第24話 あとは当日を待つだけ
三日後。
私は市場に面した建物の二階から、通りを見下ろしていた。
隣にはアシュレイ様。
少し離れたところに、ノワールがいる。
「……本当に来るでしょうか」
ノワールが落ち着かない様子で窓の外を見る。
「約束していたのでしょう?」
「はい。でも、僕が誰かに話したって気づかれていたら……」
「そのときは来ないだけですわ」
私はそう答えた。
「どちらにしても、あなたが一人で会う必要はありません」
ノワールは少しだけ黙ってから、頷いた。
「……はい」
男との約束は昼過ぎ。
場所は、市場の裏手にある細い路地だった。
私たちは、そこを見渡せる部屋を公爵家で借りている。
窓の下では、いつも通り市場を行き交う人々の姿があった。
その中に、ノワールの言っていた男が現れるのを待つ。
しばらく待ったが、それらしい姿は見えない。
「あっ」
その時、ノワールの身体が固くなった。
「どなた?」
「あの人です」
視線の先を見る。
灰色の外套を着た男が、路地の入口に立っていた。
四十前後だろうか。
周囲を見回しながら、何度も懐中時計を確認している。
「間違いありません?」
「はい」
ノワールの声が小さくなる。
「あの人です」
アシュレイ様が、後ろに控えていた男へ目を向けた。
「頼む」
「はっ」
公爵家の者が部屋を出ていく。
「捕まえるのですか?」
「まだだ」
「では?」
「泳がせる。後ろに誰がいるか見たい」
ノワールが口を閉じた。
「大丈夫ですわ」
私は言った。
「あなたがすることは、もう終わっています」
「でも……」
「顔を確認してくださった。それで十分です」
窓の下では、男がしばらく待っていた。
やがてノワールが来ないと分かったのか、苛立ったように路地を離れていく。
その後ろを、公爵家の者が距離を空けて追っていった。
***
報告が戻ってきたのは、その日の夕方だった。
「ヴァイス商会?」
アシュレイ様の執務室で、私は聞き返した。
「ああ」
机の上には、一枚の紙が置かれている。
市場に現れた男はヴァイス商会に出入りしている人間だった。
正式な商会員ではない。
調べさせたところ、依頼を受けて、他の商会の動きを探るような仕事をしているらしい。
「グラウス商会とは?」
「競合だ。特に北方から入る品を巡って、何度かぶつかっている」
アシュレイ様が報告書を指で叩く。
「荷の入る日も、取引先も、競合には金になる情報だ」
「だから、ノワールさんに」
「おそらくな」
取引先。
荷の入る日。
できれば帳簿に近い仕事。
頼まれていたことが、ようやく一本につながった。
「……やはり、大したことではありませんでした、では済みませんわね」
「ああ」
アシュレイ様の声が低くなる。
「ノワールが途中で怖くなって逃げれば、何をされていたかも分からない」
その言葉に、胸の奥が冷えた。
──ノワール本人は、きっと、そこまで考えていなかった。
正式に雇ってもらえる。
孤児院を出たあとも働ける。
そのために、少しくらいなら。
ただ、それだけだったのだ。
それでも、その弱みに付け込んだ人間がいる。
「男は?」
「こちらで監視している。ノワールへ近づかせることはない」
「では、まだ?」
「ああ。ヴァイス商会との繋がりをもう少し洗わせる」
それなら、ノワールが再び危険に晒されることはない。
「ノワールさんには?」
「しばらく公爵家から人をつける。慈善会が終わるまでは、一人で外へ出さない方がいいだろう」
「お願いします」
これで、ひとまず危険はなくなった。
けれど、問題がすべて終わったわけではない。
「グラウス商会へも、お話ししなければなりませんわね」
「ああ」
***
翌日、グラウス商会の支配人が公爵家を訪れた。
事情を最後まで聞き終えると、その顔はひどく険しくなっていた。
「つまり、我々の内部へ見習いを入れ、取引先や荷の動きを探らせようとしていたと」
「そのようです」
「ノワールという少年は?」
「本人も、頼まれた内容がまともではないとは分かっていたようですわ」
そこは誤魔化しても仕方ない。
「ですが、まだ何かを盗んだわけでも、情報を渡したわけでもありません。こちらで止めています」
「……なるほど」
グラウス商会の支配人が腕を組む。
「公爵夫人は、その少年をどうなさるおつもりで?」
「働き口は探します」
即答した。
「グラウス商会へ紹介してください、と申し上げるつもりはございませんわ」
「……」
「ですが、今回のことで、残る四人の支援そのものをなかったことにもいたしません」
