098 ありがとう
時計が午後五時を示す頃。
全ての後片付けが終わった悠香たち五人は、疲れたー、なんて叫びながら机や椅子に腰掛けていた。
あんなに人の押し掛けていたこの教室も、現状復帰をクラスメートたちが手伝ってくれたお陰で綺麗に元通りだ。もっとも、
「【ドリームリフター】の荷台に乗っかってみたい人、この指とーまれっ!」
などと、悠香が調子に乗って滅茶苦茶な勧誘をして集めた人員だった。無論、実行に移した。引っくり返らぬように悠香に反対側から【ドリームリフター】を押さえさせて。
「もう疲れたもん。ここから動かないもん」
ごろんと床に寝そべって悠香はそう宣言した。腕がびりびりと痺れている。明日は間違いなく筋肉痛だろう。萎える。
アザラシみたいに寝転ぶ悠香を白い目で見ながら、リモコンを持った陽子が前に立った。「ハルカ、邪魔」
「えー、退きたくない」
「踏むよ?」
陽子が本当に足を振り上げたので、悠香は慌てて飛び退いた。その拍子に勢いがつき、
「うわわわわっ……」
窓の近くまで転がって行った。
燦々と降り注ぐ日射に照らされて、床板が眩しく光っている。
「……あ、ここ、あったかい」
結果、ますます堕落人間のようになってしまった。
脅して起こそうとした陽子も、さすがにこの根性には言葉が出ない。別にいいじゃん、と亜衣が笑う。
「私たちだって疲れてるもん。下校時間ぎりぎりまでここでまったりしていこうよ」
「で、でも」
「てか眠いよ……。私も隣に行こうー……」
「……私も行きたい」
そうこうしている間に、悠香の横に菜摘が寝転び、さらに麗までもが寝転んでしまった。おいでおいで、と悠香が手招きしている。
──ま、いいか。
意地張っているように思えたら、何だか馬鹿らしくなってきた。陽子は細めた目を配せ、亜衣と一緒に横になる。結局、五人は仲好く並んで埃っぽい床に寝る事になったのだった。
錆びた油のような懐かしい香りが、ふわりふわりと漂っている。
遥か空の高みを、飛行機が白い線を引きながら飛んで行くのが見える。
眠気漂う空気を破り、口を開いたのは悠香だった。
「……私たちさ」
「うん?」
「優勝したんだね」
「うん。優勝した」
向こうの方から亜衣の返事だけが返ってきている。「信じられないよね」
「夢だったらつまんないなぁ」
「あれ、誰かトロフィー持ってなかったっけ」
あいよ、と陽子が光る何かを投げて寄越してきた。上手いことキャッチした悠香は、それを目の前に掲げてみる。
「さっき、説明しながら見せてたんだ」
陽子の声が後からついてきた。
それは、優勝チームに贈呈される小型のトロフィーだ。
まるで天高く積みあがった『積み木』のように、不安定ながらも威風堂々と屹立する塔を模したデザイン。それはまるで、このチームが発足以来辿ってきた、決して平坦ではなかった道のりを示しているみたいでもあった。
──夢じゃなく、優勝したんだ。
急にまた嬉しくなって、悠香はぎゅっとそれを抱き締めた。
「……そう言えば」
「?」
トロフィーを置き、悠香は身体を少し起こす。トロフィーを見ていて思い出したのだ。
「閏井の人たちは、楽しんでるかなぁ」
ああ、と四通りの反応が返ってきた。
優勝チームに与えられる【HeadWeigh】計画への参加権を素直に使っていれば、今日の挑戦者限定内覧会後の時間が初回だったはずなのである。閏井のメンバーは今頃、つくば市の研究センターで嬉しい悲鳴でも上げている頃合いに違いない。
「探査ロボットかぁ、憧れないでもないよな……」
陽子が思わずぼやいた途端、麗の顔付きが変わった。陽子の方を向き、心底すまなさそうな目で横顔を見つめる。
「いいよいいよ、そんな目で見ないで」
陽子は笑って言った。「いちいちそんな反応しなくていいんだからさ。ね、ハルカ」
「そうそう」
上の空かは分からないが悠香がそう答え、麗は渋々また頭上を見上げたのだった。歪んだ窓ガラスで屈折した光が、天井に不可思議な紋様を作っている。
『父親のチカラで優勝したと思われたくない』。
──それが、五人が計画参加を辞退した理由だった。
