何かの気配
放課後。
部活動に所属していない僕は、どこも寄り道することなく、まっすぐ帰路についた。
ベージュ塗装の五階建てマンション、その二階中部屋に僕ら宗田家は住んでいる。
自宅の扉を開け放った僕は「ただいまぁ」と間の抜けた声を上げながら、玄関に入った。
と、これまた僕以上に間延びした「おかえりぃ」という母の声が返ってきた。
廊下を抜け、リビングに入る僕。
そこにはダイニングテーブルで読書をする、ノースリーブにジーンズという格好をした母――宗田胡桃の姿があった。
僕は目を丸くした。
「へえ、読書なんて珍しいね」
細身で丸眼鏡をかけたミディアムヘアの母は、四十歳を過ぎたあたりから老眼が進んでいた。
それまでは読書をしていたものの、四十五歳の今では読書をまったくしなくなったそうで。
母は文庫本を閉じ、クッと伸びをした。
「んっ、ちょっと、ね。本棚を整理していたら、懐かしい一冊があったから、それでつい読み返していたの。
――ほら、あんたも知ってるでしょ、この本」
そう母から差し出された文庫本を受け取り、表紙をまじまじと見つめること、数十秒。
「あっ……これ、錫婚式のとき、父さんが母さんにプレゼントした一冊だ」
「そそっ。最後はハッピーエンドで終わる家族小説」
「確かに懐かしいね。何年前だろう、えーっと……」
「六年前」
「……ですね。失礼しました、出直してきます」
「あはっ、大丈夫大丈夫。謝らなくていいってば」
僕と母は互いにカラカラと笑い合った。
再び母が文庫本を手にするのを見てから、僕はリビングからそっと離れた。
洗面所に足を踏み入れた瞬間――僕は何かの気配を感じ、反射的に後ろを振り返る。
……誰もいない。
でも、確かに何かの気配を感じたのだ。
この洗面所に……何かがいる。
「……ふう」
僕はため息をついてから、まぶたをゆっくりと閉じる。
深呼吸、深呼吸、さらに深呼吸……。
身体がリラックスした頃合いを見計らい、僕はまぶたをゆっくりと開けていく。
洗面台の鏡に目を向けた瞬間――驚きのあまり、僕は目を見開いたまま、硬直。
目の前の“鏡だけに映る中学生くらいの姫カット少女”も、僕と同じような反応をしていた。
今一度、鏡そのものに映る世界と自分の目で見て捉えた現実世界とを比較。
一方は白のワンピースを着た少女がいて、もう一方にはそもそも誰もいない。
一人多い鏡の世界、一人少ない現実世界……。
ゾワッと背筋が粟立つ。
「ひょっとして……幽霊、さん?」
口を衝いて出たのは、そんな言葉だった。
鏡の少女は目を泳がせると、やがてポツリと言葉を漏らした。
「たぶん、そう」
感動のためか、恐れのためか、僕は息を呑んだ。
そのあと、僕らは無言になり、居心地の悪い沈黙が流れる。
実際に幽霊とご対面したらしたで、上手く言葉が出てこないのはなぜだ、と僕は焦りを覚えた。
冷や汗が首筋を伝う。
けれど、こうしていつまでも黙りこんでいるわけにもいかないのも、また事実。
事態が進展しなければ、解ける謎も解けないまま。
僕は意を決し、さらに踏み込んだことを鏡の少女に訊いてみた。
「きみは一体、どうしてここにいるの」
しかし、
「分から、ない」
そう鏡の少女は首をフルフルと横に振ってみせた。
迷宮入りか、と僕が落胆したとき――彼女は「あのね」と言葉を付け足し、恐る恐る話し出した。
「死んじゃったこと、それはなんとなく分かるんだけど、でもわたし、ほとんど記憶がなくて、色々と分からないの。
どうして死んじゃったかも、自分が誰なのかも、それにそう……どうして“鏡に囚われている”のかも分からなくって、とにかく怖いんだ、お兄ちゃん」
これが鏡に囚われた少女との出会いだった。




