45-2話
姫香はメールの送り主に向かって手を振った。
相手も手を振り返し、足を速めた。
「此花センパ……、此花さん。待たせてごめんなさい」
その声はジングウそのものだった。少し、緊張した。
「大丈夫よ。部長と話していたから」
純子が肩を叩き、耳元に顔を寄せる。
「だれ?」
姫香が応じるより先に、ジングウ似の彼女が口を利いた。
「初めまして、神宮寺ヒロミです。工学部の院生です」
「院生……、どうも、私、法学部4年の……」
純子は驚いた様子で自己紹介すると、姫香とヒロミはどういう関係か訊いた。
「あの事件で奈良にいた時、向こうで知り合ったの」
姫香が答えると、ヒロミが付け加える。
「私、鏑矢教授のところにいるので、助手として同行していたのよ」
「そうだったのね。あの時は、ウチの学生も1人亡くなって……」純子が明るいキャンパスに視線を走らせた。「……もう、みんな忘れてしまったみたいだけど」
ヒロミの顔から表情が消えていた。彼女は飲み物を買うために店内に入った。
――カランコロン……、4限の講義を知らせるチャイムが鳴る。
「いけない、私、家庭教師のバイトがあるのよ。そろそろ行かなくちゃ」
立ちかけた純子が腰を下ろし、残ったレモネードソーダをズズーと音を立てて飲んだ。
「そうだ。私、今月で家庭教師を止めるのよ。真剣に司法試験に取り組もうと思って。で、後釜を探しているんだけど、ヒメ、やらない? 私の胸ばかり見てくる馬鹿な中学生なのよ。オカズにされているかもと思うとキモイけど、医者の息子だから実入りはいいわよ」
「私ですか?」
実入りがいいというのに魅かれた。キモイ男子中学生というのは引っかかるけれど、夏休み以前の生理的拒否絶感はなかった。比呂彦や神野とホテル暮らしをして、男性というものの認識が変わったのに違いない。
「アッ、ヒメ、男子はダメだったわね。ゴメン」
純子が立ち上がる。
「いえ、やらせてもらいます」
姫香は声をあげていた。
「そう? よかった。男性はヒロ君以外ダメだと思ったから」
「少しだけ、大丈夫になったみたいです」
「奈良で大人になったのね」
彼女が目尻を下げた。
「部長、嫌らしいことを考えたでしょう。そんなことはしてないですからね」
「そうなのぉ。すればよかったのにぃ」
彼女は更に目尻を下げ、「後でメールするわ」と言って去った。
手にピーチソーダを手にしたヒロミが戻ってきて頭を下げた。彼女は聴力がいいのか、読唇術でも使うのか、純子とのやり取りを知っていた。
「ごめんなさい。ボクのせいで嫌な思いをさせたね」
「やめて、ボクだなんて」
思わず笑った。懐かしい思いがあふれて目尻に涙が浮いた。
「あ、そうか、つい、以前の感覚で」
彼女も笑った。
「でも驚いたわ。まさかヒロ君がジングウになっているなんて。……どうしてそうなったわけ?」
「オオナムチが、ボク、いえ、私の記憶チップをジングウの物と交換したのです。ジングウの人格はボク、いえ、私のものに書き換えられていたから、記憶チップを差し替えただけで、この身体がボク、いや、私になったのです。でも、自分の姿を受け入れるまで、二日かかりました」
「それで、心はヒロ君で、身体はジングウになったわけね」
姫香は彼の瞳を覗き込んだ。それは揺れてないから、嘘を言っていないだろうと思った。
「髪型は変えられるとして、瞳はコンタクト? ジングウは真っ黒だったと思うけど」
「眼球には色々な機能があるのです。赤外線や紫外線も見ることができるし、望遠機能もあります」
「それで色も替えられるの?」
「様々な人種の中に溶け込むのに、瞳は重要ですから」
「ブルーやグリーンにも変えられるの?」
「はい、こんな風に……」
メガネの向こうの瞳が青色に変わり、碧色に変わり、赤色に変わった。
「キャッ」
小さな悲鳴が漏れた。赤色の瞳の人間はアニメの中でしか見たことがない。
「脅かしてごめんなさい」
ヒロミの瞳がブラウンに戻った。もし彼女の瞳が黒かったら、部長は彼女が比呂彦にそっくりだと気づいただろうと思った。




