その3
王の花園。
王家の血筋のもの以外には開かれない扉のその先にある。
鍵は代々王に戴冠の証として宝冠と共に神器として受け継がれ、門外不出。
王本人の目にも、儀式の時以外に触れることがない。
だが、神器の神威を貶めないために持ち出されることは無く、本当に使用できるものかどうかは不明である。
――花園は時に隠語として後宮を指し示す。
王が持つ庭には、絢爛豪華な花が咲くが、それを王以外が愛でることを許さない。
しかし、王は、王である限り常に国家のために王でなければならない。
例え、王以外が愛でることを許されない後宮ですら、子孫繁栄が目的で、王族のためであり果ては国家存続の重要な道具となる。
決して、王は公的な部分から逸脱できない。
そんな、王であることを片時も止められない王が、私的に有する事が許される【王の花園】は、ただひとつの持ち物と言われる。それだけが自由の証。
その自由さえも誰かに捧げる時、それは、生涯をその者に賭し、与えるという意味すらも持ち合わせる…
アンリエッタは扉を開けて、息を呑んだ。
一面が、花畑だった。
扉を開けた瞬間から香る、きつくもなく、かすかでもない、しっかりとした花の芳香。
その香りに誘われるままにアンリエッタは中に入る。そしてアンリエッタの気付かないうちにひとりでに背後の扉は閉まった。
―――初めて見た扉の中は、本当に庭が広がっていた。それも、花が咲き乱れる、花園が。
扉の前から続く小さな小道が作られている以外はどこまでも花に埋め尽くされている。
それも、季節を問わず様々なものが。
チューリップが咲いていれば向こうにはツバキの木から赤い花弁が降り注いでる。
小道にはみ出し地を這うように咲くツルバラを踏みつけないように、奥へアンリエッタは向かう。殆ど方向に関しては無意識に歩いていた。
奥行きが見えないその空間はただ上だけは青い空が広がっているのがわかった。
それ以外は一面の花。
どこまでこの花畑は続いているのだろう?そんな疑問が浮かんだ頃、目の前に煙突のついた小さな家が見えた。
小さなレンガ造りの家で、見た目には頑丈そうである。アンリエッタは恐る恐るそれに近付く。煙突からは暖炉を燃やしているらしい煙も上がっている。
『こんな空間に…家?それに誰かが住んでるなんて信じられない。』
すると、家の周りに生えている木の下に人影が見えた。スラリとした体躯の陰が寝転がっている。
そこからは芝生が広がっていたので、踏みつける花に厭うことなくアンリエッタは迷わず駆け出した。
「…殿下!どうしてこんなところにいらっしゃるんですか!」
そこに寝っ転がっていたのは正真正銘のジェイド第二王子だった。
ぐっすりと眠っていたのか、大声を出されてもまだうつろな目で、誰がいるのか気付いていないようだ。
アンリエッタは傍らに座り、ユサユサとジェイドを揺さぶる。
「殿下殿下!皆殿下を探して困っていらっしゃるんですよ!?早く此処から出ましょう!」
「…アンリ…エッタ?」
ようやく目を覚ましたジェイドの呟きがアンリエッタの耳元にまで届く。
「さあ目を覚まされたなら早くここから出ましょう。」
「…やだ。」
「は…?」
またしても子どもっぽい拒否をされる。アンリエッタはこんな摩訶不思議空間にいながら帰りたくないといわれるとは思っていなかったので衝撃を受ける。
「アン、もうちょっとここにいよう。」
「え?」
「朝議なんて出てても意味ないから。それよりここで寝てるほうが随分気持ちがいい。
この外の世界に出て行って、世事に煩わされて精神を摩耗させるのはこりごりだ。」
「殿下…」
ここに勇んでやってきたとき、アンリエッタはいつものように怒鳴ってでもこの王子を連れ戻そうと考えていた。
けれど、二の句を継ごうとしても、綿のような雲がすいすいっと流れる空の下、
適度に日陰が出来た木の傍で、風と共に漂ってくる花々の香りにどんどんいつもの思考能力が奪われていくようで王子の我侭発言もつい許容してしまいそうになる。
……つまりはアンリエッタもこの場所にもう少しいたいと思っていた。
先ほどの語気とは打って変わって、ちょこんと横に座ったまま動こうとしないアンリエッタを見て、ジェイドは余人には滅多に見せない天使の美貌と揶揄される所以の笑顔を見せた。
「アンもおんなじで、ここから出たくないんだ。」
「朝議に出席なさらない事は大変由々しき事態ではありますが、
