「気をつけて。今日は一段と隕石が大きく見えるから」
ある朝、家を出ようとする僕に母が言った。
「気をつけて。今日は一段と隕石が大きく見えるから」
母が言う通り、空にある恒星の片方は幾分大きく見えている。けれどその心配は無意味だ。もう一週間もしないうちに僕らはみんな死んでしまうんだから。
「しょうがないよ、母さん。あれが落ちてきて、僕らはみんな死ぬって話なんだから」
だからそんな心配したってしょうがないよ、と母を宥めて家を出発した。珍しく母は家を出て、いつまでもいつまでも僕に手を振っていた。
本間さんを迎えに行くと、いつも通りお兄さんと本間さんが家の前で立っていた。「おはようございます」と挨拶して、本間さんにヘルメットを被せる。お兄さんは相変わらずの渋い顔で僕に本間さんを任せた。
「何があっても日向子を守れ。だが日向子より先に死ぬな。お前が死んだら、誰が日向子を守る」
「お兄ちゃんてば、そういうこと言うのやめてっていつも言ってるでしょ!」
「お前は黙っていろ、日向子。俺はこいつに話してる」
いつもは本間さんに叱られて口を閉じるお兄さんが、今日は口を閉じなかった。
「約束しろ。日向子を置いて死ぬな。日向子を死なせるな。お前が言い出したことだ。約束を果たさず死ぬような男になるな」
「約束します」
躊躇いも恥じらいもなかったのは、お兄さんが腕組みを解いたせいかもしれない。お兄さんの目から切実なものを感じたせいかもしれない。
僕はうなずき、約束した。本間さんを必ず家まで送り届けるまで、死なないと。お兄さんは無言でうなずいてくれた。本間さんは僕とお兄さんの間で、真っ赤になっていた。
無口になってしまった本間さんと通学路を歩く。学校に近づくまで、僕らは暴徒たちとすれ違うことすらなかった。
こんな風に行きがけが静かだったせいで、僕は油断してしまった。いつもなら角に人が隠れていないか確かめて曲がるのに、今日は確認を怠ってしまった。
そこには、以前本間さんに襲いかかったあの男がいた。
奇声を上げて男が僕らに襲いかかる。僕は反射で鉄パイプを振り上げた。鉄パイプは男の額中心を捉えた。顔を押さえうずくまる男を置いて本間さんの手を引き走り出す。
男が喚く声が聞こえる。
角を越えて、走って、正門を目指す。学校までは、誰も追いかけてこない。学校に不審者は入ってこない。そう信じていた。
正門をくぐる。校舎の向こう、裏山の山頂付近に火が見えた。裏山には、神社がある。社が燃えてるのか? あの火は山を下りてくるだろうか。校舎に逃げ込むより、引き返して本間さんを家へ送り届けるのが最善の選択じゃないか?
神様は、悩む暇すら与えてくれない。
僕らを襲った男の声が聞こえた。僕は本間さんの手を引き校庭を突っ切った。開け放たれたままの正面玄関に飛び込み、下駄箱の影で荒くなった呼吸を整える。
僕も本間さんも体育会系じゃない。それに加え、今は栄養どころか空腹もまともに満たせない世界だ。僕らの体力は下がりに下がっている。
反対にあの男は、狂乱状態にあるからか疲れを覚えないようで、変わらず奇声を上げ校庭を走って僕らを追いかけてきた。逃げようとする僕らにあっという間に追いついた男は、本間さんの腕を掴み引きずり倒そうとした。
――また本間さんに触った。
頭にカッと血が上る。
再び振り上げた鉄パイプは、男の後頭部を強打した。男は悲鳴を上げ、後頭部を押さえ転げ回る。
本間さんは涙を流し、震え、男から少しでも離れようともがいた。だが腰が抜けたのか、うまく立ち上がれないようだった。
鉄パイプを持っていない手で本間さんを引っ張り上げ、抱えるように走り出す。
男が呻きながら立ち上がるのが見えた。よろめきながら、男はまだ僕らを追いかけてくる。校舎から出ればいいのに、僕は階段を上がった。
外へ出ればこんな人間がうようよしてる。そんな外へ飛び出すのは危険だ。校舎の中なら僕らには地の利がある。少しは安全なはずだ。いざとなれば本間さんを隠して、僕一人であいつに立ち向かえば何とかなるはず――そう思っての選択だった。
距離を稼いで、本間さんをどこかの教室に隠すつもりだった。だが、あれだけ殴ったのに男は僕らを見失わなかった。執念深く僕らを追いかけた。本間さんを隠せないまま、僕は逃げ続けた。そして何を血迷ったのか、屋上へ出てしまった。
男が階段を上がるのを視界の端に入れながら、叩きつけるようにドアを閉じる。男は目の前で閉まったドアを狂ったように叩いた。僕ら二人は必死でドアを引っ張り、決してノブから手を離さなかった。
やがて、静かになった。
ドアの向こうに人の気配はある。男はまだそこにいる。なのになぜ叩くのをやめたのか。
首を傾げながら、僕らはノブを引っ張り続けた。男が動き回る気配を感じ、必死で後方に体重をかけた。
金属が触れ合う音が聞こえた。ドア越しに少しの振動を感じる。一体何をしてるんだ?
