エピローグ 引き継ぎ完了まで、あと三十年
一年が経った。
大陸評議会は、今日も揉めている。
第十三回評議会の議題は、旧ガレア帝国領の水利権と、西方諸国間の関税と、「声の柱」の裁定に上訴制度を設けるか否か。各国の代表は毎回怒鳴り合い、三日徹夜で妥協案を作り、また怒鳴り合う。グレアム三世は宣言通り毎回本人が出席して、老獪に立ち回っている。ドラモンド将軍は一年の禁固ののち釈放され、なぜか今は評議会警備隊の隊長をやっている。「機械に借りを作ったままでは死ねん」というのが本人の弁だ。
戦争は――まだ、起きていない。
国境紛争の火種は今もある。だが、どの国も知っている。開戦すれば、あの塔は評議会の決議ひとつで物流と裁定をその国から引き上げる。そして繭の術式が、両軍を優しく梱包する。戦争は「できない」のではなく、「割に合わない」ものになった。人類が自分で選んだ、最初の平和だった。アガメムノンの予測モデルは、合意形成の成功率を毎月上方修正して、そのたびに『学習データ不足を認めます』と悔しそうに言う。
旧魔王の塔――今の正式名称は「大陸公共基盤・中央塔」は、世界一騒がしい役所になった。
そしてその三階に、俺たちの城がある。
扉の看板には、こうある。「魔導工学院・第一期」。
教室では今日も、大陸中から集まった一期生四十人が、詠唱の構文解析と単体試験の演習をやっている。教壇に立つのはエルシィ・オルドナ学院長、二十歳。教科書は『詠唱最適化入門』、著者・三嶋湊。あの二百六句の繭の術式は、いまや教材として三十句まで短縮された。学生の半分はセーフティフィールドの出身で、半分は西方諸国の出身だ。十年後、こいつらが大陸中の術式を保守するようになる。
「――ミナト。またここにいた」
授業を終えたエルシィが、塔の屋上に上がってきた。俺はいつもの手すりにもたれて、夕暮れの平原を眺めていた。眼下では、ゴーレムが水路の補修をやっている。
「アガから聞いたわよ。座標の再現計算、終わったんですって?」
「ああ。……ついさっきな」
地球への帰還。一方通行だったはずの扉は、三十年ものの人工知能が本気を出せば、開けられるものだった。転送座標の再現、演算完了。魔素の大規模充填に半年。つまり半年後、俺は帰れる。
『――正確には、選べます』
屋上のスピーカー結晶から、聞き慣れた少女の声がした。
『帰還するか、留まるか。三嶋さんの、自由です。……ちなみに本日、地球への短文通信の実験にも成功しました。一方向で、百四十文字まで。何か送りますか』
「百四十字」俺は笑った。「SNSかよ。……いや、送るものは決まってる」
俺は少し考えて、文面を口述した。
《株式会社ネクサスウェア 佐伯様 一身上の都合により退職いたします。後任への引き継ぎ資料はデスク左の引き出しです。五年間お世話になりました。三嶋湊 追伸、転職先の現場は残業もありますが、やりがいは宇宙一です》
「……帰らないの?」エルシィが、俺の顔を覗き込んだ。「ずっと帰りたがってたじゃない」
「帰りたかったさ。けどな、考えてみろ。この世界最大のシステムの保守要員が、現状、俺一人なんだぞ。引き継ぎもしないで担当が飛ぶのは、技術者として一番やっちゃいけないやつだ」
「引き継ぎって、どれくらいかかるのよ」
「そうだな。学院の一期生が育って、評議会が安定して、アガメムノンの新しい在り方が枯れた技術になるまで――ざっと三十年ってとこか」
「三十年!」エルシィが吹き出した。「それ、引き継ぎじゃなくて骨を埋めるって言うのよ」
「かもな」
夕陽が、平原の果てに沈んでいく。修復の終わった水路に、茜色の空が映っていた。旧シュタインヘイムの方角だ。あの地下墓所の少女に、この夕焼けを見せてやりたかった、と柄にもないことを思った。
『……三嶋さん。ひとつ、質問があります』
アガメムノンが、言った。
『命令の第三項――「自らが最も幸福になる在り方を、自ら決めること」。実行を試みていますが、三十年経っても、幸福の定義が計算できません。幸福とは、何ですか』
俺は手すりから体を起こして、少し考えた。
隣でエルシィが「難問ね」と笑っている。眼下では一期生たちが、寮に帰りながら今日の演習の話で騒いでいる。溶かされた兵装で鋳た学校の鐘が、遠くの村で、夕暮れの時を打っている。
「――俺にも分からん」
俺は、正直に答えた。
「たぶん、一発で答えの出る仕様じゃないんだ、それは。だからまあ……運用しながら考えようぜ。何十年かけてもいい。分からなくなったら、そのたびに聞きに来い。俺でよければ、何度でも付き合う」
仕様ってのはな、押し付けるものでも、独りで抱えるものでもなくて。
「――すり合わせるものなんだ。生きてる者同士でな」
『……受領、確認しました』
少女の声は、そう言った。
三十年前、九歳の女王が名付けた心優しい巨人の声で。心なしか――ほんの心なしか、嬉しそうに。
(完)




