第三章 ハッキングの夜
午前三時二十一分。
海上保安庁那覇海上保安部のメインシステムが、静かに書き換えられた。
ログには何も残らなかった。侵入の痕跡が、侵入と同時に消えていった。認証は正規のアクセスコードで通過していた。システムの内側から、外側に向けて、鍵が開けられるように。
那覇の司令室で、当直の職員が異変に気づいたのは、三時四十七分だった。
モニターが黒くなっていた。
一台ではなかった。全台だった。
秋葉原のラボで、アオイが跳び起きた。
眠っていたわけではなかった。デスクに突っ伏して、うとうとしていただけだった。アラートの音で目が覚めた。
モニターを見た。
「——っ」
声にならなかった。
黒電話を取った。
「桐島さん」
那覇のビジネスホテル。桐島はすでに起きていた。ガラケーが鳴る前に、気配で目が覚めた。七年間のフィールドワークが、体に染み込んでいた。
「何時だ」
「三時五十二分です」アオイの声が硬かった。「海保、全滅です。那覇、石垣、宮古——全拠点のシステムがダウンしています。同時多発です。桐島さん——」
少し間があった。
「内部からです。認証コードが使われています。正規のアクセスです」
桐島はしばらく黙っていた。
「比嘉か」
アオイは答えなかった。
答えが、答えだった。
夜明け前。嘉手納の家。
那覇港から歩いて十分の、古い平屋だった。桐島が訪ねると、老人はすでに起きていた。縁側に座って、海の方を見ていた。
「知ってるか」桐島は言った。
「さっき電話があった。海保の若い衆から」嘉手納は振り返らなかった。「蓮のことも、わかってる」
「あんたの遠縁だと聞いた」
「ああ」老人は静かに言った。「悪い子じゃない」
「知ってる」
嘉手納はしばらく海の方を見ていた。夜明け前の空が、少しだけ白くなり始めていた。
「あの子の怒りは、俺も同じだ。基地のことも、本土のことも。俺だって怒ってる。七十年、ずっと怒ってる」
桐島は縁側の端に腰を下ろした。
「ただ——」嘉手納は言葉を切った。しばらく間があった。「俺は海を信じてる。あの子はまだ、信じるものを見つけていない。だから——つけ込まれた」
二人は、しばらく黙って夜明けを待った。
那覇のホテルのロビーに、見知らぬ男が来たのは午前九時だった。
四十代。背が高く、短く刈った黒髪。スーツは日本のものではなかった。顔立ちは日系の血が入っていることを示していたが、目の色が少し薄かった。
日本語が流暢だった。
「桐島さん。少し話せますか」
NSAの身分証を見せた。
ケビン・ナカムラだった。
ロビーの隅のソファに、二人で座った。
「協力したい」ケビンは言った。
「米国の利益のためか」
「それもある」ケビンは少し間を置いた。「でも——」
財布から、古い写真を取り出した。色あせた、小さな写真だった。
「祖父が沖縄を離れるとき、持っていったものです。那覇の港の写真です」
桐島は写真を見た。昔の那覇港だった。今とは全く違う風景だったが、海の色だけは同じだった。
「祖父の故郷でもある」ケビンは言った。「沖縄に遠縁の親族がいる」
桐島はしばらくケビンを見ていた。
「衛星を使えるか」
「使える。リアルタイムで」
「ならいい」
ケビンは少し表情を緩めた。
桐島はガラケーを取り出した。アオイへのテキストを打つ。
〈NSAと組む。衛星が使える〉
アオイからの返信。
〈わかりました。フェイクの件、続報あります。後で話します。それと——〉
少し間があった。
〈比嘉蓮、今朝から連絡が取れません〉
午前三時二十一分。
海上保安庁那覇海上保安部のメインシステムが、静かに書き換えられた。
ログには何も残らなかった。侵入の痕跡が、侵入と同時に消えていった。認証は正規のアクセスコードで通過していた。システムの内側から、外側に向けて、鍵が開けられるように。
那覇の司令室で、当直の職員が異変に気づいたのは、三時四十七分だった。
モニターが黒くなっていた。
一台ではなかった。全台だった。
秋葉原のラボで、アオイが跳び起きた。
眠っていたわけではなかった。デスクに突っ伏して、うとうとしていただけだった。アラートの音で目が覚めた。
モニターを見た。
「——っ」
声にならなかった。
黒電話を取った。
「桐島さん」
那覇のビジネスホテル。桐島はすでに起きていた。ガラケーが鳴る前に、気配で目が覚めた。七年間のフィールドワークが、体に染み込んでいた。
「何時だ」
「三時五十二分です」アオイの声が硬かった。「海保、全滅です。那覇、石垣、宮古——全拠点のシステムがダウンしています。同時多発です。桐島さん——」
少し間があった。
「内部からです。認証コードが使われています。正規のアクセスです」
桐島はしばらく黙っていた。
「比嘉か」
アオイは答えなかった。
答えが、答えだった。
夜明け前。嘉手納の家。
那覇港から歩いて十分の、古い平屋だった。桐島が訪ねると、老人はすでに起きていた。縁側に座って、海の方を見ていた。
「知ってるか」桐島は言った。
「さっき電話があった。海保の若い衆から」嘉手納は振り返らなかった。「蓮のことも、わかってる」
「あんたの遠縁だと聞いた」
「ああ」老人は静かに言った。「悪い子じゃない」
「知ってる」
嘉手納はしばらく海の方を見ていた。夜明け前の空が、少しだけ白くなり始めていた。
「あの子の怒りは、俺も同じだ。基地のことも、本土のことも。俺だって怒ってる。七十年、ずっと怒ってる」
桐島は縁側の端に腰を下ろした。
「ただ——」嘉手納は言葉を切った。しばらく間があった。「俺は海を信じてる。あの子はまだ、信じるものを見つけていない。だから——つけ込まれた」
二人は、しばらく黙って夜明けを待った。
那覇のホテルのロビーに、見知らぬ男が来たのは午前九時だった。
四十代。背が高く、短く刈った黒髪。スーツは日本のものではなかった。顔立ちは日系の血が入っていることを示していたが、目の色が少し薄かった。
日本語が流暢だった。
「桐島さん。少し話せますか」
NSAの身分証を見せた。
ケビン・ナカムラだった。
ロビーの隅のソファに、二人で座った。
「協力したい」ケビンは言った。
「米国の利益のためか」
「それもある」ケビンは少し間を置いた。「でも——」
財布から、古い写真を取り出した。色あせた、小さな写真だった。
「祖父が沖縄を離れるとき、持っていったものです。那覇の港の写真です」
桐島は写真を見た。昔の那覇港だった。今とは全く違う風景だったが、海の色だけは同じだった。
「祖父の故郷でもある」ケビンは言った。「沖縄に遠縁の親族がいる」
桐島はしばらくケビンを見ていた。
「衛星を使えるか」
「使える。リアルタイムで」
「ならいい」
ケビンは少し表情を緩めた。
桐島はガラケーを取り出した。アオイへのテキストを打つ。
〈NSAと組む。衛星が使える〉
アオイからの返信。
〈わかりました。フェイクの件、続報あります。後で話します。それと——〉
少し間があった。
〈比嘉蓮、今朝から連絡が取れません〉
第四章 地球は誰のものかに続く




