ユートピア
天気、不明。空が見えないため。少なくとも雨音は聞こえない。
温度、十度以下。だいぶ寒い。冬が来たためだろう。
湿度、六十パーセントは越えているだろう。布団が湿っぽい。
時間、朝になったはず。ここは暗すぎてわからない。ボール電球の明かりだけが頼りだ。
今の状態、腹が減った。食べたのは一昨日の朝。食事はますます減らされるばかりだ。
起き上がると周りがもぞもぞと動き出したのがわかった。ここは温かい。人の熱がこもっている。しかし、一度外に出れば凍えるだろう。僕は、そんなことがわかっていつつも外へと出た。鞭打ちだけは勘弁だった。天井のせいで外は暗い。炊き出しへと歩いて行くと、完全栄養食の粒と温かい水が振舞われた。せめてもの情け。粒をかみ砕いて、暫く水で暖を取った。外は寒いから、こんな小さな温もりでも少しは違った。管理者たちは優雅にスープを飲んでいた。羨ましくないと言ったら嘘だ。しかし、手を出すわけにはいかない。誰も死にたくなどないから。
ごみを運ぶ。ウェイストホールの穴は触れるのが怖いくらい暗い。しかし、管理者は待ってくれない。鞭が地面を打ち付ける音を聞いて作業に移る。穴を掘り、ごみを埋め立てる。昨日もやった、ウェイストホールでの日常。夜まで作業を繰り返すと寝る時間が来た。管理者がごみの残りを確認する間に柵に寄りかかった。上の方には有刺鉄線が張られ、逃げられないようになっている。声が聞こえた。耳を澄ます。近くからだった。暗がりを柵越しに覗くと人影を見つけた。その人はこちらに手招きをしていた。できる限り近づいて目を凝らす。数人の仲間が、声に気付いたのか寄って来る。
「マウスバロウに来て。楽園があなたを待ってる。」
その声は確かに響いて、人影は消え去った。仲間同士で顔を合わせる。僕がさっきの言葉を知っているか聞こうとした矢先、管理者が戻ってきて、宿舎に戻された。宿舎では、皆すぐには寝静まらず、マウスバロウの話で持ちきりだった。他にも何人かが聞いていて、古参の奴隷市の元奴隷から中流層向けの町のマンホールの下に、元奴隷の楽園があることが広まった。皆、考えることは一緒だった。
翌日。宿舎を出た仲間数人が、管理者の指示を待たずに柵の方へと駆けていき柵をよじ登り出した。僕は呆気にとられ、見る事しかできなかったが管理者がすぐさまやってきて、テーザーガンを撃った。何人かがそれにあたって落ち、他にも何人かが有刺鉄線の痛みに耐えきれずに落ちた。そこを犬が噛みつく。それでも乗り越えた者は数名いて、町の明かりの方へと駆けて行った。そうなれば、管理者には止められないようで管理者は腹いせに、近くの奴隷に鞭を打ち、逃げそこなった奴隷を捕らえて処分した。数名の奴隷が一気に処分されたことによって、飢えている奴隷たちの腹に肉が収まった。それが崩壊への始まりだった。
毎朝数人が柵のぼりに挑戦した。必ず十人以上で、テーザーガンの的を分散し有刺鉄線を数人が乗り越えた。逃げ損ねた奴隷は、腹の足しになる。後のない奴隷たちにとって、それは酷く都合のいい挑戦になってしまった。逃げられれば良し、逃げ損ねてもこれ以上飢えずに済み、仲間の腹の足しになる。それは、管理者たちを困惑させた。対策の取りようがない管理者たちは、ひたすら奴隷を処分した。しかし、抑止力になることがなくなったそれは大量の脱走者を生むばかりだ。そして僕も、脱走に誘われた。雪が降った日だった。
いつも通り、宿舎が解放されて数分後に柵に向かって走る。柵を登って有刺鉄線に手を伸ばしたとき、隣の人間が落ちていった。それは恐怖心をあおった。次は自分かもしれないという恐怖心は柵をつかむ手を鈍らせる。痛みが必要以上に感じられた。しかし、離せば後がない。恐怖と痛みにこらえて柵を登りきると、反対側に飛び降り、間髪入れずに走った。かじかんだ手は、痛みも伴って感覚がない。それでも走ると、マンホールが見えた。先についていた仲間がマンホールを持ち上げて中に消えていく。それに続くと、人が数人立っていた。これ以上人が来ないことを確認してその人たちは、僕たちに肩を貸したり、腕を引っ張ったりして奥へといざなった。扉が出現すると、一人が扉を開ける。目を細め、中を見ると、そこはバーだった。黄色い電灯が部屋を照らし、酒の匂いとたばこの匂いにあふれたそこは、間違いなく別世界で、バーテンダーが
「ようこそマウスバロウへ。」
と言った。呆気にとられる俺たちの手を引いて、奥へと通される。数人の仲間はそのまま奥に行ったが、僕には耐えられず、その場で体が崩れ落ちた。
気づくとソファに寝かせられていた。眼帯を付けた男が顔を覗き込む。目が合うと、彼は笑った。
「エレノア、起きたみたいだ。」
「だから言ったでしょ。心配ないって。お兄ちゃんってば心配性なんだから。」
僕はソファに起き上がると、彼をじっと見つめた。これからどうなるかはわからなかった。だけど・・・
「まずは名前を決めよう。それから、働ける場所を探して。俺がつけてやる。心配はいらない。見つけたやつが名前を付けてやるって習わしなんだ。それが終わったら・・・。」
僕の目からは涙が零れ落ちた。その様子に彼は優しく僕の肩を叩いた。
「ここはいいところだ。保証してやる。首輪を外しに行こう。君はもう、普通の人だ。」
僕は頷いた。これからのことはきっと心配いらない。だって、楽園に着いたのだから。
マウスバロウはユートピアだ。奴隷たちの唯一の楽園。