…今日だけはお許しします。こんな変な所に来たのも乗りかかった船ですし、私もお供してもよろしいですね?」
「勿論、大歓迎だ。」
ニコニコとジェイドは微笑みながら、やはり芝生に寝転がって空を見上げている。
さすがにアンリエッタまで寝転がる気にはなれなかったので、膝を抱えて座りながら、同じく空を見上げた。
ほんのわずかなスペースの箱庭とは思えないほど広大に広がるその空は、果てなくどこまでも続いている。
ゆっくりと流れる雲が柔らかく青を侵食している様子や、時折サーッと吹く風が耳に心地よかった。
暫く二人の間には沈黙が続いた。
けれど、決して居心地の悪い間ではなくむしろ二人は沈黙することによって空間の変化を楽しんでいた。
それをあえてジェイドは破った。
「俺はずっと昔からこんな誰もいない綺麗な空間に漂っていたかった。ほんの幼い頃から俺には行き場がなかった。
いつも追いかけられて追いかけられて、行き止まりになったらそこで終わりだった。
そして連れ戻されて椅子に座らされて身動きをとれなくされる。」
ポツリポツリとジェイドは言葉と言葉を繋ぐようにして話し始めた。
風が木々の間をサアアっと音を立てて通り過ぎて揺れた。木の葉のすれる音がさざなみのように連なってゆく。
アンリエッタは敢えて横をみることなく、前を見据えながらその言葉を聞いていた。
「俺はずっと一人ぽっちだった。
第二王子という肩書きだけが一人歩きして、ジェイドという名前を呼ぶ人間は家族以外にはいなくなった。
家族といったら聞こえは良いけれど、母も父も、兄も、皆王族という肩書きに縛られている。
だから、ごく一般的な家族の繋がりなんてない。全てが儀礼と形式の網目の中に押し込まれる。
そんな中、アンはどこの家庭でも毎朝繰り広げられているように、いつも問答無用で俺を叩き起こしてくれている。
ほんの少しだけでも、俺に、当たり前の風景を見させてくれる。
でも、君が来る前、俺は別の女官に起こされていから…誰も俺を揺り起こすなんてしてくれなかった。」
アンリエッタは、自分以外の女官がいつも今か今かと王子が起きるのを待っているのを知っている。
王族の御身に許しなく触れるのは、最悪不敬罪にあたる。寝坊王子様を叩き起こす女官がいるほうが不思議なのだ。
「そして、朝議に間に合うか合わないかの瀬戸際になってやっとカーテンを開ける。
そして眩しさで目が覚めた俺に対して
『おはようございます、ジェイド第二王子。御気分よろしゅうございますか?』とやっと声を掛ける。
あくまで俺には触れずに、ただ、成り行きのように彼女らは俺を扱った。」
「…けれど、彼女達は不敬罪を恐れていたのでしょう。
あなたがどれほど寝ぼすけとはいえ、王家の中枢を担う御方。
あなたの一声があれば、彼女達が断頭台の露となって消える事など造作もありません。
だから彼女達はあなたに触れることを恐れて、不興を買うことを全力で回避しただけ。
私のように、あなたを恐れず更には乱暴に扱う女官がいないことの方が普通なんです。」
つい、反論する。けれど、ジェイドは自嘲気味に笑った。
「でも、彼女たちが何を思っているかぐらいは知ってるさ。
女官という地位は、後宮が開かれた時に一番主との距離が近い官職で、しかも貴族の娘が働いている。
皆が皆俺の食指が伸びれば簡単になびく位置にいる。
そんな彼女達が俺に色仕掛けをしてこなかった事があるとでも、アンは思っているのか?」
強い口調だったので、アンは首を横に振るしかなかった。現に、女官が王子に迫っている風景は幾度となく見ていた。
「彼女達は皆、不敬を怖れながら、ずっと俺の妻となることを、愛人になることを期待している。
不興を買うことを、触れることさえも恐れるのに、触れらることを望み、あまつさえ俺の家族になりたいとさえ願っているんだ。
誰も、俺個人を見ていない。『ジェイド』なんて人間がまるでこの世にいないように思う。」
いつも、飄々として掴み所のない第二王子が、珍しく本音を吐いていた。
痛いほどの、苦しみの積み重なった。
「でも、俺はもうこんな不毛なことが続くのが嫌だったから、
ずっと王位継承権を返上したいと願ってきた。俺には兄がいる。だからこその第二王子だ。
一がちゃんと健在なのに、ニがでしゃばる幕などいらぬはず。
けれど情勢が許さない。兄の対抗馬である俺がいなくなればこの国はバランスを確実に失う。
