Episode 4: 再会のディナー
このエピソードの登場人物
田所健一(Kenichi Tadokoro)
伝説の映画監督シュパイガー作品で一度だけ主演を務めた元俳優。AIサミットで大役の基調講演を無事に終えたものの、その直後にはいつも通り妻・カヨの巨大な影のど真ん中へと戻っていく。
田所カヨ(Kayo Tadokoro)
健一の妻であり、ハリウッド業界では伝説的な裏方の大物。圧倒的な威圧感を持つ冷徹な管理者で、その存在感は普段は攻撃的なビバリーヒルズのパパラッチですら本能的に一歩後ずさりさせる。
田所トシキ(Toshiki Tadokoro)
健一と佳代の息子。東京大学に通う秀才。母親の完璧な管理能力を心から尊敬している一方で、父親が永遠に背景キャラ扱いされる状況を密かに楽しんでいる。
シンディ・ゴールドバーグ(Cindy Goldberg)
トシキの恋人で東京大学に通う留学生。生粋のロサンゼルスっ子であり、大好きなトシキをついに自分の地元コミュニティへ連れて来られたことに大興奮している。
スティーブン・シュピーガー(Steven Schpieger)
数々のアカデミー賞を受賞した伝説的映画監督。世界最高峰の映画人の一人であり、「カヨが同じ部屋にいるなら本当のボスはカヨである」という事実を誰よりも理解している。
(※スティーブン・スピルバーグではありません。)
エマ、ルピタ、ジェマ、ソフィア
ハリウッドを代表するトップ女優たち。カヨメソッドの熱狂的信奉者であり、カヨの言葉を絶対不変の法則として扱っている。
2027年ハリウッドAIサミットは、いよいよ閉幕を迎えようとしていた。
健一の基調講演は何ひとつ問題なく終了した。大きな失敗もなく、技術的トラブルもなく、最初から最後まで完璧に進行した。
カヨ
「お疲れさま。」
ステージを降りた瞬間、カヨは冷えたミネラルウォーターのボトルを健一へ差し出した。
健一
「ありがとう……ずっと心拍数がおかしかった気がするよ。」
カヨ
「その数値は重要ではありません。講演結果は十分に良好でした。」
健一
「そういうものかな。」
健一はゆっくりと水を飲んだ。
講演内容そのものは特別革新的なものではなかった。デジタル・ゴーストの開発、効率的なプロンプト設計、映像制作における生成AIの活用戦略。業界標準から大きく外れた話はしていない。
だが聴衆の反応は健一の予想を大きく上回っていた。
質疑応答は予定時間を大幅に超過し、パネル終了後も参加者たちが次々と彼のもとへ集まってきた。
参加者A
「田所さん!素晴らしいプレゼンテーションでした!」
参加者B
「ぜひ連絡先を交換させてください!」
気がつけば健一は延々と名刺を配り続けていた。
その時、トシキとシンディが人混みをかき分けながらやって来る。
トシキ
「お疲れ、父さん。」
健一
「ありがとう。」
トシキ
「でも正直に言うと――」
トシキは会場出口の方へ視線を向けた。
トシキ
「一番人が集まってるのは完全に母さんの方だけどね。」
健一
「だろうね……。」
健一はため息をついた。
予想通り、カヨの周囲には映画プロデューサーや業界幹部たちが集まり、大渋滞が発生していた。
プロデューサー
「まさか本当にあのカヨさんですか?伝説のライフスタイル設計者だとか!」
カヨ
「私は専門家ではありません。ただの妻です。」
プロデューサー
「ですが業界では、大規模なハリウッド撮影現場の運営を立て直したと――」
カヨ
「夫の血圧データを管理していただけです。」
カヨは淡々と答えた。
さすがの彼女でも、この規模の積極的な人脈営業を処理するのは若干大変そうに見えた。
その時、健一のスマートフォンが震えた。
健一
「もしもし?」
シュピーガー
「健一!最高のスピーチだったぞ!」
シュピーガーの豪快な声がスピーカーから響く。
健一
「ありがとうございます、スティーブン。」
シュピーガー
「今夜は祝杯だ!ディナーを手配してある。個室を押さえたぞ。」
健一
「それは光栄です。」
シュピーガー
「もちろんカヨも連れて来い。それからトシキもだ。東京で会った時から何インチ伸びたのか直接確認したい。」
健一
「わかりました。七時ですね?」
シュピーガー
「19時ちょうどだ。すぐに座標を送る。」
電話は切れた。
健一はカヨへ向き直る。
健一
「今夜、スティーブンがディナーを開いてくれるそうだ。」
カヨ
「そうですか。」
カヨは静かにうなずいた。
トシキ
「え、僕も参加人数に含まれてるの?」
健一
「ああ。身長を確認したいらしい。」
トシキ
「どういう理屈なんだよ、それ。」
シンディが勢いよく手を挙げた。
シンディ
