01 乗車
乗車を急かす鐘が鳴り響いている。
「フィン、急いで!」
人ごみをかきわけて走りながら顔だけ振り返ると、従僕のフィンが「待ってください奥様~!」と泣きそうな顔で追いかけてきていた。でも小柄なフィンの姿は大人には見えにくいのか、次々とすれ違う人にぶつかられ何度も転びそうになっている。
車掌の警笛が聞こえた瞬間、わたしは迷わず方向転換し、フィンをトランクごと小脇に抱えてホームを走った。
警笛が鳴り終わる直前にに列車に飛びこむと、すぐに背後で扉が閉められた。
ボーッと低い汽笛が聞こえ、ゆっくりと汽車が走り始める。肩で息をしながら、フィンと顔を見合わせ笑った。
「はぁ……何とか間に合ったわね!」
「ごめんなさい、奥様。ぼくがもたもたしてるから」
トランクを抱えてしゅんとするフィンは、まだ十歳になったばかりの男の子だ。
かすかにピンクがかった淡い金の巻き毛に、菫色の瞳、ぺちゃっと低い鼻が可愛らしい彼は、一見貴族のお坊ちゃんのようだけど、平民出身の貴族の使用人である。
明るい栗色の髪に緑の瞳、地味な顔立ちのわたしのほうがよほど平民に見える。お金で爵位を買った成金貴族の出なので、ほぼ平民と変わらないと思っているけれど。
「謝ることないわ。間に合ったんだし、良いじゃない。そんなことより、わたしはもう奥様じゃないわよ?」
フィンの低い鼻を指でつんとつつくと、彼は「あっ」と手で口元を覆った。
「そ、そうでした。ええと、じゃあ、ご主人様ですね!」
「まぁ。エマでいいのに」
「それはいけません! こういうことはしっかりしないと!」
胸を張るフィンはなぜか誇らしげだ。本当はいまの状況を何も理解できていないんじゃないかと心配になる。
「フィル。本当に良かったの? あなたはもともとノイマン伯爵家の従僕だったんだから、あちらのお邸に残れたのに」
「そんな悲しいことを言わないでください。ご主人様と初めてお会いしたときから、僕はあなたに一生ついていくと決めたんですから!」
キリッとした顔で宣言するフィンは、何を言っても意志を変える気はないようだ。
「おかしな子ね。離婚したわたしについてきても、良いことなんて何もないわよ」
伯爵家に嫁ぎあの街を訪れたわたしを、最初に出迎えてくれたのがフィンだった。あのときあげたクッキーがよほど嬉しかったのだろうか。
お飾りの妻でしかなかったわたしに、フィンだけが献身的に仕えてくれた。彼がいなければ、わたしがあの家で過ごした三年間はもっと孤独なものになっていただろう。
伯爵家を出て実家に戻るわたしに、ついて行くと言ってくれたフィン。
その幸せそうな笑顔を見て良いことをした気になっていたけれど、いまになって逆に悪いことをしてしまったような気持ちになる。
「ぼくにとっては、ご主人様のお役に立てるのが良いことです! それなのに……ごめんなさい。駅で軽食を買おうとしていたのに、買えませんでした」
再びしゅんとするフィンの肩を抱いてなぐさめる。
「大丈夫よ。どこかの駅に停まったときに何か買えばいいんだから。毎回停まった駅で何か違うものを買うのも楽しそうじゃない?」
言いながら、若干の空腹をすでに感じている。二等車の乗客は食堂車を使えるけれど、決められた時間にしか食事は提供されないのだ。
夕食まで時間があるので、サンドイッチやスープを駅の待ち合いで食べるか、バスケットに入れてもらう予定だったのだけれど、買えなかったなら仕方ない。
「ご主人様……」
「さ、部屋に向かいましょう」
田舎の男爵領までついてきてくれるフィンのために、せめて良い主でいたい。いたいけれど――。
果たして、それは叶うだろうか。嫁ぎ先で冷遇され、離縁し、実家に出戻ることになったわたしが、本当にフィンにとって良い主になれるのだろうか。
二等コンパートメント寝台車の廊下は混みあっていた。個室から顔を出し挨拶し合う人、窓を開けて煙草を吸う人、壁に寄りかかり新聞を読む人と様々だ。
ちらりと見えた紙面には『隣国の王子が行方不明になって二週間が経過!』『休戦協定破棄となるか⁉』『村の消滅は憤怒の魔女によるものと判明!』等、センセーショナルな見出しが並んでいた。経済面が読みたいと思いながら部屋を探す。
二等寝台車七号室。その個室を見つけたとき、部屋の扉は他の部屋同様開かれていた。
個室と言っても、その部屋はわたしとフィンだけの部屋ではない。二等寝台車は基本、四人部屋だ。女性専用車と男性専用車に分かれていて、フィンのような子どもなら男子でも女性と一緒なら女性専用車を利用できる。
部屋はそれほど広くはない。進行方向の壁とその反対側にソファベッドが配置されている。二段目のベッドは跳ね上げ式で壁に収納されているのだ。
すでに片方のベッドには老婦人が座っていて、駅で購入したのだろう新聞を熱心に読んでいた。
一晩一緒に過ごすのだ。悪い人じゃなければ良いのだけど。