支配人はしばらく黙っていた。
「慈善会には、その少年も?」
「ええ。十二人のうちの一人ですもの」
受け入れ先が決まっていない四人も、今年は支援を受けられると約束された子どもたちだ。
「でしたら、そのときに本人とも話をさせていただけますか」
「もちろんですわ」
「ただし」
支配人の声が少し厳しくなる。
「雇うとお約束はできません」
「それで結構です」
むしろ当然だろう。
自分たちの内情を探ろうとしていた少年なのだから、印象が悪いのは当たり前だ。
それでも、話す機会は設ける──大商会の判断としては、十分すぎるほど譲歩してくれている。
ここから先は、ノワール自身がどう見てもらうかだ。
***
それからの二日間は、ほとんど外へ出ていた。
衣料を扱う商会をいくつも回り、慈善会までに用意できる数を確認していく。
今すぐ出せるところ。
数日あれば追加できるところ。
急ぎでも対応できるところ。
条件はそれぞれ違ったけれど、回っていくうちに必要な数は少しずつ埋まっていった。
もちろん、急ぎでお願いする分には相応の代金を払う。
エヴァンズ家が不足分を用意できたとしても、約束した衣料はすべて公爵家で買い取ることにした。
なぜエヴァンズ家の慈善会にグレンフォード公爵家が動くのかと、不思議そうな顔はされた。
けれど条件を伝えれば、どの商会も表情を明るくして、快く引き受けてくれた。
グレンフォード公爵家との繋がりを作って損はない、そんな打算もあるのだろう。
それで構わない。こちらも、これから誠実に付き合っていけばいいだけだ。
──そうしていくつかの商会を回った結果、どうにか不足している百着分を確保することができた。
「随分と回ったな。無理はしていないか?」
「しておりませんわ。条件を出したら、皆さま思った以上に乗り気でしたもの」
「……ならいい」
見習いの三人についても同じだった。
事務仕事を任せられそうな少女には商会を一つ。
体力に自信がある少年には、倉庫の人手を探している店を。
針仕事が得意な少女には仕立屋を。
どこも、本人と会ってからなら考えると答えてくれた。
もともと慈善会に関わっている商会だったこともあり、事情を話すとすぐに時間を作ってくれた。
翌日までに三人それぞれと顔を合わせてもらい、いずれも受け入れる方向で話を進めてもらえることになった。
「これで三人ですわね」
屋敷へ戻り、名前に印をつける。
「ノワールの働き口は厳しいか」
「ええ。ここから先は、彼自身に頑張ってもらいませんと」
話す機会までは残した。
そこから信頼を取り戻せるかは、ノワール次第だ。
アシュレイ様が、私の横から紙を見る。
「衣料も百着、保存食も三百人分。……保存食?」
「ええ。あれこれ確認しているうちに、保存食も足りていないと分かりまして」
アシュレイ様が、何とも言えない顔でこちらを見る。
「……本当に、見つけたものを全部拾ってくるな」
「困ると分かっていて、放っておけませんもの」
ともあれ必要なものは、どうにか用意できた。
これで当日になってエヴァンズ家が何も用意できていなくても、困る人を出さずに済む。
「なら、こちらも無駄にはならなかったな」
「こちら?」
アシュレイ様が、別の書類を一枚差し出した。
「孤児院と、慈善会に関わっている商会へ話を通しておいた」
「何のお話を?」
「もしエヴァンズ家が今後の支援を続けられなくなった場合、グレンフォード家で引き受けることになっても問題はないか、と」
思わずアシュレイ様を見る。
「いつの間に……」
「君が役目ごと奪うと言ったからな」
あまりにも当然のように返された。
「孤児院は?」
「引き受けてもらえるならありがたい、と。商会も反対はない。むしろ歓迎するところの方が多かった」
「まあ……」
私が商会を回っている間に、アシュレイ様はその先まで済ませていたらしい。
「なんなら、もう動けるが?」
「いいえ。まだ待っておきましょう」
まだ、慈善会までは時間がある。
エヴァンズ家にも、自分たちで整える時間は残っているはずだ。
「エヴァンズ家がやり切れるなら、それが一番いいですから」
とはいえ孤児院には、あれからもエヴァンズ家から何の連絡もないという。
正直なところ、期待は薄そうだった。
「できないのなら?」
「もちろん」
私は今年の慈善会の資料を閉じた。
「──グレンフォード家がすべていただきますわ」
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