第12話 明日
17時23分の図書室。
リョウタの隣にはアカリがいて、向かいにはミオ、少し離れたところにタクミがいる。
窓からも離れている。
道路にも出ていないし、
高い建物でもない。
知らない人にも近づいていない。
アカリは、自分からここにいてくれている。
今までで一番、安全なはずだった。
それでもリョウタの手のひらは汗ばんでいた。
図書室の時計の秒針が動くたび、胸の奥で何かが数を減らしていく。
安全な条件をいくつ積み上げても、「次」が消えたとは思えなかった。
「リョウタ」
「なんだよ」
「手」
「手?」
「ずっと握ってる」
「あ……」
リョウタは慌てて離そうとした。
アカリが握り返した。
「別に離せとは言ってないよ」
「……なんだよ、それ」
「リョウタが離したそうだったから」
「俺?」
「うん」
アカリは壁の時計を見る。
「そんなに怖い?」
「……分かんねえ」
「そっか」
「ごめん」
「だから、なんで謝るの?」
また、答えられない。
アカリは追及しなかった。
ただ、握った手を少しだけ揺らした。
「明日、教えてくれるんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ今日はいいよ」
リョウタは、その言葉だけを信じることにした。
○
「――では、続きを」
教師の声で、タクミは目を開けた。一月十二日、火曜日の五時間目。
「…………」
鞄を開けてノートを出す。
まっさらなのは、いつものことだった。ペンを持ち、いつものように書き直す。
道×時間×駅×学校×屋内×別行動×
そこまで書いて、止まった。次に書くのは、昨日まで存在した未来だ。
図書室で、リョウタがずっと隣にいた。アカリは了承していて、何も無理強いしていない。危険へ近づいてもいない。それでも、金曜日は終わらなかった。タクミは新しい行へ書いた。
本人同意・同行・待機 ×
その下に、死因を書こうとした。
ペンが止まる。
「……」
一文字書いて、消した。もう一度書こうとして、やめる。代わりに書いたのは、一行だけだった。
金曜を越えない。
「……それでいいの?」
ささやくような声がした。
斜め後ろの席から、ミオがタクミの肩越しにノートを覗き込んでいた。
「何が」
「死因」
「見てたのかよ」
「見えたものは見るわ」
「読者様は気楽でいいな」
「気楽に見える?」
タクミが顔を上げる。
ミオは笑っていなかった。
「……悪い」
「別に」
ミオがノートを見る。
「書かないの?」
「もういい」
「どうして?」
「死因を一個書くと」
タクミはページを指で叩いた。
「次の周、それを防ごうとするだろ」
「そうね」
「防いだら別の何かが起きる」
「……」
「だったら」
タクミはノートを閉じた。
「今、オレたちが調べてんのはそこじゃねえ」
ミオは何も言わなかった。
でも、否定もしなかった。
◇
「嫌だ」
リョウタが呟いた。
アカリが振り返る。
「なに?」
「……明日」
「明日?」
リョウタ自身が驚いた顔をした。
「いや」
「明日、何かあるの?」
「分かんない」
「水曜日だよ?」
「知ってる」
「じゃあ、なに?」
「違う」
「何が?」
リョウタは額を押さえる。
「明日って言葉が」
「……?」
「嫌だ」
タクミの指が止まった。
ミオも顔を上げる。
アカリだけが、不思議そうに笑った。
「変なの」
「ああ」
教室にはいつもの授業の声が流れている。
黒板を擦るチョークの音も、窓の隙間を鳴らす風も、今この瞬間が火曜日であることしか示していない。
「明日、来てほしくない?」
「違う」
リョウタは即答した。
「来てほしい」
「じゃあいいじゃん」
「……」
「明日になれば分かるよ」
リョウタの顔が歪んだ。
「その言い方」
「なに?」
「やめてくれ」
アカリの笑顔が消える。
「……ごめん」
「違う。アカリが悪いんじゃない」
「うん」
「俺が」
胸を押さえる。