最初に不安を訴えたのは麗だった。麗の父ハドソンが向こうにおり、その父親によって推進されている事業にこのタイミングで参加するというのは、色々な意味で誤解を受ける可能性が高い。それでは他の四人に迷惑がかかるかもしれない。全てが終わり、控室で興奮冷めやらぬ様子で盛り上がっていた悠香たちに、麗は泣き出しそうな表情でそう告げたのだ。
『私が行かなければいい。みんなは楽しんできて』
そう何度も言ったのだが、四人は私たちもと言って聞かなかった。翌日に悠香が電話口で事情を説明し、参加権の放棄を宣言。吉野は驚き、戸惑い、勿体ないと繰り返し説明してくれたが、悠香たちの気持ちに今さら変化など生じなかった。
無論、さすがに内覧会までも棒に振る必要はなかろう。明日開かれる第二回に参加しようと悠香が言い、既に全員が予定を空けてある。
「……本当に、よかったの?」
再び訪れかけた沈黙の中へ、麗は何度目かも分からぬ疑問を投じた。
だからー、と隣にまた寝転がった悠香が笑って答える。「いいの! だって私たち、ロボコンがやりたくて参加したんだから」
「どうせ向こうの人の決めたプランの枠組みの中でしか活動できないんでしょ? 何もかも自由に勝手にやっていいっていうなら別だけど、そうじゃないならそこまで魅力を感じないなー」
立て続けに菜摘がそう言い、陽子も亜衣もうんうんと頷いた。麗は納得したように瞳を閉じたが、やっぱりやや哀しそうな表情であるのに変わりはない。自分のせいで参加できなくなったと、麗は未だに負い目を感じ続けているのだろう。
──そんなに気に病まないでほしいんだけどなぁ。
悠香は笑顔の裏で、淋しくそう呟いた。悠香にも近頃はだんだん、他の四人の考えや思いが読めるようになってきた気がする。経験則と言われてしまえば終わりだが……いや、全ては経験則なのかもしれないが。
分かっているからこそ、聞くべき事がある。
「ねえ、みんな」
今度は、悠香が問い掛けた。
「あのロボコン、楽しかった?」
唐突だな、と陽子が向こうで目を丸くする。「どうしてそんな事を聞くの?」
「んー、何となく」
いかにも悠香らしい返答であっただろう。少し言葉を探している様子の陽子の隣で、まず始めに亜衣が答えてくれた。
「私は楽しかったよ。足首の怪我も治りが早いみたいだし、文句の付け所が分からないなぁ」
「ゼロに近い差であっても、閏井チームに勝てたのは嬉しい!」と、菜摘。
「あたしの場合は、何だかすっきりしたなぁ。大変なロボット操縦から解放されたのもあるけど、もっと何か大きな大きな枷からも、解放されたような気がするんだ」
とは、陽子の言葉であった。
隣の亜衣が腰を浮かせた。「ちょっと何さ、カッコつけたみたいな言葉使って―! 素直に楽しかったって言いなよ!」
「ちょ、やめろくすぐったいってば!」
「あー、私も参加しようっと」
「わひゃ⁉ そのネコジャラシどこから持ってきた⁉」
「パソコンクリーナーはこうやって使うものなんだよ!」
「あたしは画面か──っ!」
三人は夢中になっているようである。まだ何も言えないでいた麗に、悠香はただ一言、簡潔に尋ねた。
「ねっ?」
文字にして一つの平仮名にしかならないその言葉に、どんな意味が詰まっているのか分からない者はいないだろう。
麗はごろん、と寝返りを打った。その浮かなかった顔を、西日が力強く照らし出した。
「────うん」
こぼすようにそう言った麗の表情は、さっきよりもずっと穏やかになっていた。
思い思いの姿勢で、五人はまたしばらくそこに寝転がっていた。
流れゆく時間、流れゆく雲。平和な世界が限りなく広がる、窓の外。あの場所とこの教室は、繋がっているようにさえ感じた。
──もうこのまま、動きたくないな……。
西陽に手を伸ばし、悠香が割と本気でそう思った時だった。麗がまた突然、がばっと身を起こした。そのスカートのポケット辺りから、バイブレーダ音がしている。
「はい、私です。……ああ。…………えっ? ……ええっ? ちょっと、友達に聞いてみる」
時間にして二十秒の通話の後、麗はもうすっかり立ち上がっていた。その顔は特にさっきから変わってはいないみたいだが、今回は頬にやや赤みが差している。
「どうかしたの?」
陽子が尋ねると、麗は建て付けの悪いドアのように、がくんと頷いた。
「今、私のお母さんから電話があって。お父さんがプチホームパーティーをやろうって言い出したんだけど、折角だから友達も誘ったらどう、って……」
