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140:触れない温もり 141:悪魔の贈り物

140話:触れない温もり


玄関の鍵が回り、扉が開く音がした。


ヒナはぱっと顔を上げ、まるで犬の耳がぴょこんと立ったような動きで

「ご主人様だ! 帰ってきたんだ!」と嬉しそうに声を上げると、部屋を飛び出した。


リビングに駆け込むとエリンが上着を脱ぎながら、

ヒナに気づいて微笑んだ姿が目に入った。


「ご主人様、おかえりなさい! ミアさんのとこ行ってたんですか?」


「ただいま、ヒナ。そう、ミアの様子を見てきたんだ。」

エリンは優しく答えながら、目元に疲労の色を浮かべていた。


ヒナはその表情に気づき、少し心配そうに眉を寄せた。


「聖域を張ってたんだけどね……僕の魔力もかなり消耗してたから、知人のエルフに理由を話して代わってもらったんだ。優秀な人たちだし、口も固い。信頼できる人だから心配しなくても大丈夫だよ。」

エリンは疲れを隠すように微笑んだ。


「聖域……エルフの強い守護魔法ですよね。

ボクにはできないし……何か、別のことで力になれたらいいんですけど……」


「ヒナには十分すぎるほど頑張ってもらってるよ。いつもありがとう。」

そう言いながらエリンは一瞬目を伏せ、顔を曇らせた。


「ヒナ、今までごめんね。」

突然の言葉に、ヒナは驚いて目を見開いた。

「えっ……?」

エリンはしばらく黙った後、静かに続けた。


「僕は、ヒナにとって何が幸せかを考えられていなかったと思う。

家族として君を大切にしたいというのは僕の願いであって、君の気持ちじゃない。」


ヒナは何かを言おうと口を開いたが、エリンの次の言葉がそれを遮った。


「家族と言いながら、ミアのためだと言いながら、君に酷いことをしてしまった。本当にごめん。」

その言葉は、エリンの深い自責の念が込められているようだった。


「そ、そんな……! ご主人様、ボクは……!」

ヒナの声は震えていたが、それでも絞り出すように続けた。


「何も後悔なんてしてません! ボクの意思で、ご主人様に協力してもらってただけで……。

ご主人様の家族として大切にしてくれた気持ちも、温かくて……幸せで……だから──」


好きになった、と言いかけた言葉を、ヒナはぐっと飲み込んだ。


エリンはそんなヒナの顔をじっと見つめた後、そっと微笑んだ。

「ありがとう、ヒナは本当に優しいね。」

そう言いながら、少し間を置いて重々しく問いかけた。


「……リオンとはうまくいってるの?」


その問いかけに、ヒナの心は一瞬、冷たく凍るような感覚に襲われた。

胸が張り裂けそうな嫌な気持ちが、急速に広がっていく。


ヒナはぎゅっと拳を握りしめ、できるだけ普通を装いながら、小さく頷いた。


「……はい。リオンさんは…いつもボクを支えてくれてます。」


これ以上、どんな言葉を付け加えればいいのか、わからなかった。

口を開けば、心の奥に沈めていた感情まで零れてしまいそうで、必死に飲み込んだ。


エリンは少しだけ視線を落とし、考え込むように唇を結んだ後、静かに微笑んだ。


「そうだね、わかる気がする。

リオンはなんだかんだ彼なりの優しさがあって、陰から支えてくれることが多いと感じるよ。

僕も何度か助けてもらってきたし、感謝してる。」


穏やかながら、どこか力強い口調だった。

そこには揺るぎない信頼が込められているように感じられる。


ヒナは俯きながら、心のどこかでほんの少しだけ、その言葉に救われたような気がした。

リオンさんは……ちゃんと、信じてもらえてる。


──なのに。


心の奥に小さな棘が刺さるような痛みがあった。


エリンは静かに息を吐き、真っ直ぐヒナを見つめた。

その瞳は、何かを探るようなものではなく、ただヒナの心を大切にするような優しさに満ちていた。


「…君を傷つけてた僕が言えることじゃないけど、ヒナのこと、心配なんだ。」


柔らかい声が、胸に染み込んでくる。


「言いたくないことは言わなくて大丈夫。

でも、僕で力になれることがあれば、いつでも遠慮なく言ってほしい。」


──心配、してくれてる。


ヒナは思わずエリンの顔を見つめた。

ご主人様の優しさは、ずっと変わらない。


