どうしようもない程の間抜け ②
腹拵えを終えた師と弟子は再び剣を携えて森の中に立っていた。時刻は午後一時過ぎ。魔法を練習するのに十分な時間が残されている。
「よし、それでは極大魔法の練習に入ろう」
「極大魔法ですか……!?」
最強の騎士の提案に、ネージュは目を丸くした。
極大魔法は最も難しい究極の魔法だ。いきなりそんなところから入って大丈夫なのだろうか。
「ああ。まずは大魔法がどんなものなのかおさらいしよう」
カーティスは魔法についての簡単な確認を始めた。
大魔法は自然現象を引き起こす魔法を指してそう呼ぶ。通常の魔法は自身の魔力を使って放つのだが、大魔法に関しては自然に宿る『魔法素』に語りかける必要があるため、根本から異なるのだ。
「大魔法が扱えるようになったからと言って、極大魔法の足掛かりになるわけではないからね。大魔法は魔法素との相性が合わなければ発動できない上に、街中では魔法素が極端に少ないからあまり使用に向かない」
「つまり、王宮にやってくる魔獣を倒すのには適切ではないということですね」
「その通り。では、極大魔法とはどんなものか知っているかな」
知ってはいるものの、いきなり言語化するとなると少し戸惑う。ネージュは言葉を選びながら、優しい笑みに促されるようにして答えを紡ぐ。
「魔力の消費量は大魔法を上回ります。しかも自身の力量のみに頼る必要があるため、鍛錬とセンスを必要とします。十全に力を持った魔法使いが放てば、街一つ消し去る威力があるため、使用には魔法庁の許可が必要です」
「素晴らしい。優秀な生徒だと教えがいがあるな」
カーティスは嬉しそうに微笑んだ。本当に誇らしげな様子に、つい頬に熱が集まってしまう。
「騎士団の団長格に就任しなければ本来なら許可は下りない。だからこの訓練は違法行為になるわけだが、非常時なので私が特別に許可する」
魔法庁職員ではないカーティスの許可には意味がないので、これは彼の冗談だ。柔軟な騎士団長閣下は、街一つ消し飛ばす魔獣の脅威が迫る今、極大魔法を扱える戦力は一人でも多くあったほうがいいと考えたのだろう。
「閣下にご迷惑をお掛けし、申し訳ありません」
「それはこちらの台詞だよ。まあ、大丈夫さ。君は戯れに街を吹き飛ばすようなこと、するはずがないからね」
悪戯っぽく笑うカーティスに、ネージュもつい微笑んでしまった。こんな風に気さくな人だから、ついこちらも気安い態度を取ってしまうのだ。
「これを。私のお古だが教科書を持ってきたよ」
「ありがとうございます……!」
使い古されたハードカバーの本を渡されて、ネージュは俄かに目を輝かせた。
超一流の魔法使いの教科書だなんてとても夢のあるアイテムだ。わくわくしながらめくるとやはりページのそこかしこに下線やメモ書きが記されていて、努力の跡がありありと残っていた。
「土の極大魔法は上空への攻撃に向かないけど、まずはそこから練習するのが良いだろうね」
「承知しました。土の極大魔法ですね」
教科書をめくって土の極大魔法のページを出す。
魔法の練習はまずは魔法陣を書くことから始まる。そこから魔法陣を書く工程を省き、呪文を省き、最後の一節のみで発動できるようにするのだ。
弱い魔法ほど短縮するのは容易になる。ネージュの場合は大魔法だとかなり長い呪文を読まねばならず、切迫した戦いの場においては使い物にならないことが多い。魔獣と相対するには最低でも呪文のみで極大魔法を放てるようにならなければ話にならないだろう。
ネージュは魔法陣を地面に記し始めた。訓練はまだ始まったばかりであり、この後は半日をかけて極大魔法の基礎の基礎を叩き込まれることになるのだった。
屋敷に帰ってきたネージュはすっかり疲労困憊していた。
カーティスは穏やかで優しいのだが、魔法のこととなると容赦がなく、笑顔で次々と難題を課してくる。それが身を案じての厳しさと知らないネージュは、やっぱり不出来な生徒なのかと落ち込んでいた。
けれど、幸せだった。
ネージュに魔力があることを教え、地獄から引き上げてくれた唯一の人。兵士をやっていた頃は二度と会えない事も覚悟していたのに、どんな善行を積んだのか、一対一で魔法の講義を受けることになるなんて。
まるで夢みたいだ。幸せすぎて現実感がない程に。
ふわふわとした気分のまま客間に備え付けられた浴室でシャワーを浴び、タンクトップと短パンといういつもの部屋着に着替える。この屋敷は炎の魔法使い二人の魔法によって温められているようで、寒い場所など一つもない。
ネージュはふとそこで自らのミスに気付いた。そういえば、今日はシェリーが部屋に遊びにきて欲しいと言っていたのではなかったか。
浮かれすぎてすっかり忘れていた。今からでも行きたいところなのだが、この格好はどうしようか。
——まあカーディガンでも羽織っておけばいっか。
こういう時にガサツなところが出るのが、孤児院育ちたる所以だと思う。ネージュは浮かれるあまりにすっかり忘れていたのだ。ここは女子しかいない女子寮ではないということを。
シェリーの部屋はすぐ隣の階段を登った三階にある。ネージュは適当にカーディガンを羽織るとあてがわれた客間を出て、階段を登り始め——すぐに己の愚かさを知ることになった。
同時に階段を降りてきたのはカーティスその人だった。昼間と同じ服を着たまま足を止め、目を丸くしてこちらを凝視している。
あまりの事態に今の自分の格好を脳内が勝手に反芻した。タンクトップに短パン、上にはカーディガン。湿ったままの髪に、足は放り出して靴を履いただけ。
この時、悲鳴をあげるのはお門違いだという理性のストッパーが働いたのは、不幸中の幸いだった。ゼンマイの切れたおもちゃのように動きを止めたネージュに対して、カーティスがいつもの笑みを見せてくれたことも。
「……お休み、レニエ副団長」
カーティスはそのまま階段を降りていった。気を遣って何も言わなかったことは明白で、不自然な間が何よりもその事実を物語っていた。
過ぎ去っていく足音が小さくなり、やがて完全に聞こえなくなる。それからたっぷり一拍置いて、ネージュは襲ってきた羞恥により全身を赤く染め上げてしまった。
声にならない悲鳴を上げ、脱兎のごとく階段を駆け上がる。シェリーの部屋に辿り着くなりノックの返事も待たずに扉を開け放つと、部屋の主はドレッサーで髪を梳かしているところだった。
振り返ったシェリーはシンプルなネグリジェを着ており、ネージュとは比べるべくもない程の可愛らしさだ。
「シェリー!!!」
ただならぬ友人の様子にギョッと目を見開いたシェリーは、突進してきたネージュをしっかりと抱き留めてくれた。
「どうしたのネージュ!? 落ち着いて!」
「死にたい! 自分の馬鹿さ加減が死ぬほど憎い! いっそ殺してえええ!!!」
「ええ!? ちょっと、本当にどうしたのよ……!?」
この日アドラス侯爵家の一人娘の部屋が消灯されたのは、草木も眠る頃合いだった。
そして当主もまた眠れない様子で庭を歩き回る姿が見られたのだが、それは誰も知らない事実である。




