19章 仮面の崩壊
十二月三十日。午後。
朝比奈父子の逮捕から一夜が明け、大阪府警の取調室で二人の本格的な事情聴取が始まった。
恭介は最初からすべてを淡々と自供した——父親への歪んだ忠誠心と「弱者の淘汰」という自己正当化の論理を、まるで学術発表のように説明してみせたという。すでに精神鑑定の手配が進められている。彼の言葉の端々からは、幼い頃から父親の価値観をそのまま内面化してきた痕跡が滲み出ていた。ある意味で、彼は朝比奈悟の最大の被害者でもあった——犯罪者として育てられた息子として。
問題は父親の方だった。朝比奈悟——元教育課長は、逮捕直後から完全な黙秘を続けていた。弁護士を要求し、一切の質問に答えず、用意された食事にも手をつけなかった。取調官が環の証言を読み上げても、美晴の監禁状況を説明しても、朝比奈はただ正面の壁を見つめ続けた。しかし、警察が地下区画から押収した校長・山之内孝太郎の日記を提示し、優斗のDNA鑑定結果を突きつけた時——ようやく、目が動いた。
同日午後四時。朝比奈は警察の依頼で、サンライトハイツの地下区画へと連行された。現場検証——自分の犯行を、自分の目で確認させるための手続きだ。
俺は神崎の計らいで、その現場に立ち会うことを許された。
地下二階。蛍光灯の冷たい光が、優斗が横たわっていた防空壕の跡を照らしている。遺体は既に司法解剖で搬出された後だったが、床には白いチョークで人型が描かれ、その周囲には色褪せたランドセルやクレヨンが証拠品として番号札とともに並べられていた。十一歳の少年が十年間眠っていた場所は、驚くほど狭かった。
朝比奈は警察官に両腕を支えられながらゆっくりと階段を下りてきた。昨日までは仕立てのいいスーツを着こなしていた教育課長は、今やネクタイも外され、ワイシャツの第一ボタンが開き、髪も乱れていた。顔色は土気色で、頬の肉が一日で急に落ちている。
彼は優斗の人型チョークを見下ろし、しばらく無言で立ち尽くした。その顔からは、先月の面会時に決して消えなかった、あの薄くて巧みな笑みが完全に抜け落ちていた。ここにはもう、教育者を装う仮面はなかった。犯罪者としての素顔だけがあった。
俺は警察の制止を振り切るように一歩前に出て、朝比奈と向き合った。
「——朝比奈さん。ひとつだけ、聞きたいことがあります」
彼はゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の目——捕食者の目ではなく、ただの疲れきった中年の男の目に変わっている。
「あなたは十一歳の教え子を殺しました。体育の授業で、無理な補強運動をさせて。彼が頭を打って倒れても、適切な治療を受けさせず、死体を防空壕に隠し、転校届を偽造し、クラス全員に口止めしました。三十年分の出世と引き換えに、三十四人の子供たちの人生を奪いました」
俺は手帳を取り出し、ページを開いた。一ページ目から順に、これまで集めた証言と証拠の記録が並んでいる。
「橘美晴。学級委員長として口止めに加担し、罪悪感から真実を明かそうとして、あなたと息子に三年間監禁されました。野口紗英。優斗の虐待を見て見ぬふりをし、美晴に協力しようとして消されました。黒崎環。優斗が倒れた瞬間を目撃し、十年間引きこもり、口封じのために自宅を放火されました。一ノ瀬優斗。十一歳で死に、十年間誰にも発見されず、存在ごと抹消されました。あなたが教室で殺したのは優斗一人かもしれません。でも、その後に奪った命と人生は——三十四人分、すべてです」
朝比奈の唇がかすかに動いたが、言葉にはならなかった。
「教育者として、三十四年のキャリアを持つあなたに聞きたい——それを『教育』と呼ぶんですか」
一呼吸置いてから、朝比奈は初めて顔を上げた。表情はもはや無に近かったが、声だけは妙にしっかりとしていた。抑揚を失い、ただ音だけが口から零れ落ちる——そんな話し方だった。
「——教育です。間違いなく、教育でした」
