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時雨の焼印【通常盤】  作者: 太幽


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第三部・第三章「欲次郎と意地子の野望」

一、


窓辺から見える「幸せ」


欲次郎と意地子にとって、隣の老夫婦の家は、窓から見える「自分たちにはないもの」の象徴だった。


あの白い犬が来てからというもの、善兵衛と花乃の家からは、絶えず笑い声が聞こえてくる。囲炉裏を囲む温かい団欒、畑仕事の後の満足げなため息、そして、犬に向ける優しい言葉の数々。


欲次郎は、そんな隣家の様子を、障子の隙間からじっと眺めていた。


「……あの老夫婦、なぜあんなに幸せそうなんだ」


彼の手には、金の入った袋。何度数えても、その量は変わらない。それなのに、彼の心は満たされることがなかった。


意地子は、そんな夫の姿を冷めた目で見つめていた。彼女の左手には、小指がない。その欠けた部分が、疼くように熱を持つことがあった。


(幸せ……? この世にそんなものが本当にあるのか?)


彼女の脳裏には、幼い日の記憶が焼き付いていた。


---


二、意地子の左手 ― 消えない傷跡


あれは、飢饉が最もひどかった年の冬だった。


家族は飢えに苦しみ、一日でも早く食べ物を見つけなければ、全員が死ぬかもしれない。幼かった意地子は、必死に町外れのゴミ捨て場を漁っていた。そこには、富裕な家が捨てた食べ残しが、わずかに残されていることがあった。


その日、彼女は一握りの固くなった飯びつを見つけた。それは、彼女の家族が数日ぶりに口にする食べ物だった。


しかし、その瞬間だった。


「グルルルル……」


低い唸り声。振り返ると、一匹の痩せ細った野良犬が、彼女の獲物を狙って牙を剥いていた。犬もまた、飢えに苦しんでいた。生きるために、必死だった。


意地子は飯びつを抱えて逃げようとした。だが、犬は追いかけてきた。そして、彼女の左手に食らいついた。


「いやっ!」


痛みと衝撃で、彼女の手から飯びつが落ちる。犬は飯びつを奪い、どこかへ消えていった。


彼女の左手の小指は、噛み千切られていた。血が止まらず、彼女は泣きながら家に帰った。


あの日から、彼女の心に深い傷が刻まれた。


――犬は、人から食べ物を奪う、汚らわしい生き物だ。

――この世は、奪うか奪われるかだ。

――金さえあれば、奪われることはない。


そう信じなければ、彼女は生きていけなかった。


---


三、「金を生む犬」の噂


「隣の白い犬が、埋蔵金を掘り当てたらしいぞ」


村中に広まったその噂は、欲次郎と意地子の耳にもすぐに入った。


欲次郎の目が、ぎらついた光を放つ。


「金を生む犬……だと?」


彼はすぐに、老夫婦の家へと向かった。そして、ありったけの金を積んで、シロを買い取ろうとした。


しかし、老夫婦は首を縦に振らない。


「シロは家族です。金では売れません」


「なに……!」


断られたことに、欲次郎の怒りは頂点に達した。しかし、彼の心の中では、別の考えが渦巻いていた。


(買えなければ……借りればいい。そして、金の在り処を吐かせれば……)


彼は、一日だけ金を積んでシロを借りることにした。


---


四、「掘れ!掘れ!」


「さあ、ここを掘れ!掘れば金が出るぞ!」


欲次郎はシロを庭に連れ出し、鍬を片手に興奮した声で叫んだ。意地子も隣に立ち、鋭い目でシロを見下ろしていた。


しかし、シロは動かない。ただじっと座り込み、彼らを見上げているだけだ。


「なぜ掘らぬ!さっさと掘れ!」


怒鳴っても、シロは動かない。その瞳は、まるで彼らを見透かしているかのようだった。


苛立ちに任せて、欲次郎は鍬の柄でシロを殴りつけた。鈍い音がして、シロの体が軋む。


「掘れ!掘れと言っているんだ!」


何度も、何度も、殴りつける。


意地子は、その光景をじっと見つめていた。彼女の左手の、小指のない部分が、ズキズキと痛み始める。


(この犬……まるで、あの日の……)


彼女の脳裏に、あの飢えた野良犬の姿が重なった。同じ白い毛。同じ、じっと見つめる目。


「違う……あの犬は、もういない……!」


彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、シロの瞳は、あの日の犬と同じように、彼女の心の奥底を見透かしているように思えた。


「なぜ……なぜそんな目で見るんだ!」


憎しみが、爆発した。


彼女は手に持った石を、シロの頭に力任せに叩きつけた。


一度、二度、三度――。


気がつくと、シロは地面に倒れていた。白い毛が、赤く染まっている。


「……これで、終わりだ」


意地子は、震える手を見つめた。左手の小指のない部分が、ひときわ強く疼いていた。


---


五、それでも満たされない心


シロの死体は、老夫婦の玄関先に放置された。やがて、買い出しから帰ってきた老夫婦の悲鳴が聞こえた。その声を聞きながら、欲次郎と意地子は、自宅の中でじっと息を潜めていた。


「これで、あの犬はもういない。老夫婦の幸せも、終わりだ」


欲次郎はそう言って、ほくそ笑んだ。しかし、彼の心は、ちっとも晴れなかった。


あの犬を殺したのに、なぜだ? なぜ、こんなにも虚しい?


数日後、彼らは老夫婦から奪った臼を庭に持ち出した。あの犬が金を掘り当てたというのなら、この臼だって金を生むに違いない――そう信じて。


「出ろ!金を出せ!」


ガンガンガン!


「もっと出せ!もっと!」


ガンガンガン!


彼らは一日中、臼を叩き続けた。しかし、臼からは何も出てこない。ただ、虚ろな音だけが響く。


翌朝、臼は真っ二つに割れていた。


「この役立たずめ!」


欲次郎は怒りのままに、割れた臼を燃やしてしまった。


---


六、村を追われて


シロが埋葬された後、村には満開の桜が咲いた。それはあまりにも美しく、村中の人々が集まるほどの奇跡だった。


しかし、欲次郎と意地子の元には、誰も来なかった。


「臼叩きじじい!」

「臼叩きばばあ!」


村の子供たちが、彼らを指さして笑う。


欲次郎は怒りで拳を震わせたが、何も言い返せなかった。意地子は、ただうつむいていた。彼女の左手の欠けた小指が、疼くように痛む。


その夜、二人はひっそりと村を離れた。


暗い道を、二人は黙って歩いた。誰も見送りはしない。


「……なあ、意地子」


欲次郎が、暗がりの中で呟いた。


「……あの犬を、殺さなければよかったのかもしれんな」


意地子は答えなかった。ただ、左手のない小指を、右手で強く握りしめた。


やがて、二人の姿は闇に消えた。


その後、彼らがどこで何をしていたのか、誰も知らない。


ただ、村の古老が時折こう言うのだった。


「欲次郎と意地子はな、今もどこかで臼を叩き続けているそうだ。金が出るまで、決して止まらないんだと――」


それは、欲張りの末路を戒める、新たな村の言い伝えとなった。


---

【次回予告】


『次回予告』


二つの奇跡が、村に訪れた。


満開の桜と、青々と茂るきび団子の木。

その影で、一人の男が静かに涙を流す。


「忠助……お前は、立派な生涯だった」


宇喜多秀家の胸に、新たな決意が芽生える。


そして、時は流れ——

喜備丸の団子屋が、城下町に開かれる日が来る。


次回、満開の桜と新たな出会い


---


【第三部三章・完結】


---

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