの会った時の顔を見ても、深い理由があったではないかと思わざるを得ません。
『なんで裏切った! 僕たちの約束はどこへ消えた! お前は! レンは壁の向こうを見たのか!!』
フリドが発した一言。仮にレン殿の心変わりが壁の向こうにあるのだとしたら、
――壁の向こうで、レン殿は何を見たというのでしょうか。
「こんばんは」
考え事をしていたからでしょうか。私は目の前にある“異常”の存在に気づくのが遅れました。
「――え?」
暗い“都市”の道の片隅に、それはいました。
存在感は希薄。声をかけられなければ気づくこともできなかったでしょう。それほどまでに、それは夜闇に似合う。
闇に紛れるように、髪の色は黒。地に着くほど長く、一本一本がばらけて見えるほどに、整えられておらず、艶もない。
背の丈は女としては大柄私よりも小柄。特別大きくも小さくもなく、平均的。けれど触れれば折れてしまいそうなほど細く、服の中身はがらんどうではないかと疑ってしまう。
身に着けている衣服はモノトーン。上下が一体となっているスカート。あちこちがほつれ、穴が空いていないだけ上等だと思わせるような代物。履いているのは古ぼけた黒い木靴。
髪と服の合間から見える肌は白い。闇を拒絶するような白であって、闇に馴染む色をしています。
白い肌に浮かんでいるのは醜い傷跡。火に焼けたか、斬られ打たれたか。白が濁り、薄黒く変色し異質を掻きたてています。
低い鼻。薄紫に見える唇。形の悪い耳。翼がない。角もない。口は一つで、手足も二つ。それは魔族や魔族の血の混じった魔人には見えませんでした。
外見だけを見れば人間。でも人間には到底思えません。
心臓があるはずの平坦な胸はわずかにも動いていない。
私に声をかけてから、揺らぎすらしていない。
生命ならあるはずの鼓動がない。
生命のもつ魔力を感じない。
息をしていない。
違う。
否。
そんなことじゃない。それの異形はそんなものではない。
目だ。
目。
それの目が、それの全ての印象をかたどっていた。
黒い瞳。黒、黒だ。
存在感も、髪も衣服も、背丈も、肌の色も傷も鼻も唇も耳もそれにない翼も角も口の数も手足の数も外見も心臓が鼓動を刻んでいないことも魔力がないことも生命ではないことも無価値。
目だ。
真っ黒な目。怒りと憎しみと妬みと怨嗟と憎悪と自棄と悲しみと寂しさと嘆きと困惑と哀れと戸惑いと憂鬱と虚無と屈辱と落胆と恐慌と恐怖と躊躇と不安と心配と絶望と戦慄と萎縮と侮蔑と不快と諦観と後悔と罪悪感と恥辱と孤独と――
違うのだ。
言い表すことすらできない感情の闇。生命のもつ感情の中から、負の情念だけを抜き取って、不要な感情を捨て去って、名前すら消してしまって。
淀んだ想いを煮詰めて純粋な汚泥の感情だけをありったけ放り込んだような、
心の真理がそこにあった。
全てがどうでもよくなるだけの答えがその目にはあった。
言葉にすることすら無駄。
それでもあえてことばにするなら“魔”。その一言で事足りた。
その目から、目を離せない。息をすることもどうでもよくて、私の存在なんてちっぽけで、無為で、無意味で、この“魔”の中に消えてしまって、それで――
気を確かに――
「……がっ、げほっ、げほっ!」
ざらついた声で、私が今どうなっているのかを理解できました。立っていた私はいつの間にかに地に伏し、新鮮な息を求めて大きく空気を吸い込む。
目だ。あの目に魅入られて、私は息をすることすら忘れていました。もしかすると、心臓の鼓動すら止まっていたのかも。
「気を確かに」
みっともなく這いつくばる私に、それが声をかけてきます。顔を上げると、それは気配もなく私のすぐ近くにいて、あの目は髪に隠れて見えませんでした。
「あ、あなたは」
それは腕に腕章をつけていませんでした。衣服は“都市”で支給されているどの者とも違う。常識で考えれば、“隷属民”。ですが、この異形を“隷属民”と見ていいのかどうか。
「貴女が真実を知りたいというのなら、いらっしゃい」
