☆
大人っぽい話を書いてみたかったんだ……。
小さめの缶入りの日本酒をテーブルにコトンと置く。
鈍い音を立てて、水面が揺れる。
ついさっき、あったことを思い出していた。
今日は、久々のデートだった。そのはずだった。仕事終わってそのまま彼に会いに行く予定だった。
いつもよりお洒落して、珍しく定時退社の目標達成できて、るんるん気分で、待ち合わせ先のファミレスに行くと……。
私の彼氏の男の隣に、私の親友の女が座っていた。一瞬疑問に思うが、親友が「結婚する」と笑顔で言う……。
「わぁ、おめでとう」と私は言って、「誰と」と言いかけて、ふと考える。てっきり、親友が誰かと結婚すると思ったけど、これってもしかして……
親友だった女は彼氏だった男の腕を取って「この人と」
その瞬間、頭の中が真っ白になる。
呆然として、何か言っている音だけが脳を通さず流れていった。
「って訳だからうちの鍵返して」
と彼氏だった男の言葉で、はっと我に返る。言われるがままに鍵を取り出して、テーブルに置いて、そのまま店を出た。
自分が何て言ったか、相手が何と言ったかは、全然記憶にないけど、飲んでないドリンクバー代はきっちり税込分の金額分置いたことだけは鮮明に覚えてた。
帰る途中のスーパーで、カゴの中に酒の缶数本と安くなってた刺身をしこたま詰め込んで、いつもより、高いけど、高級料理店いくよりは、全然安いとか、考えながら、夜道をてくてくと歩く。
その時買った酒の缶をもう一口、傾ける。
彼のどこが良かったのか、彼女と何で友達だったのか、思い出せなくなっていた。
呑みすぎて二日酔いの朝に、なんでこんなに呑んじゃったんだろーって思うみたいに。
吐けば楽になる、わかる。
でも、吐くのはつらい。
知りながら、ついまた呑み続けてしまう。もう、美味しくもないのに。酔いを求めて。
ため息をつきながら、缶を傾ける。
だんとテーブルに皿を置く音がして我に返る。
「不味そうに呑むな」
「だってえー、美味しくないんだもん」
「なら止めろ、水飲め。」
「飲むぅ」
ごくごく飲む。冷たーい、それだけで、美味しーい。
「柑橘の味するぅ」
「レモン。たんぱく質も取っとけ。」
口調は丁寧じゃないけど、面倒見のいい人なのだ。
てか、レモン! おしゃれ! テーブルにもおつまみが増えてた。買ってきた刺身が一部煮魚になってる! 箸を伸ばすと、ほろほろで、甘辛で生姜がきいてて、つまり、美味しい。また、つい、酒に手が伸びる。
日本酒がすっきりと流してくれる。
「合うー!」
「そうか。」
と目を細める。私が買ってきた鮮度が怪しい割引のお刺身、生姜の味がする甘辛な煮魚、たことサーモンのわさびが効いてるサラダ……、魚料理ばっかり並ぶテーブル……。向かいの椅子に座る人は、つやつやした真っ黒の髪とちょっとつり目。ちょっと怖そうにも見えるけど……何となく……
「猫っぽい! しかも黒猫!」
うきゃっきゃっと笑いながらいう。
一瞬、憮然とした表情をするが
「……酔っぱらいめ……」
と呆れた感じで呟く。
「ふぅりんさあ、結婚すんだってー」
親友のあだ名を言う。
「ふうん。」
全く興味なさげだ。そのクールさはポーズか、ポーズなのか! 我らのマドンナの結婚というのに! 多分、速報! のはず。
「何よぅ、びっくりー! とか、がっかりー! とかないのー」
「てか、誰だか知らん」
よく一緒に連んでるメンバーの一人なのに、薄情者めー
「一番美人な子だよ!」
その説明で大体みんな「ああー」って言う。
猫科の目で、じっと顔を見て
「やっぱ、わかんね」
と笑う。なんだか、からかわれたのはわかって、むーと思う。まあ、みんなかわいいもんねー、私以外。みんな、ふわふわしてて、きらきらしてる。そうなろうと一生懸命努力してるのって何だか私だけな気がする。
「相手はねー」
一口呑む。「ワッキーさん」
私の彼氏……じゃなくて元彼氏の名に、一瞬だけ空気が凍る。
「へー」
と、さっきと同じ温度で言う。まさか!
