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近衛の本領  ~王族から王国を護るお仕事です~(第三章連載開始)  作者: t.maki
第2章 第二王子フェリクス編
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第59話 逆響(マティアス視点)

言葉は届いた。だが、届いたものは一つではなかった。整えられたはずの響きは、人の中で歪み始める。




翌朝、最初に異変を告げに来たのはヨハンではなかった。


南区の外れに住む老婆が、夜明けとともに教会の扉を叩いた。息子が夜中に起き上がり、同じ言葉を繰り返しながら部屋を歩き回っているという。熱はない。呼吸も乱れていない。ただ、止まらないのだと女は言った。


私は老婆と共に家へ向かった。


男は三十を少し過ぎた年頃で、昨日まで井戸の列に並んでいた者だった。部屋の中を行き来しながら、低い声で何かを繰り返している。意味は取れない。だが、どこかで聞いたような響きがある。


(……あれか)


昨日、学徒たちが桶の前で口にしていた言葉に似ていた。似ているが、同じではない。崩れている。整っていない。誰かが夢の中で聞いた音楽を、目覚めてから手探りで再現しようとしているような歪み方だった。


私は男の肩に手を置いた。男は一瞬だけ動きを止め、それからまた歩き始めた。目は開いているが、私を見ていない。


老婆が言う。


「昨日、あの人たちの水を飲んだんです。よくなったと思って」


私は黙って男を見ていた。


水を飲んだ者が、翌朝こうなった。それだけでは断定できない。飢えと疲労で錯乱することは珍しくない。だが、胸の奥の何かが、それを単純な出来事として受け取らせなかった。


しばらくして男は床に座り込み、言葉が止まった。やがて顔を上げて私を見る。目の焦点が戻っていた。


「神父さま」


「気分はどうです」


「……眠いです。ひどく眠い」


それだけ言うと、男は横になり、すぐに眠り込んだ。


老婆の家を出ると、路地の角でヨハンが待っていた。顔を見た瞬間、同じことが別の場所でも起きたのだと分かった。


「何件ですか」


「三件、報告が来ています。うち一件は子どもで、今朝から食べ物を受けつけていないようです」


「症状は」


「それぞれ違います。同じ言葉を繰り返す者、急に泣き始めて止まらなくなった者、眠り込んで起きない者」


私は少し考えた。


「全員、昨日の水を」


「はい」


ヨハンの顔には、昨日の確信の残り火と、今朝の動揺とが同居していた。


「わたしたちのやり方が悪かったのでしょうか」


「分かりません」


そう答えながら、私は昨夜めくった紙の言葉を思い出していた。


『言葉は心に像を立て、その像が神韻に触れて現象を生む』


水が澄んだのなら、言葉は何かに触れたのだろう。だとすれば、飲んだ者の内側で何かが起きてもおかしくはない。ただ、地図はその先を書いていなかった。道の途中で何が起きるかまでは、示していなかった。


「続けますか」


ヨハンが静かに聞いた。


私は即答できなかった。昨日は、目の前の変化が希望に見えた。今日は違う。目の前には別の変化がある。


「今日は止めなさい」


ヨハンは頷いた。だが、顔には納得とは違うものが残っていた。


「ただ止めるだけでは、人々は納得しないかもしれません」


「分かっています」


昼を過ぎる頃には、噂は南区の半分に広まっていた。ヨハンたちの試みで体の具合が悪くなったという話と、井戸の水が澄んで病が和らいだという話とが、同じ通りで同時に囁かれている。


どちらも嘘ではない。どちらも、本当とも言い切れない。


その厄介さが、昨日までとは別の速さで人の間を走っていた。


夕方、教会の裏から声が聞こえた。


「呪いだ。あいつらがやったことは呪いだ」


別の声が返す。


「違う、実際に水が澄んだじゃないか」


「それで子どもが倒れた。これが呪いでなくて何だ」


声は高くなり、やがて誰かが泣き始めた。泣きながらも言葉を続けている。その言葉が次第に祈りの調子を帯び、昨日、学徒たちが口にしていた言葉と混ざり始めていた。


(……境が崩れている)


祈りと呪いの境ではない。もっと根のところで、何かが混ざり始めていた。教会の言葉と、あの図の言葉と、恐怖と、希望とが、南区の乾いた空気の中で溶け合い、まだ名のないものになろうとしている。


私は立ち上がり、裏庭へ向かった。泣いている女のそばにしゃがみ込み、その背に手を置く。言葉は出てこなかった。


ただ、その場に留まった。


それが今の私にできることの全てだったし、それ以上でも以下でもなかった。


夜になっても、遠くから誰かが繰り返す声が聞こえていた。意味は取れない。ただ、その声には祈りに似た切実さと、祈りとは少し違う何かとが混じっていた。


昨日、人々はわずかに澄んだ水を見た。今日は、そのわずかな変化が、人の中で別の形に増幅されて戻ってきている。


水の変化そのものよりも、その受け取られ方の方が、もう大きい。


そのことに気づいた時、私はようやく理解した。


逆響とはこういうものなのだろう。




お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】


効果と異常が同時に現れるとき、人はどちらを信じるかで分かれる。希望を選ぶか、恐怖を選ぶか。その分岐が街を裂く。祈りと呪いの境は、最初から曖昧だったのではない。人がそれを曖昧にするのだ。そしてその曖昧さは、やがて統治の問題になる。次に動くのは教会だ。


次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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