第65話 誰が祈りを定めるか(両司教視点)
枝ではなく幹。祈りの長さではなく、祈りが人の中に残すものが問われる。
フェリクスの「まだ言葉そのものを見ていない」という一言のあと、内室には短い沈黙が落ちた。言い返そうとすれば言葉はあっただろう。だが、アルベルトもマティアスも、すぐには返さなかった。返せなかったというより、その一言によって、自分たちが争っていた軸そのものがずらされたと感じたのだろう。
長いか短いか。それはたしかに争点である。だが、それは枝にすぎぬ。フェリクスが見ているのは、もっと根元に近いところなのだと、二人とも気づき始めていた。
アルベルトが慎重に口を開いた。
「見ていない、とは」
フェリクスは報告書の上に置いた指をわずかに動かしただけで、すぐには顔を上げなかった。
「長いか短いかは、枝だ」
やがて彼は言った。
「何を人の中に立てるかが、幹になる」
その言葉は、説明というより宣告に近かった。マティアスは眉を寄せた。意味が分からぬわけではない。だが、その意味が自分の足元をどこまで掘り崩すかまでは、まだ測りきれない。
「祈祷文を守るのはよい」とフェリクスは言う。「短く整えるのもよい。だが、その言葉が人の中に何を立てるかを見ていないなら、どちらも危うい」
「像、ということですか」
アルベルトの問いは、否定のためではなく、言葉の輪郭を確かめるためのものだった。
「そうだ」
フェリクスは答えた。
「言葉は、人の中に像を立てる。祈りも同じだ」
内室は静まり返っていた。高窓から落ちる光は相変わらず机の端だけを白く照らし、それより外の場所では、人の表情は半ば影に沈んでいる。だが、その見えにくさの中でも、会議の軸が変わったことだけは明らかだった。もう長さそのものは中心ではない。中心に来たのは、言葉が人の内に何を残すか、という問いである。
「教会が祈祷文を守るのは、文言を守るためだけではない」
フェリクスの声には熱がなかった。熱がないからこそ、その言葉は冷たく骨だけを残して響いた。
「そこに立つ像を守るためでもある」
アルベルトは黙っていた。マティアスもまた沈黙していた。だが、その沈黙は先ほどまでの対立の延長ではなかった。二人とも、自分が守ろうとしていたものの名前が変わったことを感じ取っていたのだろう。
フェリクスは続けた。
「祈りは誰のものか。教会のものだと言えば、教会は像を定める責を負う。祈る者のものだと言えば、現場で立つ像に責を負う。どちらか一方だけでは済まない」
そこまで言うと、彼はそれ以上説明を重ねなかった。十分だったからである。ここで必要なのは理を積み足すことではない。争点そのものを置き換えることだ。長いか短いかではなく、何を人の中に立てるのか。そこへ軸を移すことだけで、この場はもう以前と同じ議論には戻れなくなる。
アルベルトは自らの手元を見ていた。マティアスは報告書の文字の上に目を落としていた。だが二人とも、実際には別のものを見ているのだと分かった。井戸の縁に並ぶ民か、教会の長い祈祷文か、あるいはそのどちらにも重なる、人の中に残る見えない像か。
長さの議論は、そこで終わった。
代わりに始まったのは、祈りを定めるとは何を定めることなのか、という議論である。文言か、秩序か、教義か、あるいは人の内に残る何かか。その答えはまだ出ていない。だが少なくとも、この場の問いが一段深いところへ降りたことだけは確かだった。
北隅小聖堂の冷えた空気の中で、会議の軸は、そこで初めて確かに動いた。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
祈りは教会のものか、それとも祈る者のものか。その問いは単純ではない。どちらを選んでも責が生じる。言葉は中立ではない。人の中に像を立て、行いを変える。ここで議論は不可逆に変わる。もう形の問題には戻れない。次に現れるのは、言葉の構造そのものだ。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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