「さすがに、ワッキーさんはわかるでしょ!?」
自分が作り出した気まずい空気をかき回すように言うと
「知ってるよ」
とだけ答えた。
「いつからだったんだろーねー、全然わかんなかったぁ……」
酒の缶をもてあそびながら、「ふぅりんはねー、ずっと昔から友達でさー……」
と言いながら語り始める……。
ふぅりんとは、小さい頃から仲良しだったの。物心つく前から……。家近かったの。しかも、同い年。その頃から、天使みたいな可愛いさだったー。私が好きだなぁって思う男の子もみぃんなふぅりん好きでさー もう、こうなっちゃうと、ふぅりんなら仕方ないなって、思うしかないよね。
なんでか知んないけど、いつのまにか、私がみんなに誤解されて、孤立しかけた時も、ふぅりんだけは、仲良くしてくれてたし。
可愛い上に、優しくて…………ずっと、親友だと思ってた。
あのことも、別れたこともだけど、もう友達じゃないよって言われたみたいで、それがまた悲しかった。
ワッキーさんは、初めて、ふぅりんじゃなくて、私の方を好きって言ってくれた……。もう、そんな人二度と現れないかもって思ったの……。思ったのに……なあ……。
ほら、私、みんなと休み合わないじゃん、だから、二人きりでーっていうより、みんなで遊ぶことの方が多くて…………そのせいかなぁ……。
缶を傾けるといつの間にかなくなってて、滴だけが口の中に落ちる。
もっと、私が頑張れば、もっと、何とかできてたら、未来は違ってたのかな…………。
ビニール袋の中の新しい缶に手を伸ばし、呑みきれないかも、と、手を止める。
「残ったら呑んでやるよ」
と言いながら袋から1本取り出し、缶を開けて寄越す。お礼を言いながら、一口つける。
「呑んだら記憶って忘れるのかなぁ」
水面を眺めながら言うと
「さあ。そこまで呑んだことないからわからん」
「私もないやー……」
と答えながら、そういえば、この人が酔ってるとこって見たことない。
この家は、私も何度がきたことあった。もちろん、1人ではない。今日が初めてだ。
普段は、何かイベントの度に、みんなでお邪魔する。この人は、料理出しながら、自分もがんがん呑んでるのに、なんだか、あっちこっち気が回って、野菜食えー これたべろー これ飲めー って感じで、みんなの世話して回って、気が付けば、みんな酔い潰れる前に「楽しかったねー」って雰囲気で、家に帰して、最後、後片付けまで全部しちゃうみんなの頼れる兄貴的な人だ。
イケメンだし。モテるんだろーなー でも、彼女いるんだっけ。なんか、ふぅりんが言ってたような気がする…… ふぅりん……。また思い出しちゃって、心がずきんとする。
「一気飲みやってみるぅー」
と缶を傾けると、
「それは止めとけ。」
と、取り上げられる。でも、手が勝手に追いかけてしまって、立ち上がった拍子に、つい、ふらっとする。うわっ、どっかに、ぶつかるかも、と、ひやっとする。が、その前に、がしっと、受け止められていた。がっしりとした腕で。抱き合う形で密着していた。ぽたんと目の前の布に、滴が落ちてはっとする。
「あぶね……てか、ごめん、こぼした。」
ああ、日本酒か。髪からもふわっとアルコールの匂いが漂ってきて酔いそう……。人の温もりが、あったかくて……。やばい……やばいやばい……。
缶をことんとテーブルに置く音がして、離れていきそうな気配を感じ、思わず、ぎゅっと手に力を入れてしまう。