だけど……ずっと感じていた。

どこか、距離があることを。


「……ありがとうございます。」


それだけ言って、ヒナは小さく微笑んだ。

エリンも、それに応じるように穏やかな笑みを浮かべる。


けれど、その日は結局、一度もボクの頭を撫でてくれることはなかった。


──寂しい。


ほんの少し前まで、何の躊躇いもなく頭を撫でてくれていたのに。

それは もちろん家族としての愛だけど、ボクをいつも とても大切にしてくれていた

その深い愛情で、もう一度ボクを抱きしめて欲しい


ご主人様に、触れたい。


目の前にいるご主人様が、たまらなく愛しい。

そんなことを言う資格がボクにはないけれど…。


叶うなら、あの日の夢を、もう一度──


ヒナはそっとまぶたを閉じ、胸の奥に広がる空虚な感覚を、ただ静かに押し殺した。



141話「悪魔の贈り物」


朝の光が柔らかく差し込む部屋の中で、ヒナは静かにカーテンを開いた。


新しい一日が始まる。

けれど、胸の奥のどこかが重く感じるのは、昨夜の会話が心に引っかかっているせいだった。


ご主人は優しかった。

いつものように微笑んでくれた。

けれど──もう、ボクの頭を撫でてはくれなかった。


それが、こんなにも寂しいことだとは思わなかった。


そんなことを考えていたその時、突然扉が開いた。


「ヒナ、起きてる?」


驚いて振り返ると、リオンが勝手に部屋へと入ってくる

リオンは無造作に扉を閉めた。


「…なんですか?」

ヒナが少し戸惑いながら尋ねると、リオンはポケットから小さな小瓶を取り出し、それを軽く振る。


「一つ、精神安定剤が手に入った。」


ヒナは目を瞬かせる。

「…精神安定剤…?」


リオンは特に表情を変えず、淡々とした仕草で小瓶をヒナに向かって放った。

慌てて受け取ると、透明なガラスの中で淡く輝く液体が揺れる。


「精神の浄化効果があるミアの涙が入ってる。

ミアはもう長いこと眠ってるから、今は貴重な薬だよ。

これで魔力譲渡のデメリットを緩和できる。」


「譲渡の…デメリット?」


リオンは壁にもたれかかり、少し考えるように視線を逸らす。


「……同一の悪魔と譲渡を長期的に繰り返すと、精神が少しずつ蝕まれる。

魔力を吸収する側──つまり、ヒナの精神汚染が進行するってこと。

依存しやすくなったり、思考が悪魔寄りになったりとかね。」


ヒナは小瓶を握る手に、力がこもる。


「今はこの安定剤も貴重な物だし、デメリットと言ってもそこまで深刻な問題じゃない。

だから、どうしても精神的に無理だと思ったら使って。渡しとくから。」


ヒナは小さく頷きながら、手の中の小瓶を改めて見つめた。

そこにあるのは、淡い光を放つ透明な液体。

精神の安定を保つ薬──でも、それ以上に、これは”ボクが譲渡を続ける前提”で渡されたものだ。


「…ありがとうございます。」


そう言いながら、小瓶を胸の前でぎゅっと抱え込むようにする。

それでも、心の中の重たさは消えなかった。


「…本当はエリンが譲渡してくれればいいんだけどね。」


唐突に放たれたリオンの言葉に、ヒナはびくりと肩を揺らす。


「天使自身からの愛があるやつが譲渡した方が、ヒナの吸収効率もいいし、

エルフの精液は基本的には無害だ。」


ヒナはそっと視線を落とし、小瓶の中の液体を揺らす。

淡く光るそれは、手の中に収まるほど小さくて、それなのにとても大きな意味を持っている気がした。


「魔力譲渡のデメリットを緩和するには互いが愛し合えばいいらしいんだけどね。

あとは偏らないように相手の種族を変えるとかさ。

悪魔は悪魔の精液で相手に依存したくないから、その安定剤に頼り切ってる。

あとはエルフを陵辱してくるか、だね」


リオンが何気なくそう言った瞬間

ヒナはショックを受け、悲しい顔を浮かべ、エルフのことで心を痛めた

そして、それから─ヒナの思考がふっと止まった。


(愛し合うこと…?)


譲渡のデメリットを緩和する方法、それは互いに”愛し合う”こと。

けれど──


(ボクの気持ちは一方的なのに、誰と…?)


ご主人様はボクを「家族」としか見ていない。

リオンさんは、ボクのことを多分……なんとも思ってないし。


(その条件は……悲しいけれど、ボクには何も当てはまらない…)


