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近衛の本領  ~王族から王国を護るお仕事です~(第三章連載開始)  作者: t.maki
第2章 第二王子フェリクス編
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第67話 言葉と像

議論は終わらない。だが争点は変わった。言葉の正しさではなく、言葉の帰結へ。





私が黙ると、内室にはすぐには破れぬ沈黙が残った。誰も反論しなかったのは、納得したからではなく、それぞれが別の仕方で自分の足元を見直し始めたからだろう。石壁に囲まれた狭い部屋の中で、言葉はすでに尽きているのに、考えだけはなお続いていた。


アルベルト司教が最初に視線を落としたのは、机の上の祈祷文ではなく、自らの手元に置かれた報告書の余白だった。そこには何も書かれていない。だが、彼はそこに、井戸の縁に集まる民の姿を見ているのだと分かった。正しい祈りの形を守ること、それは彼にとって揺るがぬ責務であるはずだ。しかし今、その責務は別の角度から照らされている。祈祷文を守るとは、単に文言の誤りを防ぐことではない。人々の心に立つ像が崩れ、信仰が思いつきの願望へ変わることを防ぐことでもある。もしそうであるなら、彼が守ろうとしていたものは、本人が考えていたよりも広く、重い。


一方で、マティアス司教の沈黙は別の種類のものだった。彼は現場を見ている。井戸の縁で桶を抱え、顔色をなくしながら祈る者たちを見た。長い祈祷文を唱え切れぬまま、途中で息を切らし、それでも水を求めて声を重ねる人々を見た。その現実がある以上、教会の中で整えられた言葉をそのまま持ち込むだけでは届かぬ、という感覚はおそらく正しい。だが、届けばそれでよいわけではない。届いた言葉が人の中にどんな像を立てるかを見なければ、現場に寄り添ったつもりで、かえって現場を危うくする。


私には、その両方が見えていた。そして両方とも、いまようやく次の段へ進めるところに来ていることも見えていた。


「長い祈祷文を、そのまま井戸の縁へ持っていく必要はない」


私は再び口を開いた。今度の言葉は、先ほどよりも少し具体でなければならないと思ったからである。論点はもう示した。ここで必要なのは、その論点を、二人が自分の判断へ移しかえられる形にすることだった。


マティアス司教が顔を上げた。その目には、安堵とも警戒ともつかぬ色が混じっていた。アルベルト司教の視線も私へ向いている。宰相は相変わらず何も言わない。


「だが、短くするなら、残る像を選べ」


私は言葉を続けた。


「人を静める像か、人を急かす像か。共に持ちこたえる像か、先を争わせる像か。与えられると信じさせる像か、耐えるべきだと悟らせる像か。同じように祈りの形を取りながら、それは互いにまるで別の働きをする」


その一言は、もはや理屈ではなく、判断の基準として二人の前に置かれた。


アルベルトにとっては、教会が守るべきものの輪郭が変わりつつあった。文言の正確さだけでは足りぬ。教会は、自らが整える祈りが人の内にどのような像を残すか、その責任まで負わねばならぬのだ。正しい意味を守るとは、正しい像が人の中に立ち続けることを守ることでもある。もしその像が崩れれば、たとえ文言の形が保たれていても、祈りは別のものへ傾き始める。


マティアスにとっては、現場の判断の意味が変わりつつあった。短い祈りを作るとは、唱えやすくすることではない。残す像を選ぶことだ。井戸の縁で必要なのは、人をその場に縛りつける像ではなく、耐えさせ、押し合わず、崩れさせぬ像であるはずだった。もし自分が整えた言葉の中で、別の像が強く残っているなら、それは手直しせねばならぬ。


アルベルト司教がゆっくりと言った。


「つまり、短くすること自体が問題なのではなく、短くした結果、何だけが残るかを見極めよということですか」


「そうだ」


私は頷いた。


「削れば、残るものは強くなる」


マティアス司教はしばらく黙っていた。彼はおそらく、井戸の縁で自ら整えた短い祈りの文言を頭の中で辿っているのだろう。その祈りが人々に何を残していたか、あるいは何を余計に強めてしまっていたかを、いま初めて別の目で見ているのかもしれない。


「私は」と彼は小さく言いかけ、そこで一度言葉を切った。「私は、あの場で祈りが途切れるのを見るのが耐え難かったのです」


その告白は弁解ではなかった。ただの事実だった。ゆえに私には理解できた。祈りの形を崩したいのではない。祈りが死ぬのを見たくなかったのだ。だが、善意は働きの結果を保証しない。


「途切れぬことは要る」と私は言った。「だが、途切れずに続くなら何でもよいわけではない」


石造りの部屋の中で、その一言は静かに沈んだ。アルベルト司教も、マティアス司教も、すぐには応じなかった。その代わり、それぞれの沈黙の質が変わった。もはや二人は、長いか短いかだけを争ってはいない。何を守るべきか、何を残すべきか、その判断そのものが変わり始めていた。


私はそこで十分だと思った。これ以上を私が引き受けるべきではない。私は教会の中に戻る者ではなく、祈りの文言を定める者でもない。私が示せるのは、言葉の働く仕組みではなく、いま二人が引き受けるべき選択の形だけだ。


あとは二人が選ぶほかない。教会として何を守るのか。現場で何を残すのか。その違いが、やがて井戸の縁の人々の並び方、待ち方、押し合い方、あるいは支え合い方として現れるだろう。


アルベルトは教会の責務を、マティアスは現場の責務を、それぞれ以前より重く受け取り始めている。そうであるなら、この会議はすでに一つ先へ進んでいる。言葉の理を語る段は終わり、言葉の帰結を引き受ける段に入ったのだ。


内室の冷えた空気は変わらない。だが、その中に立つ三人の沈黙は、もう少し前のものとは別の重さを持っていた。


お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

祈りは選ばれるものではない。結果を背負うものだ。短くすれば残るものが強くなる。ならば、その残るものを選ばなければならない。教会も現場も、その責から逃れられない。ここで議論は理屈から決断へ移る。次に必要なのは判断ではない。線引きだ。


次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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