「おい、酔っ払い。はな……」
「やだ」
"離せ" か "離れろ" か。どちらにせよ、呆れた声のそれを短く断る。頭上で大きくため息を落ちる。でも、離れられなかった。泣き顔を見られたくなくて。
そのまま、抱きついたまま、涙が滲み出るのを止められず、声を堪えながら、しがみつく。
無言で、トントンと震える背中をなでる。暖かくて、深い響きに、
「だ、だめ……」
「いいから。」
ぐっと、抱え込むように言われる。そんな珍しいくらい優しい声で言われると……余計に……。
ぜんっぜん可愛くない、濁音だらけの声で泣き喚いてしまう。
部屋の中が、布でくぐもったその音で埋め尽くされて、煩いかもとか、近所に迷惑かけちゃうかもって、わかるのに、自分では止められなくって…………。
しばらく、泣き続けて、だんだんと、声出すところが疲れて、全身が疲れきって、でも、何だか、気持ちは治まってくる。それでも、涙が止まらない。うっうって、しゃっくりみたいに続いていた。それを、優しい手が支えていてくれた。
「……も、もう……だいじょ……」
顔を上げると、目の前は、べしょべしょのぐしゃぐしゃになって、それはもう大変なことになってた。
「わっ、ご、ごめ……」
慌てて離れると、
「ティッシュ。」
と、ほいと箱を渡される。思わず受け取ると、その隙に、シャツを脱ぎながら、どこかへ消える。
大惨事になっている顔拭きながら、何かすーっとするヤツで再度顔を拭く。段々冷静になってくる。
ど、どうしよう、さすがに、怒らせちゃったかも!
よくイラッとしてるのを見たことある。酔っぱらいがウザい絡みしてきたときとか、女の子が面倒くさい絡み方してきたときとか。自分にじゃなくても、ドキッとしてしまう……。
って! 今、それ私! 突然、お邪魔した上に、自分で買ってきた酒呑んで、つまみまで出してもらって、酔って、抱きついて、わがまま言って、泣き喚いて、今ココ!
うわぁ、うわぁぁ…………
普段では考えられない程の自分の傍若無人さに慌ててしまう。
せ、せめて、床に落ちた水滴だけでも、としゃがみこんでティッシュでぐしぐし拭く。
けど、下向くとぐわんとして、床に手と膝をつく。
「無理すんな」
いつの間にか戻って来ていて、怒ってなさそうな言葉が頭の上に降ってくる。
「ごめん! ごめんね! ごめんなさい!」
謝ると、
「落ち着いたならいい」
と言う。見上げると、ふっと笑う。
さっきのことを思い出してドギマギする。恥ずかしい! ちょー恥ずかしい!!!
「帰ります!」
「鍵はあったのか」
冷静な声に自分の状況を思い出す。
ああ、そうだった。鍵なかったんだった……。そうそう、だからここにいるんだった。
いったん、家に帰ったのだけど、鍵が見つからなくて、来た道を戻りながら、どうしようか途方に暮れてるところで、ばったり出会ったのだった。探してはいたけれど、多分、あの場所にあるんじゃないかという見当はついていた。確かめれば一瞬で終わるけど、取りに行けない所だった。
「まあ朝考えろ。」
と、言いながらポンポンと頭を叩かれる。
テーブルを見ると、おつまみが残っている。酒も、さっき開けたやつが辛うじて残っている。
「まず、水」
と、コップを前に出される。
素直にそれを取って、ぐっぐっと飲む。美味しいー。
「すごい、よくわかる。」
「そりゃわかるよ、ずっと見てきたんだから。」
「え」
思わず顔を見てしまう。冗談? そうじゃないの?
