第六話
私は今壁の向こうにいる。私は壁の向こうにいる。
壮大な行進曲が響いている。
儚い花が空を舞う。月夜に舞う花の色は赤色。崩れながら降り注ぐ生命の雨。
壁の外には、真っ赤な花が咲いていた。
親切ぶった紳士が手を差し伸べる。
紳士に手をひかれて、私の顔に笑みが浮かんだ。
紳士が消えた。朗らかな笑顔を浮かべた紳士がいなくなり、一瞬の静謐が訪れる。
ちょうだいと、小さな女の子が言った。
いいよと、私は言った。私は女の子がほしがったものを差し出した。
不完全だった少女は口の端を釣り上げてありがとうと言った。紳士の顔の少女に私は手を振ろうとした。振ることはできなかったけど。
視点が低くなって、目の前に壁が見えた。そうか。私は“都市”を内側からしか見たことがなかったけど、外から見ればこんななんだ。
幼子のように座り込んだ私に、目がのぞいてきた。耳が聞こえてきた。壁が見えなくなるくらいの目と耳。壁の外では私は大人気のようだ。あぁ、でも。
「どうしてレン殿が……」
壁の外に出てはいけないと言ったのかは分かった。
えぐるような光が見えて、つんざく音が聞こえて、
目と耳の仲間が少しだけ増えた。
何も見えない。何も聞こえない。真っ暗になった世界で、それは響いた。
――これで満足ですか?
満足かどうかと聞かれると、満足なのでしょう。レン殿と同じ体験ができたのだから。
あぁ、でも最期に一つだけ。
――なんでしょうか。
レン殿に、会いたかった……
――そうですか。なら私は、
貴女のその願いを、叶えましょう。
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――二人の仲間を失って、レンは慣れた悪意に身を晒された。さんざん悪意に身を浸した後、深夜に一人執務室で書類を書いていた。
裏切り者。
仲間殺し。
「上等だ。どんな理由があろうと俺は裏切り者で、仲間殺しだ」
窓の外から見える灰色の夜空に目を向けて、レンはつぶやいた。レンは壁の外を知った。そして壁の外へ行ってはいけないのだと悟ったのだ。
考え事をしながらも、ペンを走らせる手は止まらない。ズアイとジロウラ。二人の死の代償は、一人当たり七枚の書類を書くことだけだ。
七枚の書類が多いのか、少ないのかはわからない。少なくとも、“都市”の上の連中は、レン達のことを消耗品の類だと思っていることはわかる。
レンが最後に署名した書類の一番上には、『消耗部隊員補充請求書』と書かれていた。
さらに言えば、貧民区画を破壊し、多くの魔人を殺したことには、お咎めすらない。彼らは同じ魔人だと思われていないのだ。
「ひどい矛盾だな。誰も死なせたくなくて今の道を選んだはずなのに、結局たくさんの命を奪っている」
それがレン自らの手によるものであろうとなかろうと、罪の意識を感じざるを得ない。
不要な考えばかりが頭に浮かぶのは、疲れている証拠だ。書類も書き終わった。もう寝よう。
ドサリ。
「なんだ?」
立ち上がったレンの耳に入ったのは、重いものが落ちてきた音だった。音は執務室の扉の向こうから聞こえてきた。レンは即座に魔導剣を手に取り、扉の向こうの気配に意識を向けた。
レンは扉の向こうに何かしらの生命が落ちてきたことを察していた。
だがいくら待っても気配が動く様子はない。レンは警戒しつつ、扉の近くまで歩み寄り、取っ手に手をかけて、開けた。
「セメ、ナ?」
扉の向こうにあったものを見て、レンは絶句した。そこにあったもの。それはレンが唯一守り切ったはずの大切な部下の、見るも無残な姿だった。
眼球が収まっているはずのところはべっこりと落ちくぼんで、中にあるはずのものがあるとは思えない。
耳は乱雑に切り取られ、音を聞くはずの穴からはどぼどぼと血が流れている。耳だけではない。残った体のあちこちから、セメナは傷を作って血を流していた。
抱き寄せた体は不自然に柔らかい。筋肉と骨が崩壊している証拠だった。
軽い。両手足が無くなっているせいだ。無理やりもぎ取った両足の付け根と、鋭利な刃物で切り取られたような両手の付け根からはすでに血は流れていない。
「セメナ! セメナしっかりしろ!」
レンの口からこぼれたのはそんな、的外れでしかない言葉だった。耳もないのにレンの声が届くはずもない。致命傷を受けている相手にしっかりしろだなんて、むごい言葉でしかない。
けれど、セメナはレンの言葉が聞こえたかのように、顔に薄く笑みを作った。
「副、たいちょ」
「セメナ! 何があった! 誰にやられた!」
セメナはもう助からない。レンはこれまでの経験で察していた。だからこそ、なすべきは復讐。ジロウラとズアイが死ぬきっかけを作った第五小隊を抹殺したように、セメナをこんなにした相手にも、同じ目に合わせないといけない。
「かべ、そと……は」
「――あぁ、そうか。そういうことか」
セメナの一言。壁の外という言葉は、レンから全ての力を奪うに十分すぎるものだった。セメナは壁の外を知った。その結果として今のセメナがいる。
「ふくたい、ちょ」
絶望が足元から這い寄ってくる感覚。目の前が真っ暗になる。張り詰めた糸がぎりぎりと引き延ばされる。
「ずっと……すき、でした」
だからセメナの口から吐き出された最期の一言は、レンの糸を断ち切るに十分すぎるものだった。
「あ……あぁ」
不意に、腕が軽くなった。セメナが光の粒子へと変わっていく。血で汚れたセメナの体が、奇麗なのだからしっかり手入れしてほしいと思っていた乳白色の髪がふわりと浮いて、空気にほどけるように消えていく。
消えるセメナの色は、淡い黄金色だった。
空に舞う光の粒子に、レンは手を伸ばした。けれど届かない。光はレンの手をかすめ、すり抜けていく。
いつもだ。レンはいつだって手を伸ばしている。しかしその手は何もつかめないで、大切なものはいつだって零れ落ちてしまう。
光は窓へ向かって、灰色の空へと飛んでいく。セメナが光だけになって、空に飛んでいった時、
生まれた時からかかり続けていた灰色の雲が、消えた。見えた空はレンが生まれる前に見知っていた藍色の美しい夜空。空を月が照らし、星々がきらめいている。
セメナは夜空に飛んで、星とまじりあって消えた。垣間見えた夜空はまたすぐに灰色の雲に覆われて見えなくなる。
空っぽになった両手を震わせて、灰色の雲を見上げて、レンは声もなく咆哮した。
これにておしまいです。ここまで読んでいただきありがとうございました。