突然、ドォンと大きな音がした。
同時にさっきよりも重い振動が伝わる。
あ、と僕は声を上げた。
本間さんが僕を見る。ジェスチャーで手を離すよう伝え、本間さんの手が離れたところでおそるおそるノブを回す。
回らない。
いや、回らないとは過剰表現だ。回る範囲が少ない、と言うのが正しい。前に本間さんと屋上へ上がったとき、チェーンが落ちていたのを思い出す。
ドアを蹴飛ばす。
びくともしない。
二人で押してもドアは動かない。向こうにいる男がゲラゲラ笑いながら階段を駆け下りていった。
僕ら二人は、強すぎる日差しを遮るものが何もない屋上に閉め出されてしまった。
これで少しでも日差しを遮ることができればと、上着を脱いで本間さんに被せる。遠慮する本間さんの頭に上着を被せ、壁際の小さな小さな影に座らせた。
僕はフェンスのそばに立ち、校舎にいるはずの教師たちに助けを求める。望みが薄いのはわかってる。だけど声を出さずにはいられなかった。
慣れない大声を張り上げたせいで、すぐにのどがおかしくなった。咳き込む僕のそばに本間さんが駆け寄る。上着を持ち上げた本間さんは「二人で影に入ろう?」と背伸びして僕に上着を被せてくれた。
わずかな影で日差しを遮り、僕らは校舎周辺を誰かが通るのを待った。しかし、暴徒すら通らない。時計を持たない僕らに時間の感覚はない。
じりじりと日差しに炙られ、僕らは干からびていった。
気が狂いそうな渇きに悩まされてもどうにか暴れ出さずにいられたのは、隣にいる本間さんのお陰だ。
本間さんを家へ送り届けなくちゃいけない。家族の元へ帰らせてあげなきゃいけないんだ。
その使命を何度も思い出し、僕は正気を保っていた。
助けを求めドアを叩くこともできなくなった頃。僕らは互いに寄り添って、壁に背を預けていた。隣の本間さんが、かすれた声でぽつりと呟く。
「こんなことになるなら、もっと早く、渡部君に話しかければ良かった。もっともっと、渡部君と、話したかった」
本間さんの頭が僕の肩に乗る。もしも終末を迎えなかったら、こんな風に本間さんに触れてもらえるどころか、そばにいることすらできなかっただろう。
それだけは終末に感謝してもいい。
いや、やっぱりだめだ。本間さんまで死んでしまうなんて、そんなこと、あってはならない。
「渡部君、好き。大好き」
幻聴かもしれない。本間さんが、僕を好きなんて。
現実だとしても、吊り橋効果ってやつかもしれない。終末という危険な状況を二人で過ごしたから、本間さんは勘違いしてしまったんだろう。
返事ができない僕の手に、本間さんの手が重なった。
「助けてくれてありがとう。一緒にいてくれてありがとう。ごめんなさい。私のせいで、渡部君までこんなところで……」
本間さんは今にも泣きそうな顔をしている。本当は泣いているのに、水分が足りなくて涙が出ないのかもしれない。僕が今意識が朦朧として灼熱の気温を感じられないのと同じように。
でも隣にいる本間さんの温度はわかる。本間さんが最後の力を振り絞って僕の手を握ってくれているのがわかる。
本間さんの小さな手を握り返したい。「本間さんのせいじゃないよ」と言ってあげたい。なのに体に力が入らない。
目の前が暗くなったのは、瞼が下がったせいかそれとも視覚から情報を得られなくなったせいか。
ごめん、と呟いたつもりだった。
僕もきみが好きだ、と返したつもりだった。
けれど自分の声が聞こえなかった。僕はもう、吐息すら出せなくなっていたのだ。
――何も見えない。何も聞こえない。本間さんのお兄さんと、約束したのに。
僕の命は地球より先に、本間さんより先に、終わりを迎えてしまった。
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