終 広い世界へ
カーティスとの話し合いを終えたシェリーは寮に戻り、今は何をするでもなく机に突っ伏していた。
改めて大きな決断をしたものだと思う。
結婚できないという理由だけで後継者となることを断ってしまった。アントニーには今度改めて謝りに行かなければならないが、彼はそもそも地位にもシェリーにも興味が無さそうだったので、恐らくは笑って許してくれるだろう。
これだけ周囲の人を振り回しても、シェリーは一度気付いた想いに蓋をすることができなかった。
どうやら自分は恋をしているらしい。イシドロ・アルカンタルという異端の騎士に。
去年は騎士を続けられるならそれでいいだなんて格好良く啖呵を切っていたはずが、掌返しも甚だしい振る舞いだ。情けなくて涙が出てくる。
そもそもイシドロとはまた会う約束をしたわけでもないのに。完全に馬鹿の所業であって、これではあの憎まれ口に言い返せないではないか。
大きなため息をついた所で部屋の扉が鳴った。返事をしてドアノブをひねると、そこには見慣れた寮母の姿があった。
「アドラス副団長、お電話ですよ」
「電話? ありがとう、今行きます」
寮母は忙しくしているようで、ごめんなさい来客があってと言いながら早足に玄関へと向かって行った。相手が誰なのかを聞きそびれたと気付いたのは、廊下に備え付けられた電話の前に立った時の事だった。
さっきの今なので恐らくネージュあたりだろう。友達と話せるなら嬉しいなと思い、シェリーは機嫌よく受話器を取った。
「お待たせ致しました。シェリー・レイ・アドラスです」
『よお。先週ぶりだな、シェリー』
電話口から聴こえてきた声があまりにも予想外のものだったため、シェリーはここが公共の廊下であることをすっかり忘れてしまった。
「イシドロ⁉︎ 貴方が電話だなんて、一体どうしたの⁉︎」
思わず大きい声を出したことで、通りすがりの事務員の女性が振り返る。シェリーは自身の失態に青くなってからすぐに赤くなり、せめてと受話器に手を翳した。
まさか電話をくれるだなんて少しも想像していなかった。先程までもう話すこともないかもと思っていたくらいなので、突然のことに混乱してしまう。
『おい、声がでかいだろ』
迷惑そうな声は落ち着いていて、相手を驚かせたことへの申し訳なさは少しも感じられない。とても珍しくて特別なことをしている自覚もなさそうだ。
「だ、だって、びっくりするじゃない。誰なのか聞いていなかったんだもの」
『あそ。何でもいいけど』
当たり前のことではあるが、イシドロは電話で話してみてもやっぱりイシドロだった。
彼は寮母とどんな遣り取りをしたのだろうか。畏まって対応するのが電話の基本だが、敬語を一切使用しない彼がどんな話し方をするのかまったく想像がつかない。
『今時間あるか』
「それは、大丈夫よ」
シェリーは電話をする時間があるのかという意味だと受け取った。意外と人並みの気遣いができたらしいことに驚きを覚えつつ、一体何の用事なのかと身構えていると、イシドロが次に放った言葉は予想を遥かに上回っていた。
『じゃあ王宮の前に来い。今から行く』
「……え?」
疑問符を声に出した時には既に電話は切れていた。シェリーはぼんやりする頭を手で抑え、今聞いた短い台詞について反芻する。
じゃあ王宮の前に来い、今から行く。……今から、行く⁉︎
シェリーは事態を理解するより先に、受話器を置いて走り出した。
絶対におかしい、あり得ない。多分聞き間違いだ。けれど万が一があると困るから、一応見に行くだけ。それだけだ。
途切れ途切れに自分に言い聞かせながら、王宮の広大な敷地を駆ける。鉄製の瀟酒な門を出た先は左右対称の広場になっており、休日を楽しむ人々で賑わっていた。
夏の日差しが広場を照らしている。そこにイシドロの姿はなく、シェリーは知らずのうちに強張っていた肩から力を抜いた。自身の荒い息遣いが滑稽で、平和な光景とあまりにもかけ離れていた。
そうだ、彼が来るはずがない。貴重な休日に私は一体何をしているんだろう。
「シェリー」
求めていた声に名前を呼ばれ、シェリーは息を止めた。
空耳ではないかと思った。けれど確かめたいと思う心を否定できずに、声がした背後へとゆっくりと振り返る。
「よう。早かったな」
イシドロは何ら特別なことではないと言わんばかりの無表情で、ちょうど日陰になった門のすぐ隣に腕を組んでもたれかかっていた。
リネンのシャツにサスペンダー付きの黒いズボンという気楽な装いをしている。どうやら彼の私服らしいが、ここに居ること自体の違和感が強すぎて、似合っているのに感想が湧いてこない。
「なんで……一体、どこから来たの」
うわ言のように囁いて歩き出すと、イシドロも壁から身を起こした。日陰に入ってしまえば涼やかな風が抜け、走ったばかりの体を冷やしてくれる。
「ブラッドリー城に決まってる。うちに電話なんかあるわけないだろ」
飄々とした口ぶりがたったの一週間なのにもう懐かしかった。彼の言い分を紐解くと、まずは城に行く手間を取り、転移魔法を使ってまでここに来たということになる。
「どうして、ここへ?」
「あんたが会いたいって言うから来た。それだけだ」
——ああ、本当に。
会いに来てくれたのだ。殆ど勢いだけで告げた言葉を覚えていて、わざわざここに来てくれた。
少し前まで遠ざけようとしていたのに。だからこそ彼の行動がどれほど大きなものか分かってしまい、シェリーは少しだけ涙腺が緩むのを感じた。
ほとほと今日はよく泣かされる日だ。けれど今度は喜びばかりを覚えたから、涙を零すには至らなかった。
「何よそれ。本当に、自分勝手な人」
結局のところシェリーは笑って、掠れた声でそれだけを言った。
会いたかったから嬉しい、ありがとうと言えない自分は大概可愛げがない。それでもイシドロは穏やかな笑みを見せてくれたのだから、もしかすると言いたいことは伝わっていたのかもしれない。
シェリーは断りを入れることなく大きな手を取った。無防備な顔を無視して思い切り引っ張って、薄暗い日陰から太陽が照りつける日向へと彼を連れ出す。
「行きましょ! 王都を案内してあげる」
溌剌と笑って太陽の下にいる彼を振り返る。夏の日差しは白くからりとしていて暑すぎるとは思わなかった。賑わいを見せる広場に一歩を踏み出せば、私服姿の二人は普通の若者にしか見えない。
「覚悟してね。私がこの世で一番美味しいと思うアイスクリーム、ご馳走してあげるんだから!」
その時、イシドロが眩しそうに目を細めたように見えた。日陰に佇んでいた彼には少々強すぎる日差しだったのだろうか。
「……そうか。そりゃ、楽しみだ」
すぐにいつもの調子で言って横に並んでくる。楽しみと言ってくれたことが嬉しくて、シェリーはますます笑った。
「なあ、あんたこそ覚悟しておけよ」
「どういう意味?」
「別にィ。ほら、さっさと行くぞ」
繋いだ手が力を増して、シェリーは己の大胆な行いをようやく顧みた。熱が集う頬もそのままに見上げると、意地の悪い笑みが返ってくる。
昼下がりの王都は美しく輝いている。歩き始めた二人の背中は雑踏に掻き消えて、すぐに見えなくなった。
〈銀の姫君と黒の騎士・終〉