「なんか……」
「怖い?」
前にも、そう聞かれた気がする。
「……ああ」
今度は、ごまかさなかった。
~
五時間目のあとの休み時間。
次の授業の教科書を出す音が、あちこちで鳴っている。
アカリは友達に呼ばれて廊下にいた。
リョウタはまだ机に何も出していなかった。
「昨日」
リョウタが言った。
「月曜だぞ」
タクミが返す。
「分かってる」
「じゃあ何だ?」
「昨日じゃない」
「……」
「俺」
リョウタはタクミを見る。
「また失敗した?」
タクミはすぐには答えなかった。
リョウタの喉が動く。
「したんだな」
「……ああ」
「アカリ?」
「ああ」
「俺、一緒にいた?」
「いた」
「離れた?」
「ほとんど離れてねえ」
「本人は?」
「何が」
「嫌がってた?」
「……いや」
リョウタは目を閉じた。
「そっか」
「リョウタ」
「じゃあ」
声が低くなる。
「一緒にいるだけじゃ駄目なんだ」
「待て」
「次は」
「待てって」
「もっと条件を――」
「リョウタ!」
タクミの声が強くなった。
リョウタが止まる。
「なんだよ」
「今、何て言おうとした?」
「条件」
「誰の?」
「……」
「アカリの?」
「違う」
「じゃあ誰のだ?」
「オレたちのだよ」
「同じだ」
「違う!」
リョウタが机を叩いた。
教室が一瞬静かになり、二人とも黙った。
リョウタは手を引いた。
「……悪い」
「俺じゃねえ」
「分かってる」
「分かってねえ」
タクミが声を落とす。
「アカリは攻略条件じゃねえぞ」
「そんなこと思ってない!」
「だったら」
「じゃあどうすればいいんだよ!」
リョウタがタクミを見る。
「何もしなかったら死ぬ!」
「……」
「道変えても死ぬ!」
「……」
「一緒にいても!」
声が詰まる。
「本人がいいって言ってくれても!」
タクミは、何も返せなかった。
叩いた机の縁に、手のひらの熱が残っていた。リョウタはその手を膝へ下ろした。
隣の列の生徒は、もう別の話を始めている。聞かれていたのが恥ずかしかった。
タクミへ言い過ぎたとも思った。
それでも謝ろうとすると、先に言ってしまったことを取り消すようで、うまく声にならない。
タクミは椅子を引かず、そこに座っていた。
~
「言い方が悪かった」
放課後、屋上前の踊り場で、タクミが言った。
小窓には夕方の光が斜めに差し、手すりの影が階段へ長く落ちていた。
昼より冷えた空気の中で、二人の声は自然と低くなる。
「何がだよ」
リョウタが返す。
「攻略条件じゃないってやつ」
「間違ってないだろ」
「でも、おまえがアカリを物みたいに扱ってるとは思ってねえ」
「……」
「むしろ逆だ」
「逆?」
「大事すぎるんだろ」
リョウタは壁にもたれた。
「何回も」
タクミが続ける。
「失ってる感覚だけ残ってる」
「……ああ」
「だから全部止めたくなってる」
「悪いかよ」
「悪いとは言ってねえ」
「じゃあ何だよ」
「怖い」
「何が?」
「そのうちおまえが」
タクミは少し迷った。
「アカリに選ばせるのも怖くなるんじゃねえかって」
リョウタは黙った。
「……俺が?」
「ああ」
「そんなこと」
ない。そう言おうとして、言えなかった。
図書室にいた自分が何を考えていたのか、リョウタには分からない。
タクミの話では、アカリは一緒にいてくれた。その日、本当は何をしたかったのか、自分は聞いたのか。
確かめようにも、頼れるのはまたタクミの記憶だった。
壁へ預けた背中が冷えてきた。リョウタは自分の手へ目を落とした。
「……」
「リョウタ」
「なんだよ」
「オレが止める」
「何を」
「おまえがやりすぎたら」
タクミは言った。
「オレが止める」
「……」
「だからおまえは」
少し笑う。
「遠慮なくバカやれ」
「なんだそれ」
「親友サービス」
「頼りなくね?」
「オレ以上に頼れる観測者がいるなら連れてこい」
「観測者って自称だったの?」
「今のところオレしかいねえから公認みたいなもんだ」