…絶対に逃れられない椅子に俺は座らされ続けている。生まれてから今まで、ずっと。きっとこれからも。」
日常で、こんな王子は見たことがなかった。
否、王子に本音を吐かせてあげる機会をこの4年もの間一度もあげられなかった。
二人の王子は、二つの大国の情勢にもまれて、絶対に降りられない地位に座らされ続けている。
そして、この事柄は暗黙の了解であって、誰も決して口に出しはしない。
だから、王子たちも自らの口の端にはのせられなかった。
アンリエッタが深刻な様子で構えているのを見て、ジェイドははにかんだ。
「…すまない、こんな話をして。アンを困らせるつもりはなかった。
ただ、この花園は、誰にも邪魔されないから、どうしても話しておきたかった。」
「い、いえ!困ってなどいません。
殿下も愚痴がいえてすっきりなさったでしょうし、私も殿下の普段はなさらないお顔を見させていただいて良かったです…
でもよろしかったのですか?私みたいなただの女官になどこんな大事なお話をなさって…」
アンリエッタはただ単に謙遜していったつもりだったのだが、何故だかジェイドは機嫌よかった表情を突如憮然とさせて、ツーンと拗ねたように向こうをむいて呟いた。
「アンに話したかったからアンに話したんだ。」
「は、はあ…」
相も変わらずジェイドの怒る理由がわからない。
すると横で寝転がっていたはずのジェイドが突然起き上がって、座っていたアンリエッタの腕を引く。
そして立ち上がらせて一言
「連れて行かせたいところがある。」
そうボソッと呟いて走り出した。腕を引かれたまま、つられてアンリエッタも走り出す。
「と、突然なんなんですか!」
「いいじゃないか。黙ってついてきてほしい。」
思いがけない真摯な頼みに、手をつないだままついて行く。
前を見据えるが、不思議な魔法空間は延々と続いている。
季節の移り変わりを無視した花々だけが、地面に千代に咲き乱れている。
この地がどこへつながっているのか。予想もつかなかった。
しばらく大人しく連れられていたアンリエッタだったが、突然ジェイドの動きが止まり、手もほどかれた。
アンリエッタは、花を踏み潰してしまうと思ったが、地面はいつの間にかただの芝生になっていた。
周りは相変わらず季節を問わず咲き乱れる花畑に囲まれていたが、その一部分だけが芝生だった。
ほんの僅かなスペースだったが、あのレンガ造りの小屋以来の芝生が生えた箇所だったのでアンリエッタは驚いた。
「ここは、なんなのです?」
「ここは…陛下の大切な場所だ。」
いつもへらへらしているジェイドの顔が引き締まって精悍な顔つきに変わっている。
アンリエッタはジェイドに気付かれないように、小さく息を呑んだ。
もしかすると、この王子は、おそろしく知能的で冷静な王になるかもしれないという、あてもない先が見えたからだった…
そんなアンリエッタの躊躇いをよそに、ジェイドは淡々と話し出した。
「陛下が30年近く前に、枯れるまで涙を流した場所だ。
「陛下が?」
たまにアンリエッタはジェイドの母親である女王に見えることがあった。
けれど、既に50近くになってはいるものの、20を超える息子が二人いるとは思えないほど若々しく、そして為政者らしい常人には持ちえない威厳を兼ね備えた女王が
こんな人気のない場所で延々と涙が枯れるまで泣き続ける様子は想像できなかった。
驚いているさなか、ジェイドが歩を進めたのでアンリエッタもそれに従う。
再び歩みを止めた所には、小さな墓石が立っていた。
名も刻まれぬ、小さな、王族には相応しくないものだった。その前にはカラーのような白い花が何本か置かれている。つい最近摘まれて置かれたもののようだった。
「陛下は30年近く前、意に染まぬ結婚を強いられた。まだ10代の中ごろだったと聞く。
その当時、陛下の王位継承権は低かった。先王陛下も御存命で、王太子もいた。
誰もが陛下の王位継承は思ってもいなかった。
だからこそ、権力を掌握したかった母方の祖母は、より強い権力を得るための縁談を探した。
それが『和国』皇帝の第一夫人だった。
当時陛下には恋人がいた。とある高位の貴族の令息だったらしい。
彼とは深い仲で、王位継承には縁がないとおもっていた陛下は、きっとその彼の元に降嫁して臣籍に下る事が出来ると思っていたんだろう。
皇帝との縁談がまとまった直後に、陛下の懐妊が判明したんだ…」
「懐妊!?」
アンリエッタは心底驚いた。