「私は参加できるの!?」
健一
「もちろん。」
健一は微笑んだ。
健一
「正式に紹介するよ。」
シンディ
「やったー!」
シンディは今にも飛び跳ねそうだった。
19:00 ビバリーヒルズ
会場は The Ivy。
セレブや富裕層が集まることで有名な高級レストランだった。
彼らを乗せたUberが店の前に停車した瞬間、
パパラッチの群れが一斉に車へ押し寄せた。
健一
「すごい人だな……。」
健一の首筋にじんわり汗がにじむ。
しかしカヨは無反応だった。
激しいフラッシュの嵐にも動じることなく、まるで何もない廊下を歩いているかのようにレストランへ向かう。
トシキとシンディも、その後ろをやや緊張した様子で続いた。
個室へ入ると、すでにシュピーガーが待っていた。
シュピーガー
「健一!」
力強い握手が交わされる。
健一
「またお会いできて嬉しいです。」
シュピーガー
「こちらこそだ!」
そして彼の視線がカヨを捉えた瞬間、その態度がわずかに変化した。
シュピーガー
「そしてカヨ!本物のボスのお出ましだ!」
カヨ
「こんばんは、シュピーガー監督。」
シュピーガー
「相変わらず完璧だな。」
続いてトシキを見る。
シュピーガー
「見違えたぞ!成長率が素晴らしい!」
トシキ
「ご無沙汰しております。」
そして最後にシンディへ視線を向けた。
シュピーガー
「こちらのお嬢さんは?」
トシキ
「僕の恋人です。シンディといいます。」
珍しく少し誇らしげにトシキが答える。
シュピーガー
「ゴールドバーグ?ロサンゼルス出身か?」
シンディ
「はい!」
シュピーガー
「素晴らしい。歓迎するよ。」
全員が席に着いた――その瞬間だった。
バン!
個室の扉が勢いよく開く。
エマ
「カヨ!! 今夜はまともな環境で会えて本当によかった!!」
エマは誘導ミサイルのような勢いで個室へ飛び込んできた。
そのすぐ後ろにはルピタ、ジェマ、ソフィアが続いている。
昨夜のダルマ・ビーンズで見せていた表情に比べると、三人とも明らかに生気を取り戻していた。
カヨ
「エマ。昨夜のイベントによる認知機能への影響は回復したようですね。」
エマ
「ギリギリよ! あの歌うカップラーメンの詩を聞いてる間、私の脳細胞はグチャグチャだったんだから! シュピーガーがカヨの居場所を突き止めて、このディナーに呼んでくれなかったら、今でも脳内カオスの真っ最中だったわ!」
シュピーガー
「彼女たちの参加は私が許可した。」
シュピーガーは笑って言った。
シュピーガー
「君たちが昨夜巻き込まれた件を考えればな。カヨ。彼女たちには、ちゃんとしたステーキと文明社会への帰還措置が必要だと思ったんだ。」
再び笑いが起こる。
そして数秒も経たないうちに、四人の女優たちはカヨの周囲へ集結し、いつもの強固な包囲網を再構築した。
健一
「……いつもの配置だな。」
健一は遠くのフォークをぼんやり見つめながらため息をついた。
トシキ
「父さん、まだこのパターンに慣れてないの?」
健一
「慣れてはいる。ただ好きじゃない。」
シンディの目は完全に輝いていた。
シンディ
「カヨさんの文化的影響力って本当に天文学的だわ……!」
健一
「まったくだよ。」
健一はグラスの水に向かって小さくつぶやいた。
料理は素晴らしかった。
だが会話の中心は完全にカヨだった。
エマ
「カヨが作ってくれたスケジュール、今でも毎日完璧に守ってるわ!」
カヨ
「結果が良好なら継続すべきです。」
ルピタ
「東京で教えてもらったマインドフルネス、毎朝欠かさず続けてるの!」
カヨ
「継続こそ最重要の変数です。」
カヨは相変わらず落ち着いていた。
健一は黙々とステーキを切り分ける。
その隣では世界的スターたちが妻を精神的指導者のように扱っていた。
シュピーガーは健一へ顔を向けた。表情は妙に真剣だった。
シュピーガー
「健一。君の奥さんは人類工学の奇跡だ。」
健一
「……それは知っています。」
トシキは吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
トシキ
「前向きに考えようよ、父さん。世界的スターたちが田所家の家庭運営システムの有効性を実証してくれてるんだから。」
健一
「黙れ。」
デザートが運ばれてきた頃、エマがテーブル越しにカヨへ身を乗り出した。
エマ
「カヨ、ロサンゼルスにはあとどれくらいいる予定?」
カヨ
「およそ七日です。」
エマ
「帰る前に少し時間をもらえない?」
カヨ
「目的は?」
エマ
「どうしても会ってほしい人がいるの。」
カヨ
「誰ですか。」
エマの表情がわずかに曇った。
エマ
「私の友人よ……正直に言うと、かなり危険な状態なの。」