「もう、ずっと、お前があいつと付き合う前から。」
「うそ……」
「そんな嘘吐くか。」
「でも、男の子はみんなふぅりんが好きなんじゃ……」
「何調べだよ、それ。」
と苦笑する。「俺はお前が好きだ。」
「う、うわぁ…………」
突然の、ど真ん中ストレートの告白に、顔が赤くなる、暑くなる、手の平でパタパタと扇ぐ。
「ってなぁ、こんな時に、こんなとこで、こんな風に、告るつもりなかったのに……。」
と、手の平で顔をおさえて、ため息を吐く。
「今付き合ってる人は」
「いるわけないだろ。」
「よ、よかった。えっと、ええと、」
勇気を出して言葉を口にしてみる。
「す、好きになってもいいですか。」
あれ、違う、あれ、何言ってるんだろ自分。好きになります。でもないし……
「えっとね、うんとね、好きに、なっちゃった、かも……」
つっかえながら言うと、少し驚いた顔をして、その後、ポンポンと頭をなでる。
「慌てんな。」
「や、やっぱり、軽いって思う? チョロいって思っちゃう?」
「いいや? でも、お前が悲しくないならそれでいい、今は。」
私、悲しい? 少し考えて、思い出す。
あっ、すっかり忘れてた! なんか、失恋的なことがあったんだった。さっきまであんなに苦しかったのに、自分の中では、ニュース速報が出るくらいの大事件だと思っていたのに、忘れちゃってた。この分なら、明日には、ワッキーと、ふぅりんを思い浮かべても、どうぞー! 末永くお幸せに! と思える、かもしれない。
こういうもんだっけ失恋って。あれ、やっぱり、自分チョロすぎ?! この気持ち軽いのかな。錯覚?!
いや、違う、絶対違うもん。
「ねえ、チューして」
「はっ?」
「いいじゃん、ね、」
んーって顔を寄せると、仕方ないという感じで、顔が近付く。
ドキドキする……! すっごいドキドキするー! ほらー! 軽くない! 錯覚でもない!
唇が触れそうになる瞬間、ふと思い出す。
「あ、やっぱだめ!」
顔を離して、背けて言う。
「はぁ?!」
「今、私、酒だもん!」
やだやだ、アルコールの匂い、全然可愛くないー と訴えると、
「しょうがねーな」
残ってた酒の缶に一口つけて飲み干す。ぐっぐっと動く喉仏を見つめてしまう。
「これで一緒だろ」
と今度は、後頭部を抑えられながら、唇が触れる。あったかくて、柔らかくて、少し湿ってる……。
何回か確かめるように重ねる。
「ドキドキしたぁ」
「それはこっちのセリフだ」
という苦情を聞き流し、
「日本酒、好きなんだねー」
すると、なぜか少し顔を赤らめる。首を傾げると
「お前が好きなんだろ、日本酒。」
「えっ、なんで知ってるの!」
人前では、あんまり頼まないようにしてたのに!
「内緒」
ふぅりんと同じような、かわいらしいジュースみたいなしゅわしゅわした甘くてカラフルな飲み物を、いつも呑んでたはずなのにー!
ジタバタしていると、奥から何か取ってくる。
「これ好き?」
「す、好き。」
その返事に笑みを深める。彼が手にしてるのは、有名な銘柄のたっかい奴だ。これまた、高そうな箱に入っている。
それを惜しみなく開ける。小さめのグラスを二つ並べて、とくとくとく……とつぐ。いい音。この音好き。
「いいの?」
グラスを持って飲む気満々なのだが、一応聞いておく。
「勿論。」
乾杯とグラスをカツンと当てて呑む。
おいしい! しかも、おつまみも美味しいー!
