決裁印は私が押す
全社ミーティングの会場は、立ち見が出るほど埋まっていた。
正面には巨大なスクリーン。田所課長は最前列で、勝ち誇った顔をしている。
「では、新規プロジェクトの発表を――」
司会がそう言いかけたとき、会場の照明が落ちた。
ざわめき。
スクリーンに、一人の人物が立つ。背の高い、物静かな男性。
「お忙しいところ集まってもらった。私が話す」
結衣が私の隣で息を呑んだ。
「美咲、あれ……CEOの櫻井蒼じゃないか」
そう。スライドをめくるために登壇したのは、この会社の最高経営責任者、櫻井蒼だった。
「今日は、ある優秀な企画について話したい」
スクリーンに、見覚えのある企画書が映る。
私が三週間前に出し、ゴミ箱に捨てられた、あの地域物産プラン。
「これは半年前から、私の手元に届いていた。深夜のオフィスで、ゴミ箱から拾い上げたものだ」
課長の顔から、笑みが消えていく。
「拾うたびに驚いた。これほどの企画が、なぜ捨てられるのか」
蒼がスライドをめくる。
次に映ったのは――経費精算の記録。架空の出張。水増しの接待費。タイムスタンプ付きの横取りログ。パワハラの録音の文字起こし。
会場が凍りついた。
「これらはすべて、田所香織課長による横領、パワハラ、そして部下の手柄の横取りの証拠だ」
課長が立ち上がった。
「な、何かの間違いです! 私はそんな――」
「間違いではありません」
声を上げたのは、私だった。立ち上がり、まっすぐ課長を見る。
「地域物産プラン。作成者は私、作成日時は三月四日。課長が部長に提出したのは三月七日。私が書いて捨てられ、三日後に課長名義で出された。データが残っています」
会場の視線が、課長に集まる。
「架空出張も、日付を照合すればその日あなたは社内にいた。全部、事実が証明します」
課長の唇が震え、反論は出てこなかった。
蒼が静かに頷き、リモコンを次のスライドへ進めた。
課長自身の声が、会場に流れる。『若いくせに生意気な企画ね。はい、ボツ』
逃げ場はなかった。
会場の空気が、はっきりと変わった。
これまで課長の機嫌を取っていた先輩たちが、一斉に目を伏せる。半年間、見て見ぬふりをしてきた人たちだ。
蒼は淡々と続けた。
「私は感情で人を裁かない。だが、事実は別だ。ここにあるのは、すべて検証済みの証拠だ。経理、法務、外部の監査も入っている」
スライドが、また一枚進む。
過去三年分の、課長が握りつぶした若手の企画一覧。そのうちのいくつは、課長名義で発表され、評価されていた。
「組織を腐らせるのは、無能ではない。才能を潰して、自分の地位を守る人間だ」
「田所香織。横領一千二百万円、複数のパワハラ案件、企画の不正流用。本日付で、懲戒解雇とする」
警備が両脇に立つ。課長は崩れ落ちた。
「な、なんで……なんでCEOが、一社員の企画なんかを……」
蒼は、まっすぐ私を見た。
そして、よく通る声で言った。
「この企画を書いた藤宮美咲は――私の婚約者だからだ」
会場がどよめいた。結衣が「マジか」と口を押さえる。
私は立ち上がり、引き出しから出してきた指輪を、左手の薬指にもう一度はめた。
蒼が壇上から微笑む。
「彼女の企画は、本日から全社プロジェクトとして正式始動する。責任者は、もちろん藤宮美咲だ」
拍手が、波のように広がっていく。
私はゆっくりと、引きずられていく元課長の前を通り過ぎた。
「課長」
足を止めて、私は静かに告げた。
「あなたがゴミ箱に捨てた企画書――決裁印を押すのは、私の婚約者です」
課長は、もう何も言えなかった。
数か月後。私のプロジェクトは予想を超える成果を上げ、地域の物産は全国の食卓に届いた。
あの日、最前列で口を押さえていた結衣は、いまや私のチームの右腕だ。
「美咲、すごいよ。半年も一人で証拠集めてたんでしょ。私、何も気づかなかった」
「気づかれたら終わりだったからね。でも、結衣が毎日怒ってくれたから、心が折れなかった」
結衣は照れたように頭をかいた。
捨てられても、腐らなくてよかった。
拾ってくれる人を、信じてよかった。
蒼が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、私はその日の決裁書類に、自分の名前でサインをした。
ゴミ箱の底から始まった企画は、いま、誰にも捨てられない場所にある。




