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近衛の本領  ~王族から王国を護るお仕事です~(第三章連載開始)  作者: t.maki
第2章 第二王子フェリクス編
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第58話 改革派の試み(マティアス視点)

祈りは届かない。ならば、届く形にすればいい。そう考えた者たちが、言葉を削り、整え、現場へ持ち込む。




南区の教会の裏庭には、昼を過ぎてもなお人が残っていた。炊き出しの鍋はすでに底を見せているのに、帰っていく者と新しく来る者とが入れ替わりに門をくぐり、そのたびに庭の空気がわずかに揺れる。井戸の列も以前より長く、待つことに慣れた諦めと、待っても足りぬと知る焦りとが、同じ顔に浮かんでいた。


私は石段の上からその様子を見ていた。乾いた空気の中では、人の声だけが妙に軽く響く。怒鳴り声はない。むしろ皆、怒鳴るだけの力を残していないように見えた。


その時、庭の門から数人の男が入ってきた。書記役の者、薬草を扱う商人、若い学徒が二人、その中心にヨハンがいた。彼は石段の下で足を止め、こちらへ丁寧に頭を下げた。


「マティアス様」


「どうした」


「井戸の水のことで、少しお見せしたいものがございます」


後ろの男が小さな桶を両手で持って前へ出た。中の水は、いつもの井戸水よりわずかに澄んで見えた。劇的ではない。だが、南区の井戸水を見慣れた目には、その差がむしろ無視しにくかった。


「新しいやり方を試してみました」


「新しいやり方?」


「祈りとは少し違います。水に触れながら、言葉を整えるのです。響きを揃える、と申しますか」


名を隠しているのではない。まだ名前の定まらぬものを、手探りで説明している調子だった。


私は桶から目を離さぬまま言った。


「やってみろ」


ヨハンは小さく頷き、桶の前に立った。学徒たちも両脇へ寄る。彼らは祈祷文のような長い言葉ではなく、もっと短く削がれた言葉を、互いの呼吸を合わせるように低く口にした。祈りとは少し違う。だが、祈りに似た響きでもあった。


私は何も言わず、その様子を見ていた。


ヨハンの手が桶の縁に触れ、学徒たちの声が重なっていく。短い。だが、ただ短いだけではない。何かの手順を辿っているというより、同じ調子へ自分たちを揃えようとしているように見えた。私はその様子を見ながら、昨夜めくった紙の上の線を思い出していた。名前のない図。だが、たしかに何かを指している線である。


やがてヨハンが桶を覗き込み、静かに言った。


「……さっきより、きれいになっているようです」


その瞬間、庭の空気がわずかに動いた。


誰も歓声は上げない。だが、視線は一斉に桶へ集まり、水面を確かめるように覗き込んでいる。濁りがほんの少し薄れているようにも見えるし、光の加減にも見える。その曖昧さが、かえって人々の想像を強く引いた。


「もう一度やってくれ」


誰かが言った。


「うちの井戸でも試してくれ」


声は一つでは終わらず、いくつか重なった。ヨハンは一瞬だけ私を見た。続けてよいのか、それともここで止めるべきか。判断をこちらへ預けるような目だった。


私はしばらく黙っていた。


目の前で起きているのは奇跡ではない。せいぜい、ほんの少し澄んだという程度のことだ。それでも人は、そのわずかな差を見てしまった。


その時、一人の男が呟くように言った。


「教会の祈りより、早いじゃないか」


声は大きくなかった。だが、その一言は庭の空気を揺らすには十分だった。誰もあからさまには頷かない。だが、否定もしない。言葉は人の顔色をうかがうように小さく交わされながら、その実、庭じゅうへ広がっていった。


ヨハンは小さく息を吐いた。


「まだ確かなことは申せません。ただ……試してみる価値はあると思います」


彼の後ろでは、若い学徒の一人が紙を広げていた。線がいくつも重なり、その横に短い語が書き込まれている。整然としているようでもあり、急ごしらえのようでもある図だった。


私は目を細めた。


(……似ている)


あの紙に。だが彼らはまだ知らない。自分たちが手にしているものが何であるかを、まだ名のある形では知らないのだ。


ヨハンは再び桶の上に手を置いた。学徒たちが低い声で言葉を合わせる。人々はそれを見守っていた。見守るというより、そこへ自分の明日を預けるような目で見ていた。


しばらくして、また誰かが言った。


「本当に、少し澄んできたぞ」


別の者が続ける。


「匂いも前より弱い」


私は黙ってその光景を見ていた。確かに変化はある。だが、奇跡と呼ぶほどではない。それでも、飢えと病のただ中では、この程度の差でも十分に救いの顔をする。


問題は、水が少し澄んだことではない。


それを見た人々の目が、もう元の目ではなくなっていることだった。


この試みは、ただの試みでは終わらない。そう思った時には、もう庭の空気は昨日までとは少し違うものになっていた。



お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

それは奇跡ではない。だが、違いはあった。ほんのわずかな変化。それだけで人は希望を見る。そして希望は、事実より速く広がる。問題は、その変化が何を引き起こすかだ。触れたものは、触れ返す。言葉が世界に届いたなら、その返答もまた人に返る。次に来るのは、反動だ。



次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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