寝坊なんて二度とするものか ①
携帯ゲーム機を持つ手が震えていた。視界が滲んでエンドロールが見えず、乱暴に巻き上げたティッシュを目に押し当てる。
なんて悲しい、けれど心に残る物語なんだろう。私も彼等と共に戦えたら良いのに。騎士になってこの人たちを守って、全員が生き延びるエンディングを見ることができたら良いのに。
大学生にもなってそんな事を考える。それ程に愛おしいキャラ達、重苦しくも美しい物語。
もしもこの願いが叶うなら、私は——。
「ご飯よー」
階下から呼ぶ声が聞こえて、鼻をすすりながら立ち上がる。
目を真っ赤にして現れた娘に母は一瞬目を丸くしたが、すぐに苦笑して茶碗を手渡してくれた。
「そんなに良かったの、新しく買ったゲームとやらは」
「控えめに言って最高だった……悲しすぎて死にそうだけど……」
「あらそう。そこまで夢中になれるものがあるって、幸せねえ」
からからと笑う母は娘の傷心など意に介さないと言わんばかり。そのさっぱりとした態度はいつものことだ。
「お母さんはないの、夢中になれるもの」
「あるよ? お母さん業、かな」
お母さん業、か。大変そうで楽しそうで、まだまだ自分に置き換えて考えるには難しい素敵な仕事。
母のことが大好きだ。そう言ってのけるところも含めて、最高にかっこいい自慢のお母さん。
「今日のご飯何? お母さん」
「ハンバーグ。あんたもたまには手伝いなさいよ」
「ゲームがないときは手伝ってるもーん」
呆れ半分に差し出された皿には大きなハンバーグが乗っていた。その味を食べられなくなるなんて、その時は思いもしなかったのだ。
*
懐かしい夢を見てしまった。
ぼんやりとした視界を拭うと、その途端に明確になるのは寮の見慣れた天井で、ネージュは人知れず苦笑を漏らした。
前世の自分は「女王陛下の祝福」に感激するあまり、騎士になりたいとまで思っていた。よくあるオタクの妄想だ。
ちょっと変わった趣味を持つ娘を決して馬鹿にしなかった母。事故で急死した後はきっとすごく泣いただろう。
——そういえば、神様はなんでも一つ願いを叶えてくれるって言ったんだよね。
ネージュはその甘言について考えたことがなかった。動かなければ自分が死ぬ上に、周りの親しい人まで命を落としてしまう。そんな状況にあっては褒美があってもなくても行動を起こさない方がどうかしている。
神が願い事を叶えると言ったのは、ネージュにとって関係のない敵方や、更には大勢の人々まで救えと命じるためだろうか。それにしたって、どうしてそこまで命が失われないことにこだわる?
願いというのは前世に戻してくれという願いでもいいのだろうか。もし可能だとしたら、その時自分はどうするのだろうか。
わからない。前世も今も、周囲の人たちのことを慕わしいと思う。
考えても答えが出ないのはいつものことだったので、ネージュは暗い気分を振り払うように伸びをして起き上がった。ふと視線を滑らせると、壁に掛けられた時計が示す時刻は正午過ぎ。
ネージュは盛大に動きを停止させた。
いやいや、そんなはずはない。自分には仕事があるのだから、この時計を信じるなら大寝坊をしたことになる。
そこまで思い至ったところで昨夜の記憶が蘇ってきた。
そう、密偵を吹き飛ばしたところでカーティスに見つかった。服装を見れば昨夜と同じスラックスとシャツだ。
カーティスは騎士を目指すきっかけになった大恩ある相手。そんなお方の目の前で気絶したばかりか、状況を読み解くならばここまで運んでもらったことになる。
——えっと、うん、夢だね!
ネージュは即座にそう断じた。混乱する頭は思考を拒否し、この信じがたい現実を都合のいい方へと導こうとする。
そうだ、あまりの眠気に部屋に着いた途端に気を失って、妙な夢を見ただけだろう。バレたところから夢だったんだ、そうに違いない。お願いだからそうであってほしい。
ネージュは自分に言い聞かせるように頷くと、青ざめた顔のままベッドを出ようとした。
何はともあれ仕事をサボってしまったことは間違いない。早く状況を確認して、皆に謝らなければ。
そこで部屋の扉が控えめなノックの音を響かせた。ネージュは何事かと高鳴る心臓を抑えて、恐る恐るドアノブをひねる。
訪問者の正体は麗しきヒロインだった。シェリーはネージュの姿を認めるなり翡翠を緩ませて、良かったと溜息をついた。
「ネージュ、起きていて大丈夫なの? アドラス騎士団長閣下から、倒れたって聞いて……」
昼休みに様子を見に来たの。そう続けた親友の言葉は、もはや脳内を素通りして行った。
カーティスがそう述べたということは、つまり。
昨夜の記憶が蘇ってきて、同時に全身から血の気が引いて行く。そんなネージュの様子にシェリーは目を見張って、肩を支えるようにしてくれた。
「ねえ、すごく顔色が悪いわ! 無理して起きてこなくて良かったのに……!」
心配そうに叫んだシェリーが室内へと誘導してくれる。されるがままにベッドの端に腰掛けると、友は銀色の柳眉をますます下げた。
「ネージュは無理をしすぎなのよ。最近はいつも団員に稽古を付けていたみたいだし。ご飯は食べている? ちゃんと眠れていたのよね?」
「いやその、シェリー。体調は全然悪くないから」
「そんなに顔色が悪いのに、嘘言わないで。無理すること無いわ」
純粋な心配が伝わってきて、思わず罪悪感の滲んだ琥珀色の瞳を伏せた。
やっぱり彼女は優しい。ネージュはこの世界の者ではないし、沢山の隠し事をしているのに。
「……ううん、もう出仕するよ。ちょうど目が覚めたところだったんだ」
「駄目よ、寝ていないと」
「急に起きたから、ちょっと貧血になっただけ。ほんとに大丈夫だから」
心配しないでと微笑んだら、シェリーは渋々ながらも納得してくれたようだった。しかし次に薄桃色の唇が紡いだ言葉には、またしても血の気を失うことになるのだが。
「もし元気なら、騎士団長室に顔を出しなさいって。……ネージュ、大丈夫なの?」




