097 先輩の遺したもの
そんな教室の様子がよく見える、すぐ近くの場所。
理科棟四階の物理部室では、これまた一大イベントが行われようとしていた。
山手女子の理科系部活動の中でも、多方面に手を伸ばすここ物理部は最大クラスの勢力だ。その大組織の代替わりが今日、行われようとしている。物理部の幹部は代々ロボット班から輩出される事が多く、こうしてロボコンの直後に代替わりを予定する事が習わしになっている。
狭い部室に所狭しと並んだ、総勢三十人の部員と二人の顧問教師。うち一人は、高梁だ。全員揃ったな、と北上は目視確認を取った。
「じゃあ早速、新年度の幹部の人たちを発表するわね」
部員たちの目が少し、険しくなる。気にせず北上はさっさと結論を口にした。「面倒だから部長から発表しちゃおう。長良さん、あなたにお願いするよ」
長良が顔を上げ、北上を見た。北上はちょっと首を傾げて、あなただよと無言で繰り返してみる。
途端、長良は泡でも食ったように慌て出した。
「そ、そんな私、ロボコンも成功させられなかったのに……。それに、自信が……」
「次は副部長ねー。リニアモーター班の九頭竜さん、お願いするね?」
「私はスルーですか⁉」
「次に会計なんだけど、これは建設技術研究班の那賀さんにお願いしたいんだ」
「ちょっと、聞いてくださいよっ!」
長良の涙ながらの訴えに、部員たちが静かに笑い出した。その中には、笑いすぎてひいひい言いながら腹を抑えている渚もいれば、長良の顔色を窺いながら背中を撫でている聖名子もいる。相変わらず渚のツボは皆目不明である。
長良が顔を真っ赤にして俯いている間に、北上はあっさり全員分の役職を言い終えてしまった。最後に北上は、奥で控えている顧問二人に尋ねる。
「先生方、ご意見など仰有っていただけると助かります。こいつはこの役職に就けたくない! といったご意見は、今のうちに承っておかないと……」
「あると本気で思っているのか、君は」
高梁が真顔で答え、またクスクス笑いが部室に充満した。何が可笑しいのか分からない、といった顔で高梁はそんな部員たちをまじまじと見ている。
──本当、最後まで高梁さんらしい振る舞いね。
北上も顔には出さずに笑っていた。
幹部に新メンバーを迎え、新たな空気を吹き込まれた物理部の面々は、北上の立ち位置からでは羨ましくなるくらい輝いている。
いいなぁ、と北上は思った。
この時、たった一人だけ心持ちを新たにできていない下級生がいた事を、北上は完全に失念していた。
「じゃあ、ここから先は新部長にお願いしようかな」
そう言った時だった。
「……どいて!」
鋭い声が空気を裂いた。それまで北上を睨むように見上げていた長良が、急に部員たちを押し退けて部室を飛び出して行ってしまったのだ!
「あ、ちょっと⁉」
隣にいた芦田が呼び止めたが、長良はとうに出ていった後だった。あちゃあ、と北上は額に手を当てる。自分としたことが、しくじった……。
「……ごめん、ここから先の議事進行、頼める?」
「あ、はい」
新副部長の九頭竜にそうお願いすると、北上も部員たちの間を通って部室を出たのだった。長良を引き留め、あの部室に戻せるのは自分しかいない。確信が胸を過った。
長良は、部室の隣の物理実験室の隅に、独り佇んでいた。
ふう。塊にした空気を吐き出すと、北上はゆっくり近づく。
「あんな急に飛び出したら、危ないよ?」
そう言って笑うと、長良は北上を振り返ってきた。自信なさげに半分閉じられたその瞳には、天井の蛍光灯の光だけが反射している。
「部室に戻りたくない?」
「……すみません」
「大丈夫。みんな待ってるよ」
「でも、部長なんて、無理です」
長良は目を潤ませながら、改めて訴えた。「確かに地震は天災かもしれないですけど、それでも私がロボコン参加すら成功させられなかった事実は揺るがないんですよ? こんな私が部長をやって、下につく部員たちはどう思うか……」
「そんなに不安なの?」
「不安です……。ダメな部長って思われたら、おしまいじゃないですか。そしたら私、もう本当に部長職なんて続けていられなくなる……」
「……そう」
独り言のように答えると、北上は長良の隣に座った。換気のために開いた窓から、初夏の匂いのする涼風が吹き込んできた。
長良も、風に負けないくらい長く強く、息を吐き出した。
こうなる事も、北上には事前に予測できたはずだった。
長良は「不安」と言ったが、その内実は恐らく「怖い」のだ。真面目で北上を慕っていた長良には、部長は後輩に慕われるもの、という観念が出来ているのだろう。
いや、それは間違いなく正しい。フィジックスがリタイアを決めたあの日、長良は泣きついてきた。『後輩たちや仲間に申し訳ない、もう終わりだ』……何度も繰り返し、そう言っていた。
長良の考え方に北上は必ずしも賛同しないが、それを語ったところで何がどうなる訳でもあるまい。
──さて、どうするかな……。
北上は思案する。こういうのは北上の得意分野だ。
少し、時間が経った。
寄りかかったその位置からは、物理部室と同じように、中学三年α組の教室が見える。ロボットらしき影が動き回り、悠香が歩く姿も確認できた。