二人の王子の前に、まさかあの女王に子どもがいたとはついぞ耳にしたことがなかった。
そしてアンリエッタは密かに背中に流れる冷や汗を感じていた。
ジェイドが喋っている話は、最早国家機密ともいうべきことだということに…
ジェイドは苦々しげな表情を浮かべて話を再開した。
「陛下の懐妊はあっという間に俺の祖母に伝わった。
俺の祖母は先々王の正妻の娘で、側室との間に生まれた当時の先王に並々ならぬ敵愾心があったらしい。
そのために、陛下とその恋人だった貴族の令息は強制的に別れさせられ、おなかにいた子どもも…堕胎させた。」
堕胎という言葉にアンリエッタは息を呑んだ。
そしてその言葉で、此処につれてこられた意味を全て理解した―――
「堕胎されて、ここに埋められたらしい。
それから、強いられた『和国』との縁談も呑み、壊滅状態に陥った王家に復帰する時に提示された条件も全て受け入れた。
王になる事を選んだんだ、王になる為に殺された自分の子どもに報いるために。
でも、陛下は王になりたくてなったわけではない。
だから、陛下はいつも誰にも邪魔されないここに来て、王になるための決意をした子どもの墓石を見て、王ではない自分がちゃんと存在していることを確認するんだ。
…それは、ここしか居場所がなかった歴代の王も同じ思いだっただろうと、陛下は仰ったよ。」
「…では、殿下も、そうなのですか?」
なんとなくアンリエッタは問いかけたつもりだったが、目に見えてジェイドは表情を固まらせた。
予期せぬ質問だったらしい。それでもジェイドは多少考えたのち、言葉にした。
「俺は、まだ自分を失ってない。陛下と違って、花園以外にも拠り所がある。
君みたいに、朝に叩き起こしてくれる人もいる。…まだ、俺は自分でいられる。」
ポツリと最後に呟かれた言葉は、将来自分が自分でいられなくなることをわかっているようだった。
アンリエッタは急に、この箱庭のような花園に侵入してしまったことを後悔した。
可哀想な人間達の、唯一自由になれる最後の砦の中に何の関係もない自分が土足であがってしまったのだ。
アンリエッタの瞳からポロポロと大粒の涙が落ちた。
「も、申し訳ありません…殿下。わたしのような、何も知らない人間がこ、こんな大切な場所へ来てしまって…」
突然泣き始めたためかジェイドはぎょっとした表情をみせたが、すぐさま、理由を察知したのか、両手で顔を塞ぐアンリエッタの頭を抱いて、子どもにするように撫でた。
「いいんだ。俺はアンにこの庭に入ってきて欲しかったんだ。だから、鍵を渡したんだ。
この庭と、アンは、俺の拠り所だ。アンには傍にいて欲しい…」
優しく風に乗るように囁かれたジェイドの言葉は、さざなみのようにアンリエッタの胸に押し寄せてきた。
アンリエッタはますます涙をとめることが出来なくて、とうとうジェイドの胸に抱かれる形で泣き付いていた―――
そんな一件があったにもかかわらず。朝は必ず毎日やってくる。
その日もジェイドは寝坊していた。
朝議まで後30分。その前の晩、ジェイドが無理矢理ギルバートを私室に招き入れチェスをやりつづけ、あげく徹夜したということをアンリエッタは知っていた。
軍と第二王子秘書官を兼務しているギルバートが、真赤に目をはらしたまま軍の早朝練習に向かったのをアンリエッタは心から同情して見送った。
それにくらべ、ギルバートよりも2時間以上もベッドにしがみついているジェイドは大変寝汚かった。
アンリエッタはズカズカと女官なら誰もが守るべき『貴人がいらっしゃる部屋では足音を立てない』という鉄則をぶち破り、ジェイドの寝室に入る。
そして迷いなくキングサイズのベッドの端っこに、みすぼらしささえ感じるぐらい丸く小さくなって寝ているまるで猫のようなジェイドを発見し、大変満足そうに抱きしめている掛け布団に手を掛けた。
そこに一瞬の躊躇いすらなかった。そして大声で耳元に向かって叫ぶ。
「殿下!!いつまで寝てる気ですか、この寝ぼすけ大魔王!!!」
「…あと2時間。いや、せめて3時間寝かせ…」
「問答無用ーー!!」
―――相変わらずのやり取りはその日もまた繰り広げられていたという…
というわけでたった3話で終了です。
これがメイド~につながってくるんですか?と疑問があるでしょうが、大丈夫です、つなげてみせます!(ぇぇぇ
というわけで、お次の更新はメイドです。いつになるかはわかりませんが…(ぉぃ