「はっ、呑んだら記憶って忘れるんだっけ?!」
「覚えておきたいことだけ覚えとけ」
と良い笑顔で言う。
その後、美味しく呑んで、美味しく食べながら、これ美味しい! だの、どこそこ行きたいね、この映画見たいとか話をした気がする。
☆.。.:*・☆.。.:*・☆.。.:*・☆.。.:*・
で、うわっと目が覚める。
布団ばっさーって、音を立てて落ちた。服は着てる。昨日の服のまま。
もしかして、夢…… 振られたのも、告白されたのも……とオロオロするが、呑んだ次の日のだるーい感じが夢じゃないと教えてくれる。
覚醒していきながら、段々と思い出す……。ヤバい…… 全部覚えてる。自分が相当なことをしたと。うわー あの人に、抱きついて、散々泣き喚いたり、キスをせがんだり……
てか、付き合ってもいない、男性の部屋で一晩すごしちゃうなんて…… あれ、付き合ってるんだっけ、どうだっけ……。…………。
とりあえず、起き上がって、ふらふらしながら、物音がしてる台所の方に行く。
「おはよ。」
「お、おはようございます、ご、ごめんなさい……」
という自分の声も酷い……。
「気にすんな。」
と、頭にポンと手を乗せる。
「てか、すっげー呑んでたけど体調は。」
「まだ、変な感じ……」
「だろーな。」
と言いながら笑う。「すぐできるから座っとけ」と台所を追い出される。
椅子に座って、ぐじぐじと反省し、誓う、もう呑みません、やっぱり、呑み過ぎません、寝落ちちゃうくらいまでは…… と。
それを断ち切るように、お椀をテーブルに置く音が響く。見ると、味噌汁だ! しかもしじみ!
「すごーい。」
彼はもう朝ごはん食べ終わっていたようで、コーヒーだけ、マグカップに入れて飲んでいた。時計を見ると、もう朝って時間でもなかった。
食欲は全くなかったけど、お味噌汁なら飲めそう。
ふーふーして冷ましながら食べて、今日やらなきゃいけないことを考える。
家帰ったらー あ、その前に大家さんに連絡しなきゃ……。幸い今日は丸一日休みだ。デートの予定だったから。
冷静になってよくよく考えると、あれって、怒ってもよかったような気がしてきた。けど、怒りはわいてこなかった。
「案外、記憶ってなくならないものなんですねー。」
ため息をつきながらいうと、
「へー。でも、忘れてたら、また告ったけどな、何回でも。」
と笑う。
「えっ、あれ有効なんですか!」
「むしろ、無効なのか。」
「だって、酔ってたし……。あの後も、私、すっごい色々しちゃった気がします……。」
うっすら覚えてるけど、良い酒呑みながら、ねえーこれ食べてー、ってあーんしたり、ぎゅーってしたいー って抱きつきに行ったり、ねえねえキスしてーって言ったり………………。
うわー! 思い出すだけで顔が赤くなり青くなる。もう、嫌われててもおかしくないかも……! ジタバタしてると、
「嫌なら言うし。っていうか、嫌いな人を泊めたりしない。」
と、真顔で言う。やっぱり赤くなる。
「な、なんで私なんですか……。」
「内緒」
と、笑う。ずるい。笑顔で許せちゃう。
むーとしながらも、勇気を振り絞って言い出す。
「あの、ええとね、今日、ワッキーさんのところ、一緒に行ってくれませんか。」
「なんで。」
「もしかすると、鍵、向こうにあるかもしれなくって」
と、そういえば、詳しく説明してなかったと思って、昨日あったことを話す。
デートの待ち合わせ場所に行ったら、ふぅりんもいたこと。突然、結婚すると聞かされて、合鍵を返すように言われたこと。そのまま返して、店出てきたのだと。
「それで、もしかすると、合鍵と一緒に置いてきちゃったのかも…………」
「鍵は、いつもは。」
「キーホルダーでまとめて、カバンの内ポケットに。」
と言いながら、カバンを見せる。
内ポケットの中にも、カバンの中にもなかった。一人暮らしで、オートロックでもないので、帰った時に閉まっていた以上、出る時に自分で閉めたはずである。
昨日もカバンをひっくり返す勢いで探したけど見つからなかった。
「ハンカチとかは。ティッシュでもいいけど」
「ハンカチ? ええと、上着のポケットに……」