カヨ
「危険?」
エマ
「精神的に完全に追い詰められてる。正直……彼女を助けられる人はカヨしかいないと思う。」
カヨは数秒考えた。
まるで短い計算を行うような沈黙だった。
そして静かにうなずく。
カヨ
「わかりました。予定を調整してください。」
エマ
「ありがとう、佳代。本当にありがとう。」
そのやり取りを見ながら、健一はケーキを一口食べた。
(また佳代の伝説レベルが上がりそうだな……)
そう思わずにはいられなかった。
レストランを出た瞬間だった。
パパラッチA
「シュピーガー監督!こちらをお願いします!」
フラッシュが一斉に炸裂する。
だが数秒後には、カメラの向きが変わっていた。
パパラッチB
「監督の隣にいる女性は誰だ!?」
パパラッチC
「新作映画の主演女優か!?」
狙われているのはカヨだった。
激しいフラッシュが降り注いでいるにもかかわらず、カヨは何事もないように歩き続ける。
まるで誰もいない廊下を移動しているかのようだった。
その少し後ろを健一とトシキが歩く。
トシキ
「母さん、明日の朝には世界トレンド入りしてるんじゃない?」
健一
「間違いないな。」
トシキ
「高確率で僕たちは写真から切り取られるか、『正体不明の同行者』扱いだと思う。」
健一
「視認性という点では完璧な敗北だな。」
健一はため息をつきながら腕時計を確認した。
ホテルへ戻った頃には、すっかり夜も更けていた。
部屋へ入るなり、健一はベッドへうつ伏せに倒れ込む。
健一
「今日は情報量が多すぎた……」
カヨはベッドの端へ腰掛けると、バッグから血圧計を取り出した。
カヨ
「腕を出してください。診断を開始します。」
健一
「はいはい。」
カヨ
「正しい返答は『はい』です。『はいはい』ではありません。」
健一
「はい、わかりました。」
健一は素直に腕を差し出した。
血圧計が静かな作動音を立てながら膨らんでいく。数秒後、電子音が鳴った。
カヨ
「142の88。許容範囲内です。」
健一
「それはよかった。」
カヨは血圧計を片付けながら、落ち着いた口調で言った。
カヨ
「今週中に、エマの友人と会う約束をしました。」
健一
「夕食のときに聞いてたよ。」
カヨはわずかに視線を落とした。
ほんの一瞬だけだったが、普段揺らぐことのない自信に小さな影が差したように見えた。
カヨ
「事前情報によると、かなり深刻な状態らしいです。」
健一
「そんな感じだったな。」
カヨ
「正直に言えば……私のやり方が通用するかどうか、確信が持てません。」
健一は枕に顔を埋めたまま、妻を見上げた。
健一
「大丈夫だろ。」
佳代
「根拠のある予測ですか?」
健一
「もし壊れたハリウッドスターを立て直せる人間が地球上に一人いるとしたら――」
健一はカヨをまっすぐ見た。
健一
「たぶん、それは君だ。」
カヨの表情に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。本当に珍しいことだった。
カヨ
「最近、あなたの協力度はかなり向上していますね。」
健一
「そうか?」
カヨ
「昔なら、急な予定変更に対して最低でも三回は文句を言っていました。」
健一
「単純に年を取っただけかもな。」
カヨ
「その条件は私にも適用されます。」
カヨはベッドサイドの照明を消した。
部屋が静かな闇に包まれる。
カヨ
「おやすみなさい。」
健一
「おやすみ。」
翌朝。
まるで警報機のような甲高い悲鳴が響いた。
シンディ
「きゃあああああっ!!」
健一
「何事だ?」
トシキもノートパソコンから顔を上げる。
シンディはスマートフォンを握りしめたまま飛び跳ねていた。
シンディ
「エイミーよ!」
トシキ
「エイミー?」
シンディ
「高校時代からの親友!」
トシキ
「へえ。」
シンディ
「私がロサンゼルスにいるって気付いて連絡してきたの!」
トシキ
「なるほど。」
シンディ
「今すぐ会いたいって!」
トシキは少し目を細めた。
なにか嫌な予感がした。
トシキ
「どんな人なんだ?」
シンディの笑顔がさらに大きくなる。
シンディ
「常にフルパワー!」
トシキ
「そう。」
シンディ
「いつでも100%全開!」
トシキ
「なるほど。」
シンディ
「ブレーキペダルなんて最初から付いてないの!」
トシキ
「……」
シンディ
「世界一カオスで面白い人!」
トシキの背筋を冷たいものが走った。
(変なカフェ、歌うカップラーメン、そして今度は全力娘か……)
嫌な予感しかしない。
(この旅行、いったいどこへ向かってるんだ……?)
こうして、田所家のロサンゼルス滞在は新たな局面へ突入しようとしていた。




