エンディングのその後は ③
澄んだ風が通り抜けていく。冬の日差しは柔らかく周囲を照らし、鳥の鳴き声が聞こえることも含めて麗らかな午後だ。
私服姿のまま医務室を後にしたネージュは、人目につかないであろう寮の裏手へとやってきていた。
既に転移魔法を試して使えなかったことは実証済みだ。では、通常の簡単な魔法ならどうか。
「……土の城壁」
慎重に呪文を唱えてみても地面には何の変化もない。
しばらく待ってみても特に何も起こらず、その他の呪文を試しても全てが不発に終わった。
膨大な魔力を得てからというもの制御するのに苦労していたことが嘘のように、ネージュの中にあった魔力は綺麗さっぱり消え去っていた。
「ありがとね、神様。約束を守ってくれて」
ぽつりと礼を述べる口元に寂寥を含んだ笑みが浮かぶ。
騎士として過ごしたこの六年間、魔法は常に身近なところにあった。生活の際に魔具を使うのが当たり前になっていたし、何度もこの力に助けられてきた。
これからは空間転移もできないし、好きな時に地面から椅子なりつっかえ棒なりを作って使うこともできない。魔法使い用の魔具も使えなくなるから、高価な一般用の魔具を買い揃えなくては。
騎士を辞めるなら家も探して、仕事も探して。忙しくはなるけれど、新生活を始めるのに新春という季節は悪くない。
愛すべき職場を離れなければならない寂しさは胸に迫るものがある。けれど後悔はないのだ。やるべきことをやり遂げたという誇りを胸に、これからの人生を歩むことができる。
ネージュはポケットに忍ばせた封書を確認した。そろそろ約束の時間になるため、騎士団長室に行かなければならない。
カーティスとバルトロメイに全ての真実を話したネージュは、供された紅茶に口を付けて喉を潤した。
乙女ゲームというコンテンツについて説明する自信がなかったので、そこだけは戦記小説ということにしておいたものの、意識を失っている間に得たことを洗いざらい話した。信じてもらえるかはわからないが、迷惑をかけた上に一抜けしなければならない立場としては、その理由を話すのが最低限の礼儀だと思ったからだ。
「そして、これが辞表です。お納めくださいますよう」
昨晩のうちにしたためた封書を取り出して、今日に関しては並んで座る上司二人に差し出した。
バルトロメイは難しげな顔をしていたが、卓上に置かれた封書をじっと見つめた末に、深い深いため息をついた。
「……残念だな。お前にはどれほど支えてもらったのか知れないと言うのに」
苦笑まじりに告げられた言葉に、ネージュは涙腺が緩むのを感じた。
自分こそがどれほど助けられたことだろう。
数々の任務で、訓練で、厳しくも優しくいろいろなことを教えてもらった。時には家に招待されて、テレーズも交えて楽しい時を過ごして。
「お前はよくやった、ネージュ。感謝しているよ」
バルトロメイが何のてらいもない笑み浮かべる。大好きな渋みのある格好良い笑顔。
彼が認めてくれなければ挫けていたかも知れない。バルトロメイを心から尊敬していたからこそネージュは成長し、そしてここまで来ることができた。
「……はい、ガルシア団長。今まで、ありがとうございました」
ネージュは涙を堪えて笑った。いつまでたっても子供のように泣いているわけにはいかない。バルトロメイが心配しないように、潔く去らなければ。
「何だ、私は辞表を受け取るとは言っていないぞ」
なので、飄々とした笑みとともに繰り出された台詞には、すっかり意表を突かれてしまった。
「ど、どういうことですか……?」
「それはそうだろう、一応は騎士団長閣下の意見を聞かないとなあ。私の一存で幹部の退職を受け入れるわけにはいかんからなあ?」
バルトロメイの態度は明らかに白々しかった。彼がなぜこのような態度を取るのかがわからず、ネージュは困惑して目を瞬かせたが、何故だかカーティスも決まりが悪そうな顔をしている。
「まあ今生の別れでもあるまい。団員たちにも挨拶をしておけよ、奴ら確実にショックを受けるだろうからな」
「あの、ガルシア団長?」
「私はこれで失礼する。後は二人でよく話し合っておけ」
百戦錬磨の老騎士は最後に紅茶を飲み干すと、ニヤリとした笑みを一つ置いて騎士団長室を出て行った。
室内に気まずい沈黙が落ちる。
なぜバルトロメイはそんな事を? もしかしてカーティスのことが好きだと気付かれていたのだろうか。だとするとものすごく気まずいのだけど。
足音が遠ざかるのを背中に感じつつ、ネージュは恐る恐るカーティスを見返した。すると真っ直ぐにこちらを見据える空色と視線を合わせてしまい、反射的に目をそらす。
この期に及んで一体何をしているのだろう。
言うのではなかったのか。ずっと好きだったと。昨日はもう伝えてしまいたいなんて思っていたくせに、どうしてここで挫けるのか。
そもそも最後の戦いの前に返事をすると約束をしたのだ。いやでも、あの一連の出来事が夢ではない保証はどこにもないような気がしてきた。
——だってこの方が私のことを好きだなんて、夢だとしても出来すぎてる。もしかして今この時こそが夢だったりは、しないのかな。
「レニエ副団長」
「はいっ!?」
ネージュは思考に没入していたので、裏返った声で返事をしてしまった。
カーティスは少し微笑んで、部下の最後の失態について見逃してくれたようだった。そうして彼は静かに話し始める。
「つい先程マクシミリアンと会ってきたよ。彼は丁度目を覚ましたところでね。様子が妙だからどうしたのかと聞いたら、奥方に会ってきたと」
ネージュは小さく息を飲んだ。
少しだけ心配していたのだ。神が約束を果たしてくれたことは間違いないけれど、マクシミリアンにいい影響を及ぼしたのかはわからない。だから目を覚ましたら訪ねてみなければと思っていた。
「それで今までの経緯を全て話したら、ものすごく怒られたと言うんだ。なんて事をしたの、アドラス侯爵によくよく謝ってお礼を言いなさい。これからはすべてのものとちゃんと向き合うことって……しっかり者だろう?」
カーティスの声は苦笑を含んで軽やかだった。ようやく重責から解放された笑顔は明るくて、それだけでネージュには彼の友の様子が手に取るようにわかった。
「ブラッドリー公は、もう大丈夫なのですね」
「ああ、君のおかげだ。どれだけ感謝してもしきれない。君の勇気に心からの敬意と感謝を。レニエ副団長」
カーティスはネージュにとって一番死んでほしくない人の一人だった。
騎士としてこんな事を思うのは間違っている。だから戦いの場で態度に出すことはしないけれど、それでもどうしようもない程に大切だった。
その彼がこうして生きていて、今まさに己の目の前で微笑んでいる。しかも騎士としての働きを認めてくれた。これだけで夢のように出来すぎた結末だ。
「今後のことは決まっているの?」
「いいえ、何も決まっていないんです。のんびり探そうかなと思っております」
もしかするとこれが最後になるかもしれない。
騎士ではなくなったらもう顔を合わせることもなくなる。身分だって今以上に釣り合わないから、この気持ちを伝えること自体がとても図々しい。けれど後悔はしたくないとネージュは思うのだ。
——よし。よし、言え、私。もう話が終わる流れだぞこれは。今言わずにいつ言うの!
ネージュはテーブルの下で両拳を握り込んだ。意を決して顔を上げ、大きく息を吸い込んで。
「それなら、私の奥さんになるというのはどうかな」
カーティスから投げかけられた言葉によって、言うべきことが全部吹き飛んだ。