ハンカチを取り出すとその拍子にじゃらんと音がした。
【おまけも本編】
「ふぅりんと結婚することになりましたぁー」
「いえーい」
と喜んでるのは本人たちだけである。浮気男は隣の女と腕を組んでいる。 ”ふぅりん” ってこいつだったのか、と略奪女を見て思う。
みんなの視線がそれとなく "彼女" に集まる。
浮気男と、付き合ってたのは、みんなも知ってたので。
"彼女" は、笑顔で
「ふぅりんおめでとう!」
って祝う。略奪女は、
「ありがとぉー! 嬉しいよぅー!」
ってぬけぬけと喜んだ様子で、ぎゅっと "彼女" に抱きつくが、周りは微妙そうな表情を浮かべていた。
「私も嬉しいー! ワッキーさんと幸せになってね!」
他意など何もない笑顔で言っているのを見て、他の連中も、微妙な表情ながら、祝うような素振りを見せはじめた。
やがて、酒が進み、
「ってか、ずっりぃよなぁ、ワッキー。あいつと付き合ってるって言ってたじゃん。なのに、いつのまに、ふぅりんゲットしてたんだよー。」
からかうような口調に、場の空気が凍り付く。ちらっちらっと "彼女" の様子をうかがう視線を "彼女" は、全然気付かず
「えー、でも、お似合いだからきっとこれで良かったんですよー」と言う。「好きじゃない人と付き合っても、つらいだけですし!」「別れた時は、悲しかったけど、今はそんなに。私も彼氏いるし。」
「へー、別れた直後に、自分の親友と結婚ってオレなら絶対許さないけどなー ってええええ!? 彼氏って!!!」
酒こぼしそうな勢いで驚く。
「彼氏!?」
「いつのまに!」
「ってか誰!」
と "彼女" の周りに人が群がっている。
主役、になるはずだった二人は、放って置かれる形だ。略奪女は明らかに憮然として表情をしていて、少し笑ってしまう。
「えっ、えーっと」
と、どぎまぎしてる "彼女" のそばに行って、見せつけるように、ぎゅーっと抱きしめてやる。
「俺の "彼女" 。」
と一言言うと、「えええええ!!!」と今日一番の歓声が上がる。
「まっじでー!!」
「おめでとー!!!」
と次々に酒をつがれる。
向こうに視線を投げると、略奪女は、「嘘!」って表情で固まっていた。
やがて、がたっと立ち上がり、ずかずかと向かってくるのをみながら、
「そういう訳だから、 "彼女" いじめたら、即こっから追い出すからよろしく。」
と冗談っぽく聞こえるように言う。
「溺愛かよー いいなぁ、彼女ー! オレもほしぃぃぃ!」
こいつは何も知らなそう。
「そんなことしねーし!」
こいつは、何かするつもりだったらしい。要注意だ。と、こっそり反応を見ながら見極めていく。
「そうそう、この中にいじめる人なんているわけないもんねー? ふぅりん」
この先輩は、知ってる上で言ってる。略奪女は、悔しそうな表情を無理矢理笑顔に変えながら、
「そうですよ、私たちずっと仲良しですから。」
と答える。浮気男は、さすがに気まずそうな表情をして、ちらちらこっちを見ていた。まあ、こいつらは、もう二度とうちには呼ばねーけどな。
俺の可愛い "彼女" は、照れながら、
「みんないい人たちでよかったぁ…… ありがとう……」
としみじみと嬉しそうに言う。
こういう所が好きだ。
☆.。.:*・☆.。.:*・☆.。.:*・☆.。.:*・
そもそも、好きになったのは、良い理由ではなかった。
昔、俺には長いこと付き合ってる女がいた。
けれど、ある日唐突に別れることになった。それは、雨の日のことだった。受け入れられず、勃然と立ち尽くす俺に、同じくらいの年の女が一人、傘を差し出して、去っていった。
受け取った水色の傘を見上げながら、もう、ずぶ濡れだし、今から傘さす意味あんのか、と思って、少し笑ってしまう。
その後、むしろ、あの子の方が濡れるんじゃ、と思った頃には、既に姿はなかった。
後日、恋人との別れが、略奪女の企みの結果だと知り、復讐を誓う。