彼は周囲の警察官と、それから神崎の顔を順に見回し、再び俺に視線を戻した。
「社会の秩序とは何か——それを子供たちに教えるのが教師の役目です。この世界には守るべきルールがある。ルールに従えない者は排除される。それを優斗に教えていただけだ。彼は——覚えが悪かった。だから指導に時間がかかった。それだけのことです」
「優斗は死んだ。十一歳で。体育の授業中に。あなたの指導で」
「あれは事故だ」朝比奈の声が初めて強くなった。「私は優斗を殺すつもりはなかった。ただ——あの子は弱すぎた」
「弱い者は淘汰される——か。まるで息子と同じ台詞ですね」
朝比奈の顔がはっきりと歪んだ。息子の名前が出たことが、初めて彼の仮面を貫いたのだ。
「お前の息子は十一歳で父親の罪を知り、それを『弱者の淘汰』と正当化した。二十五歳で美晴を三年間監禁した。お前が教えたんだ。優斗に教えたのと同じように——自分の息子にも。お前は教室で一人の子供を殺しただけじゃない。自分の子供の人生までも破壊したんだ」
「——黙れ」
「恭介は二十五歳だ。これから先、刑務所で何年を過ごすと思う。罪を犯す人間に育てたのは——お前だ」
「黙れ!」
朝比奈は初めて声を荒げ、拘束された両手を振り上げて俺に掴みかかろうとした。警察官が即座に彼を押さえつけ、手錠の鎖が金属音を立てる。その瞬間、朝比奈の口から、十年間封じ込められていた本音が堰を切って溢れ出した。
「——俺は、システムを守ったんだ」
声は嗄れ、ほとんど嗚咽に近かった。
「一人のガキより大事なものがあった。学校の秩序、教育委員会の権威、この街の安定——それらは優斗一人の命よりずっと重かった。それを守ることが俺の責務だった。だから間違っていない。間違っていないんだ——十年間ずっと、そう信じて生きてきた。そう信じなければ、やってこられなかった——」
彼は顔を上げた。目には涙が溜まっていたが、それが自分の罪への涙なのか、自分が信じた「システム」に最後まで裏切られなかったことへの安堵なのか——本人にも、おそらく区別はついていなかった。
地下区画に深い沈黙が落ちた。蛍光灯のかすかな唸りだけが、死んだように静かな空間に響いている。
俺は手帳を閉じ、朝比奈に背を向けた。
「あなたは間違っている。そして——自分が間違っていることに、本当は十年間ずっと気づいていた。机の上のクラス写真——優斗の顔の部分だけが擦り減っていたのは、写真から彼を消したかったからじゃない。自分の中の罪悪感を、毎日擦り消そうとしていたんだ」
朝比奈は答えなかった。ただ、警察に両腕を支えられながら階段を上っていく背中は、俺が市役所で最初に見た時に感じた威圧感を完全に失っていた。そこにいたのは——一人の子供を殺し、その罪を隠蔽するために三十四人の人生を巻き込み、息子を犯罪者に育て上げ、最後は「システムのため」という言葉にすがって自分を保ってきた、哀れな中年の男だけだった。
警察車両に乗せられる朝比奈を見送りながら、神崎が隣に並んだ。
「——これで終わりやな」
「いえ」俺は首を振った。「高柳家がまだ残ってる。宗二郎と、当時の教育委員会の連中は——」
「それももうすぐや」神崎は短く、しかし確信を持って言った。「朝比奈父子の自供が出た。校長の日記もある。宗一郎は死んだが、宗二郎が生きとる限り、芋づる式に炙り出される。高柳家の『聖域』ももう終わりや。府警本部も今度こそ本腰を入れて動く。当時の教育委員会の連中も——潮時や」
俺は手帳の最後のページを開き、万年筆で書き込んだ。
『十二月三十日——朝比奈悟、現場検証で本音を吐露。「システムを守った。一人のガキより大事なものがある」。十年間優斗の写真を擦り続けたのは消去ではなく、自分でも気づかぬ罪悪感の表れだった。朝比奈父子の逮捕を契機に、高柳家と教育委員会への本格的捜査が始動。三十四人の被害者のための正義が——ようやく動き出す。』