それは、ざらついた耳障りな声で一方的に語ります。ふっとそれの気配が薄れ、遠くに見えました。
真実を知りたいのなら? 今あれはそう言ったのでしょうか。
「待って……!」
私は慌てて立ち上がり、靄のようなそれを追いかけ始めました。
*
――人は知りたいと思うことを拒絶できません。
夜の“都市”で、私はそれを追いかけます。
それはどこまで追ってもたどり着くことができません。それは足を動かしている様子はない。それなのに、私とそれとの距離は縮まらない。
私はどうしてあれを追っているのでしょう。あれは外を出歩いているにも関わらず、腕章を身に着けていない。出てはいけない夜に、外を出歩いているから。規律違反だから。
いいえ。全部私自身を納得させるための言い訳でしかない。私は――
――開拓者という存在がいることが、その理由でしょう。
「待ちなさい」
知りたいのです。
壁の向こうに何があるのか。レン殿のことをもっと知りたいのだから。私は――
――知りたいと思うことは罪悪ではありません。知ることを求めて、かつて多くの魔王と勇者が戦ってきました。
それの言葉でしょうか。耳にではなく、頭に直接それのざらついた声が響きます。
その異常すら、私にはおかしく思えません。
「魔王と、勇者?」
大昔存在したという魔王と勇者のことでしょうか。魔族側の主である魔王と、人間側の救世主である勇者。
かの存在は“都市”の中にも広がっています。今も、魔王を崇拝するという“魔王教”という集団がいるのですし。
いや、“魔王教”が崇拝しているのは魔王という存在ではなく、
“罪の魔王”と呼ばれる、最後の魔王ではなかったでしょうか。
――七十六人の魔王と七十六人の勇者。彼らは長い歴史の中で争い続けてきました。ですが彼らとて、思考なく争い続けてきたばかりではないのです。魔王と勇者の構造をおかしく思う魔王や勇者も確かにいた。
「皆、世界の構造に抗えずに、命を散らしていきましたが」
「はぁっ……はぁっ! あなたは一体……」
夜の“都市”を駆けて、私はそれに追いつきました。それの目の前にあるのは見上げるほど大きな壁。
“都市”と、“都市”の外を遮る壁です。
私とそれが出会った場所からここまでかなりの距離があるはずなのに、それは息一つ乱れていません。私はすでに肩で息をしています。
それ以外にもおかしいところはいくらでもあります。
夜の“都市”には少なからず、巡視に回る局員がいるはずです。私はそれを追いかけている間、一度も局員たちと遭遇することがありませんでした。
それだけならまだいいです。めったにない偶然で片付けられるのですから。
しかし、壁のそばまで来て、局員が誰もいないということは、あまりに異常でした。まるで世界の一角を切り取って、取り上げてしまったみたいな――
巨大な壁は私が生まれた時と変わらず、何者も通さないという固い意志を感じました。それは壁にそっと手を触れて言いました。
「もし貴女が壁の向こうを知りたいと願うのならば、壁の向こうに連れて行ってあげましょう」
それは私に目を向けました。負の情念に満たされた、魔の瞳。それの黒髪越しでもわかる魔性を受けて、私は胸を強くかきむしる。
「わた、私、は」
「知りたいと願うことは罪ではありません。ただ、知ったことで貴女は変わらざるを得ない。“彼”のように」
“彼”。私の頭にレン殿の顔が浮かびました。
「まさか、あなたがレン殿に」
「どうしますか?」
それが再度問いかける。秩序。規律。壁の向こうを願うことは“都市”に対しての最大の反逆。ですが、“都市”に住まう魔人は誰一人として壁の向こうに何があるのか知らないのです。
レン殿は壁の向こうを知って、変わった。その理由が今、私の手の届く場所にある。
「私は――」
知りたいと思った。その想いを、それを告げた。それは「わかりました」と言った。そして私は、
――知ることは罪悪ではありません。ですが、真実を知って、
真実を、知った。
――耐えられるほど、命というものは強くないのです。
次で終わります。