どうやって復讐してやろうか、考えている時に、 "彼女" を見かける。略奪女のグループの1人であったその "彼女" があの日、傘をくれた人だった。水色の傘を見せると「風邪引きませんでしたか!」と言う。それは、こっちのセリフだと言うと「卵酒のんだから大丈夫なのです。」と言う。「風邪引いてんじゃん」って言いながらちょっと笑ってしまった。
関わっているうちに段々とその関係性がわかってくる。 "彼女" は、略奪女を親友と思っていたようだが、実際のところは、体の良いパシりだった。
「あれにやらしときゃーいいんだよ」と陰でそう言って笑っていた。
目立つようなことは苦手な "彼女" は、略奪女と妙なところで相性があってしまったようで、都合良く使われているのを気付かないままいたようだった。
略奪女は "彼女" をわざと仲間外れになるように仕掛けておきながら、「私だけは、信じてるからね!」なんて、虫唾の走る言葉で懐柔していた。
「助けてやりたい」と思うようになって、知り合い達と略奪女のグループにそれとなく近寄り、気が付いたら融合していた、という形にもっていった。
略奪女のグループは、略奪女の信望者の男と、略奪女に近付いてお零れをもらおうとする女たちがいた。
知り合いたちは、つまみ食いが好きな連中だったので、まあ、そこそこ楽しんでいたようだ。
やがて、 "彼女" に彼氏が出来たことを知る。
自分が救うまでもなく、幸せになったんなら、良かったと思うべきなんだろうな、と自分に言い聞かせていたが、後日、全く良くなかったことを知ってしまう。
「あれさー。別な女との交際の隠れ蓑にしてるっぽいよー」
は? どういうことか聞くと、略奪女派の男性陣は、「(略奪女)には手を出さない! 抜け駆け厳禁!」の決まりがあったんだと。
で、浮気男は、 "彼女" と付き合ってる風に見せかけて、こっそり略奪女と付き合っていたらしい。
「でも、最近、酒呑んでないし、もうじきかもね」
「何が。」
「結婚。」
無言になってしまう。そしたら、 "彼女" は…………。
その話を聞いた後、どうするか考えている頃に、 "彼女" に会ってしまったのだった。若干、気まずい思いもあったが、困っていたようなので助けて……………………
☆.。.:*・☆.。.:*・☆.。.:*・☆.。.:*・
「で、酔わせて、弱ってたところをつけ込んで、落としたと」
なんで、そうなったのかkwskと言われたので、ざっくりと事情を説明したところ、ものすごく端的にまとめられた。
「…………うっせぇ」
といいなからも図星であった。
「てか、普段硬派ぶってるお前がそんなことするなんて、ちょーウケるー」
ちょーウケてる、真顔で。
「どこがいいのさ」
酒やつまみを追加注文しながらいう。
「お前には絶対教えない。」
「けちー」
と唇を尖らせる。
「向こう、大変らしーよー。」
といいながら、向こうの話をする。
あの直後、略奪女は、結婚したくないと言い出し、浮気男は、売り言葉に買い言葉で、別れることを承諾したらしい。
略奪女の思惑は、結婚してくれる男はたくさんいるはず、だったらしいが、その状態で、了承する人はいないだろう。
元信望者達は去って行ったらしい。
特に取り巻きだった女達の行動は早く、さーっとCOを宣言して、あの人とは違うんですアピールをしてきた。
まあ、その辺も様子見だが。
浮気男の方だが……
「なんかねー、逃した魚は大きかったって気付いたみたいでねー」
"彼女" は何気に高給取りだと知ったらしく、何とかしてすり寄って来ようとしているらしい。
「付き合ってた時は、散々言ってたのにね。かわいくなっちゃったもんねぇ…… 意外と胸が」
「お前も出禁にするぞ」
「冗談だし、冗談。」
カッカッカッと笑いながら言う。
「でもまあ……」
去り際に一言残して去っていく。
「復讐の為とかじゃなさそうでよかったよ。」
復讐、って一時期はあんなに思ってたのに。
携帯の履歴に、"彼女" の名前がある。思わず、ざわついていた心が静まる。
発信すると
『あ、もしもし、ごめんなさい、忙しかったでしょーか?』
「全然。」
『あのね、今度の週末なんだけどねっ、お休み取れそうでね……』
弾んだ声を聞きながら、週末のことに頭がいっぱいになっていた。