「勝手だな」
「機関も認定している」
「急に信用ゼロになった」
リョウタが少し笑った。
「私もいるけど」
後ろから声がした。
二人が振り返ると、ミオがいた。
「何よ、その顔」
「いつからいた?」
タクミが聞く。
「『親友サービス』くらい」
「一番聞かれたくねえとこ!」
「安心して。格好悪かったわ」
「安心要素どこ!?」
リョウタが笑った。
久しぶりに、普通に。
「で」
ミオが階段を上がってくる。
「私も止める」
「何を?」
リョウタが聞く。
「あなた」
「……」
「タクミ一人じゃ信用できないでしょ」
「おい」
「事実よ」
「否定しづらい!」
「それと」
ミオがリョウタを見る。
「収束も」
「収束?」
「信じるのは勝手」
「お前が言ったんだろ」
「仮説だって言ったでしょ」
「はいはい」
「はいは一回」
「先生かよ」
「でも」
ミオの声が少し低くなる。
「仮説を信じるために、アカリを仮説に合わせるのは駄目」
リョウタが眉を寄せた。
「どういう意味だよ」
「『アカリは死ぬ』って思ってるから」
ミオは一段、階段を上がった。
「死なないための行動しかさせなくなる」
「……」
「そうすると」
ミオはリョウタの前で止まった。
「私たちが見られる未来まで、全部その仮説の中になる」
タクミの表情が変わる。
「お前」
「何よ?」
「今の」
「何が?」
「もう一回」
「嫌」
「なんでだ?」
「一回で聞きなさい」
「そうじゃねえ」
タクミが立ち上がった。
「仮説の中しか見えなくなるって」
「そう言ったけど」
「……」
「何よ?」
「いや」
タクミはしばらく考えた。
「なんでもねえ」
「その言い方、最近嫌い」
「奇遇だな。オレもだ」
~
金曜日、リョウタはまたアカリに頼んだ。
「今日、一緒にいて」
「いいよ」
アカリは答えた。前の周と同じように。
でも、今のリョウタには、その返事が軽くは聞こえなかった。
「アカリ」
「なに?」
「嫌だったら言って」
「うん」
「俺が変なこと言ったら」
「うん?」
「止めて」
アカリが笑った。
「わたしが?」
「ああ」
「タクミじゃなくて?」
「あいつも止めるって」
「じゃあ安心だね」
「安心か?」
「三人もいるじゃん」
「ミオ込み?」
「もちろん」
「一番怖いだろ」
「何よ?」
少し離れたところから声が飛んできた。
「聞こえてたの!?」
「聞こえる声で言ったでしょ」
「地獄耳」
「普通よ」
アカリが笑った。
リョウタも、少しだけ笑った。
「じゃあ」
アカリが言う。
「今日はどうする?」
リョウタは答えようとして、止まった。
今までなら、安全な場所を探し、危険なものを消して、アカリの行動を減らしてきた。
でも。
「……アカリは?」
「え?」
「何したい?」
アカリが目を丸くした。
「わたし?」
「ああ」
「急だね」
「悪い」
「謝らなくていいって」
アカリは少し考えた。
「じゃあ」
それから、笑った。
「たい焼き食べたい」
リョウタの胸がざわついた。
商店街は嫌だ。たい焼きは嫌ではない。
でも、商店街は嫌だ。
「……」
「駄目?」
アカリが聞く。
リョウタの中で、答えが二つに割れた。
行くな、 行かせるな、危ない、という声。
そしてもう一つ、今までよりずっと小さい声。
アカリは、行きたいんだ。
リョウタは目を閉じた。
「……行こう」
「ほんと?」
「ああ」
「無理してない?」
「してる」
「してるんだ」
「でも行く」
その言葉を出すまでに、喉の奥がひどく渇いた。
行きたいわけではない。怖くないわけでもない。
ただ、怖いという理由だけでアカリの明日まで自分が決めることの方が、少しずつ怖くなっていた。
アカリが嬉しそうに笑った。
タクミは少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。
ノートを開く。
今日はまだ、
何も書かなかった。