ヒナはぎゅっと唇を噛み、視線を落とす。


「……ご主人様は……もう、ボクの頭も撫でてくれませんよ。」


ぽつりと零したその言葉に、リオンは少しだけ眉を上げた。

そして、軽く肩をすくめた。


「……あいつに構ってる暇ない。ヒナは治癒魔法だけ練習して。魔力はオレが注ぐから。」

そう言いながら、リオンはポケットに手を突っ込み、何か考えるように視線を逸らした。


──昏睡と幻覚に魔力譲渡を複数回……。

ヒナの精神状態次第では また幻覚に頼ることになる。

本当に、エリンがヤッてくれれば ここまで苦労することないんだけどな……

ヒナの治癒で使い切った魔力をあいつが注いでくれれば何も問題がないのに。


「リオンさん…」

ヒナがふいに、ぽつりと呼んだ。

「……ん?」


「おクスリのこととか……ボクのこと、気にかけてくれて……ありがとうございます。」

ヒナはどこか気まずそうに言いながら、もじもじと手を握りしめる。


「……えーと……」


少し間を置いてから、小さな声で続けた。


「ボク……リオンさんとするの……イヤじゃないです……。

嫌じゃない自分が嫌なだけで……。

今までリオンさんには沢山助けてもらって、感謝してますから……。」


言い終えた途端、ヒナの顔は真っ赤に染まった。

ふいっと視線を逸らし、頬を押さえる。


リオンはそんなヒナを見て、一瞬だけ目を細めた。

そして、薄く笑う。

「……ふぅん?」

ヒナは慌ててリオンの顔を見て、ますます顔を赤くする。

「……! も、もう……!」


リオンは肩をすくめながら、

「まあ、オレが魔力を注ぐのは必要なことだからな。お前が何を思おうが関係ない。」

と軽く言い放つ。


「……っ」

その言葉に、ヒナはなんとも言えない気持ちになった。

確かに、魔力譲渡は必要な行為。

でも、リオンはそれをただの義務のように言う。


それが、少しだけ寂しく思えた。


「……とにかく、ヒナは治癒魔法の練習しとけ。

エリンのためにも、ミアのためにも。」


リオンはそれだけ言い残し、部屋を出ていく。


ヒナは小瓶を見つめながら、静かに息を吐いた。


──譲渡のデメリット。

──譲渡への依存。


今のボクは、いったい何に依存してるんだろう。

少しずつ、分からなくなっていく自分が怖かった。



小説142話: 迷いと決意


静かな部屋の中、ヒナは手の中の小瓶をじっと見つめていた。


淡く輝く液体が、ガラスの中でゆらゆらと揺れる。

その動きを目で追いながら、

ヒナの思考は絡まり合うようにまとまらないまま、どこか遠くへ彷徨っていた。


(これって…貴重なお薬だって言ってたよね…)


リオンさんが、ボクのためにわざわざ用意してくれた薬。

精神の浄化効果があるって、魔力譲渡のデメリットを緩和できるって、そう言っていた。


(ボクのこと、心配してくれたのかな…)

その考えが浮かんだ瞬間、ヒナはぎゅっと小瓶を握りしめた。


(でも……リオンさんはやっぱり、ボクのことなんて何とも思ってない)


譲渡のことも、まるで義務みたいに言っていた。

「エリンに頼んだら?」って、当たり前みたいに言っていた。


(ボクだって、ご主人様に触れられたら…嬉しいよ、でも….)


それが叶わないのは分かってる。

だからこそ、家族としての関係をありがたく受け入れて、

ボクの恋はずっと胸にしまっておくつもりだった。


叶わない恋は、つらいけど

それでも、ご主人様が好き。どうしようもなく、大好きで……この気持ちを、無くしたくない。


(たとえつらくなっても、大好きでいたいし……好きじゃなくなるなんて、全く思えないのに)


なのに。


リオンさんが気まぐれに与えてくれる優しさとか、温もりとか。

ボクは、それに安心してしまう。


(仕方がないから、って思ってしてた譲渡なのに……)

いつの間にか、自分の中でその意味が変わり始めている気がする。


ヒナはそっと小瓶を持ち上げ、中の液体を眺めるように揺らした。

(これって……悪魔と譲渡するデメリットを緩和するお薬なんでしょ……)


(それってつまり……また、するってことだよね……)

分かっているのに、なんだか気持ちは複雑だった。


──リオンさん、なんであんなに平気な顔をしていられるんだろう……?


ボクが天使だから?

愛や温もりに惹かれてしまうのが、本能だから?

悪魔にとっては、こんなことくらい普通なのかもしれない。


──リオンさん、恋とか分かんないって言ってたっけ……。


ボクがこんなに、ご主人様のこととか、いろいろ悩んでるのも……全然わかんないのに。

それでも聞いてくれてたのかな……?


ヒナはそっと唇を噛んだ。


(温もりを求めて、与えられるものをすぐ受け取って、喜んでしまう……)

そんな自分を、どうしても受け入れられない。


(でも……考えても仕方ない)


今、ボクがやるべきことは決まっている。

魔法の練習をしなくちゃ。

それが、ボクに存在する意味を、価値を与えてくれる。


ヒナは小瓶をそっとポケットにしまい込むと、静かに決意した。

そして、一歩ずつ前へ進もうと強く心に決めた。


翌日、ヒナは魔法の練習をするために、庭へと向かった。

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