その悠香を見ながら、長良は静かにこぼした。
「……私、あの子が少し、羨ましいです」
北上も同じ方向を見ていた。「玉川さん?」
「あんなに仲の良くて強いチームを作れたのだから、よほど人望のあるリーダーなんでしょうね。私の束ねるべき部員とは数が違うのは分かってます。でも、あのチームには、あらゆる点で嫉妬しそうになります」
「…………」
北上はすぐには答えなかった。あの悠香が大変な苦労の末にチームを維持できたのだと、この後輩に伝えるのが適切なのかどうか、まだ分からなかったからだ。
ただ、これだけは言えると思った。
「長良さんが知っているかは分からないけど。あれであの子、けっこう情けない所もあるみたいだよ」
「……そうなんですか?」
「顔を見れば分かるものよ」
「私には分からないです……」
「大丈夫よ。分からない人の方が多いんだから」
北上の言葉に、はぁ、と長良は首を傾げる。何が言いたいのか、分からないのだろう。
「これはあくまで、私の持論なんだけどね」
そう断った北上は、長良を真似て立ち上がり、窓枠に手をついた。
「玉川さんを見ていて、色々と学ばせてもらった。リーダーって必ずしも、最初から英雄である必要はないと思うんだ。最初のうちは多少ボケてたりミスがあったっていい。その代わり、きちんと正しい姿勢で周囲に頼るの。そうすれば周りは助けてあげようって感じるし、リーダーは次こそ頑張ろうって思える。その気持ちがチームを纏める絆になる事も、あるかもしれないじゃない」
「…………?」
「だから、固く考える必要はないんだと思う」
自分の事を言われていると気付いてたらしい。長良はやや項垂れ気味になるが、北上はそこで少し言い方を変えた。
「でも、人としての根本がしっかりしている事に越した事はないよ。それと、分析力。人をよく見て、どんな気持ちでいるのかをちゃんと考えられる力。そういうのは大切だと思う。私はそこの進化を見込んで、長良さんに部長を任せようと決めたの。間違っても、慣習に則って決めた訳じゃなしに、ね」
「私である理由が、あるんですか?」
「あなたはすごく真面目な子だと思う。つまり、信頼に値するっていうこと。そこができてないリーダーは話にならないからね」
訝しげな目つきで、長良は自分の身体を見た。
「ただ、長良さんの場合はもっと肩の力を抜いてもいいはずだよ。というか、抜いてほしい。そうすれば人を観察する余裕もできて、メンバーのことが少しずつ分かってくるようになるから」
「で、でも、そんなに上手くいく訳が」
「真面目で頑張り屋さんの長良さんになら、それを期待できるって事よ!」
遂に業を煮やした北上は、どん、と背中を叩いた。まるでいつかの悠香のようではないか。長良が痛そうな顔をする。
「部長になった時の私なんて、今の長良さんよりずっとずっと陰湿な雰囲気の人間だったのよ? それは長良さんも知ってるでしょ?」
自虐ネタも混ぜて問いかけると、長良は曖昧ながらも頷いた。だからこそよ、と北上は続ける。「長良さんは独りじゃない。私だって独りじゃなかった。自分を支えるんだって強い気持ちが周りと自分にありさえすれば、リーダーはリーダーで有り続けられるわ。大丈夫、絶対に大丈夫」
今日のこの時間だけで、何度『大丈夫』という言葉を使っただろうと思った。記憶が正しければ、四回だ。悠香の時の方が多かっただろうか。
──苦労させてくれたわね、あの子も。
苦笑する。少し、切ない気分になる。
まだ少しの間、長良はそこで下を向いて突っ立っていた。
仮面のようなその表情の下で、どんな葛藤が繰り広げられていたのか、北上に知る術はない。
しかし、一分も経った頃だろうか。長良はすっと面を上げた。そして、言ったのだ。
「北上さんがそこまで言うのなら、やってみます」
「任命責任は私が負ってるよ」
笑って見せると、長良もそこで初めてちょっと笑った。
「きちんと過去と向き合えば、きっと克服できますよね。私、頑張ってみようと思います」
今度は返事を寄越さず、北上はただこくんと首を垂れた。もう大丈夫だ、と確信した。長良が静かに窓際を離れ、物理実験室のドアを開いたのが見えた。
「北上さん。部長、お疲れ様でした」
その一言を残し、長良の姿は閉じるドアの向こうに消えたのだった。
北上は、ちらりと窓の外に目をやった。
悠香の姿はまだ見えている。日光の向きを考えれば、こちらの姿をあちらの方から気付くことは極めて難しいだろう。
あそこでも、ここでも。
北上の目を通して育てられた新世代のリーダーが、次々に手を離れていくような気がした。
目に入る西空の光は、物悲しくなるほどに鮮やかな橙色であった。
「……そうだよ。過去を、克服するの」
分かっているじゃない、二人とも。私はあんなに長いこと、克服できないでいるのに。
そう呟いた北上の瞳の輝きの正体を知る者は、誰一人としていない。北上はすぐに、それを拭い払ってしまったからだ。
うーんと伸びをした北上は、輝く陽光を見つめながら最後に一言、残したのだった。
「よっし、私も受験勉強、頑張りますか──っ!」