【番外編】キースの初恋
キース視点で、二人が最初に出会った時の物語です。
「ただいま――」
木の匂いと煮物の匂いが染みついた我が家の扉を開けると、一瞬少し驚いたような表情を浮かべた養父と養母だったが、直ぐに破顔して迎えてくれる。
「キース、久しぶりだね~~」
「ちょっとバタバタしていて、なかなか帰れなくて」
『ちょっと』の部分について彼らも理解しているのだろう、ウンウンと涙を浮かべながら頷くが、それ以上聞いてくることはない。
神官学校を卒業して以来、診療所の仕事に忙しく帰省しておらず、もう五年近く帰っていないことになる。ただ戻ってくると何時も本当の息子であるかのように温かに迎えてくれる二人。帰る場所を用意してくれている二人には足を向けて眠れない。
「それで――今日は、グレイスを連れて来たんだ」
背後に隠れるようにして立っていたグレイスがひょっこりと顔を覗かせると、養父の顔が執事の顔へと一瞬で変わる。
「グレイスお嬢様!このようなむさくるしい場所に……」
「お止しになってくださいませ。今は婚約者として挨拶に参りましたのよ」
ゴドウィン公爵の地方領の屋敷で執事頭を務める養父。グレイスとは会う機会がほとんどないが、やはり緊張感が走るのだろう。
「手紙にはグレイス様と婚約したとありましたが――、まさか本当に」
そう言ってグレイスの手を取った養母はポロポロと涙を流している。
「こんなにお綺麗になられて――」
「お世辞はよしてくださいませ」
嬉しそうな養父母の顔とやはり嬉しそうに微笑むグレイスの横顔を見ると、心がジンワリと温かくなるのを感じた。
彼女を初めて見たのはこの片田舎にあるゴドウィン公爵邸でのことだった。その頃は自分が第一王子であることも、養父母が自分の親ではないことも知らず、将来は『執事』になるのかな――と漠然と思っていた。
そんな中、グレイスが静養のために地方領で長期滞在することになったのだ。数年に一度、夏に避暑地として利用されるだけの屋敷。日々の仕事は掃除ばかりだったが、館の主が娘を連れて長期滞在することになり、にわかに活気づき始めた。
養父の仕事は深夜に及ぶことも増えていた。自然とミスも増えてしまったのだろう。ある日、自宅に大切な書類を置き忘れるという事件が発生した。
「大切な書類を忘れていっちまったよ」
そう言って途方に暮れる母に
「俺が届けに行くよ!」
と申し出た。人手が足りないと嘆いていた父の役に立ちたかったという想いもあったが、半分以上は屋敷の主であるゴドウィン公爵達を一目見たかったという好奇心だった。
最初は「どうせ公爵令嬢といっても普通の女の子だろう」と思っていた。都会育ちで、きっとお高くとまっているだろうから田舎の洗礼を浴びさせてやろうか……などと良からぬことを考え、ポケットには死んだ蛇を忍ばせていたのは、未だに誰にも言ったことはない。
「父さんはいますか?」
屋敷につき、近くにいた使用人に声をかけると、父より先にゴドウィン公爵が僕の来訪に気付いてくださった。
「お――! キースか!」
と嬉しそうに抱きしめられ、まるで小さな子供にするようにポンポンと背中を叩かれた。その大きな手の平の感覚に悪戯を見とがめられたような気がして生きた心地がしなかった。
「こんなに大きくなって。どうだ?ここの生活は楽しいか?」
楽しいかと聞かれてもここ以外の生活を知らなかったので、比べようもないが……と内心思っていたが、「はい」と小さな声で返事をしたのを覚えている。
「グレイス!! キースだぞ。挨拶なさい」
ゴドウィン公爵の言葉に思わず耳を疑った。執事長の息子――という立場は、使用人の間ではちやほやされる存在だとは分かっていたが、この屋敷の主すらも同じ態度をとることに戸惑いしかなかった。
「はじめまして。グレイスでございます」
ゴドウィン公爵の言葉に従うように静かに応接室から出てきた少女は、自分の前にくるとゆっくりとだが優雅にお辞儀をする。それは絵本の中でしか見たことがないような優雅なお辞儀で、その瞬間これまでの全ての世界が吹き飛んだのを感じた。
「は、はじめまして」
キースです……と名乗ろうとしたが、喉の奥で『キース』という名前がつっかえる。この神々しい少女の前で名前など名乗る資格はないような気がしたのだ。
「グレイスは、ちょっと病気になってな。空気の良いここで少しの間生活させようと思っているんだ。このままじゃ、学園にも通えないからな」
「通えますわ」
少しツンッとした様子で顔をしかめる彼女は幼さの中に気高さもあり、もっと声が聴きたい……そんな衝動にかられるのを抑えることができなかった。だが不幸中の幸い、何かをしでかす前に養父が慌てて現れてくれた。
「大変申し訳ございません。キース、屋敷へは来てはいけないと言っただろう」
そう叱責する養父をゴドウィン公爵は鷹揚に笑いながら止める。
「いいんだ。私も会いたかったからな。そろそろキースも学園に通わせてやらねばならんと思ってな」
僕に会いたかったの……?と純粋な疑問が湧いてきたが、その答えにたどり着くのはあと数年を要することになる。
「学園……?」
「ここの村でも学校に通っているだろうが、王都でより高いレベルの勉強を受けてみてみたくないか?」
村から王都の学園や神官学校へ通った人間が数年に一人いるのは知っていたが、自分にもそんな可能性があることを知らされ、思わず息をのむ。
「王都に行けるんですか?」
『グレイス様のいる王都に行けるんですか?』という意味が込められているのを知ってか知らないでか、公爵はウンウンと頷く。
「そ、それなら……神官学校に行きたいです!」
それは一世一代のおねだりだった。
あの時の俺は9歳のだったが、知っていたのだ。神官学校に行けば医者になれるということを。そして目の前の少女の病気を治せる存在になれるということを。