「レイん家に行けるの⁉」
途端、興奮気味に菜摘が文字通り飛び付いた。その後に亜衣が続く。「行きたい行きたい! 実は私もだいぶ気になってたんだ!」
麗はすがるような目つきで悠香を見たが、悠香も悠香で早くも妄想に浸っている。
──この五人で晩ご飯なんて初めてだし、ロボコンの打ち上げだってやってなかったし、渡りに船ってこの事だよねぇ……。
頷かない理由がない、動きたくないなんて前言は撤回だ。縦に揺れる視界の先で、陽子も嬉しそうに首肯している。
「ホームパーティーなんて行くの初めてだよー。なんか、わくわくしてきた!」
「せ、狭いよ……?」
「ああ、そう言えばレイの家、庭が三エーカーとかあるんだっけ」
「それそれ! 私ちょっと調べたんだけどさ、それって一ヘクタール以上もあるって事だよね?」
「何それ半端ねぇ……!」
「私、遅くなるって親に連絡しとこうっと!」
「私は連絡しないー。言うて連絡サボっても、一回きりなら怒られないっしょ!」
パーティーと聞くだけではしゃいでしまうのも、このくらいの年頃の特権である。
そうと決まれば早くしなければ。喋りながらも五人は起き上がり、ロボットたちを元のように解体してロッカーに収納し、急いで鞄を持って廊下に出た。ここからつくば市まで、関東最速の通勤電車つくばエクスプレスに乗り続けても一時間半はかかる。こんなテンションのままでは、そんな時間は待ちきれない。
「忘れ物、してないよね」
「大丈夫じゃない?」
安易な菜摘の受け答えを聞きながら目視で教室を点検すると、悠香が最後に教室のドアを閉めた。
「うん。大丈夫そ────」
……否。
閉めかけて、また開いた。
「忘れてた」
がらっと広がった空間に足を踏み込んだ悠香は、そのまままっすぐにロッカーへ向かった。
「?」
また忘れ物だろうか。残りの四人が首をかしげる前で、悠香はロッカーを開き、そこにコンパクトに仕舞い込まれた【ドリームリフター】を少しだけ引き出した。
そして、その機体にそっと触れた。
「お礼、言ってなかったなぁって思ってね」
悠香の声は、言葉は、優しかった。
「お疲れさま。頑張ってくれて、ありがとうね。【ドリームリフター】も【エイム】も、【ドレーク】も。私たち、勝てたんだよ」
後ろの四人は返事をしない。唇を開いて閉じるたび、冷えた感覚が掌の神経を伝わって、頭の中でじんわりと静かに広がっていく。
「ありがとう」
もう一度、悠香はそう繰り返した。
いくら五人が変わったところで、この三台がいなければロボコンには出られなかった。ましてや、勝てもしなかった。
──最後のお披露目ももう終わったんだから、もうそろそろ言ってあげなきゃ。
悠香はそう考えていたのである。話し合いの結果、このロボットたちは来週の月曜日に物理部に引き取ってもらう事になった。こうしてじっくり対面できるのも、今日が最後だったから。
危ない、忘れるところだった。ほっとした。
隣に、四人がやって来た。
「ハルカらしいね」
振り向いた悠香に、麗が微笑んだ。「私も、入れてほしいな」
「うん」
悠香も照れ笑いすると、一歩脇に退く。麗は悠香を真似てしゃがみ、DLに手を伸ばした。後ろに立ったまま、陽子たちも手を差し伸べていた。
太さも長さも器用さも、何もかもが別々の手が五本、DLの肌を直に感じている。
あったかい、と菜摘が呟いた。
「なんでだろ。熱くはないけど、あたたかさを感じる……」
そのまま、何分が過ぎただろう。
さっきより長い尾を引くようになった影法師が、時間の経過を教えてくれている。
悠香はゆっくりと立ち上がって、四人を見回した。
「……行こっか」
ちょうど目に留まった亜衣が、はっきりと頷いた。大して時間がかからないとは言え、日が落ちてから着くというのでは先方も心配するに違いない。
五人は【ドリームリフター】から手を離し、今度こそ本当に教室の外へと踏み出した。そしてさっきと同じように、悠香がまたそのドアを閉め直したのだった。
意図的に開け放たれたロッカーの口から、刻々と沈みゆく遥か西の陽が、【ドリームリフター】の身体を撫でるように暖め続けていた。
車体の傷で光が乱反射して、きらきらと輝いていた。