Episode 22:メフィ
キャラクター紹介 ― エピソード22
【主要キャラクター】
サーシャ・カラマゾヴァ
肩書き: カラマゾヴァ家の末娘/敬虔な心
概要: 深い信仰心と、人の痛みに寄り添う大きな共感力を持つ敬虔なカトリック教徒。グレッチェンが助けを求めれば、ためらうことなく手を差し伸べる。手にしているのは優しい忍耐力と銀の十字架、そして高位の悪魔を前にしてもまったく怯えない心だけ。
グレッチェン
肩書き: ゲーテの『フォースト』を研究する大学院生
概要: 前回の調査以来、精神状態はわずかに安定してきたものの、いまだに消えない存在に悩まされている。その存在とどう付き合っていけばいいのかを模索する中、サーシャに支えを求める。
メフィストフェレス(「メフィ」)
肩書き: 古代の大悪魔
概要: 最近の出来事によって、その力を大幅に削がれてしまった古代の存在。もはや大規模な怪異を引き起こすことはできないものの、暗い隅に居座り続けている。聖水、教会建築、そして妙に礼儀正しい少女たちを心底嫌っている。
シンディ・ゴールドバーグ
肩書き: カヨの弟子/トシキの恋人
概要: カヨとの朝の相談を終えたばかり。今度はトシキとサーシャを直接観察するために動き出す。胸を締めつけられるような真実を目撃する覚悟でいた彼女を待っていたのは、まさかの「思い込みについての大講義」だった。
田所トシキ
肩書き: カヨの息子/パン屋の店員
概要: 母親の指示でシンディに同行するが、そのすぐ隣で繰り広げられている恋愛探偵ごっこには相変わらずまったく気づいていない。グレッチェンが元気を取り戻していることを、ただ純粋に喜んでいる。
ルイーズ・ゴールドバーグ
肩書き: UCLA心理学教授
概要: コーヒーカップと学術論文の山に埋もれながら、グレッチェンの経過を遠隔で観察している。「悪魔に可愛いあだ名をつける」という行為が、臨床的介入以上の治療効果を示してしまったデータを記録する羽目になり、彼女の脳は現在、生存をかけて戦っている。
日曜日、午前9時
(回想)
田所家――カヨの書斎
シンディはカヨの向かいに座り、肩を強張らせながら、ついに自分の気持ちを打ち明けた。
「トシキとサーシャの間には……なんていうか、親密さみたいなものがあるんです。私にはどうしても測れない距離感が」
カヨは人差し指一本で眼鏡を直した。
「あなたの前提には誤りがあります。あなたは恋愛という物差しを使って、精神的および共感的な問題を測ろうとしています」
シンディは瞬きをしたまま、黙り込んだ。
「理解できないのであれば」と、カヨは淡々と続けた。「自分の目で観察しなさい。二人を見て、事実を確認し、自分自身で結論を出すのです」
シンディは黙ったまま、その言葉を噛みしめた。
「今日の午後、トシキの予定は空けてあります。車も使えます」とカヨは書類を整えながら付け加えた。「行きなさい」
現在――午前10時30分
カラマゾヴァ・ベーカリー
厨房は静かで穏やかだった。朝の暖かな光が窓から差し込み、サーシャとトシキは並んでパン生地をこねていた。
「今日はずいぶん静かだな」
トシキが腕についた小さな粉を払いながら言った。
「日曜日の朝ですから」
サーシャは優しく微笑んだ。
「お客さんの流れが増えるのは、だいたい正午前後です」
その時、柔らかな通知音が鳴った。
サーシャは手を止め、手についた粉を払い落としてから、シンクで手を洗った。そしてエプロンのポケットからスマートフォンを取り出す。
グレッチェンからのメッセージだった。
【サーシャ……今日、少し時間ある? 教会に行きたいの。でも、一人で行くのが怖くて……一緒に来てもらえる?】
サーシャは数秒間そのメッセージを見つめた。
そして、指を素早く画面の上で走らせる。
【もちろんです。何時がいいですか?】
ほとんど間を置かずに返信が来た。
【午後2時。セント・メアリー大聖堂で】
サーシャの表情が柔らかな笑顔に変わった。
【分かりました。そこで会いましょう】
スマートフォンをポケットに戻す。
作業台の向こうから、トシキがちらりと視線を向けた。
「大丈夫?」
「はい」
サーシャは安心させるように首を振った。
「グレッチェンが午後、教会に行きたいそうです」
「教会?」
「はい」
サーシャの笑顔が、少しだけ真剣なものになった。
「まだ大きな重荷を抱えていますから。今の彼女に一番必要なのは……ただ、誰かがそばにいてあげることだと思います」
トシキは生地を丸く整えながら手を止め、心から感心したように彼女を見た。
「本当に優しいよな、サーシャ」
サーシャは目を伏せた。頬にほんのり赤みが差す。
「そんなこと……ありません」
小さな声でつぶやく。
「私にできることを、少ししているだけです」
午後2時――セント・メアリー大聖堂
尖塔がロサンゼルスの空へと高く伸びている。
重厚な石造りの壁。そびえ立つアーチ。そして鮮やかなステンドグラス。明るい陽射しに照らされた大聖堂は、まるでこの世のものではないように見えた。
サーシャは大きな石段の下に立ち、静かに待っていた。
数分後、グレッチェンが姿を現した。暗いコートを着て、黒い髪が肩より下まで流れている。以前より顔色は明らかに良くなっていたが、それでもまだ痩せていて、どこか弱々しく見えた。
「サーシャ」
「グレッチェン」
二人は小さく、温かな笑みを交わした。グレッチェンの姿勢には、緊張が滲んでいる。
「来てくれてありがとう」
「もちろんです」
サーシャは優しく答えた。
「体調はどうですか?」
グレッチェンは目を伏せた。
「前よりは……良くなった」
少し間を置き、通りを行き交う車へ視線を向ける。
「……でも、まだいる」
サーシャは静かに耳を傾けた。
「メフィストフェレス……」
グレッチェンはゆっくりと息を吐いた。
「声は今ではすごく小さい。でも……消えてはいない」
サーシャは静かに頷いた。
驚きも、否定もない。
ただ、ありのまま受け止めている。
「そうですか」
その一言だけで、グレッチェンの張り詰めていた肩が、ほんの少しだけ緩んだ。
「中に入りたかったの」
グレッチェンは大聖堂の壁を見上げた。
「祈りたかった。でも……一人で入っていく勇気が出なくて」
サーシャは手を伸ばし、グレッチェンの冷たい指をそっと両手で包んだ。
「大丈夫です」
声は穏やかで、温かかった。
「今日は私が一緒にいますから」
グレッチェンは小さく頷いた。手をつないだまま、二人は石段を上り、大聖堂の中へ入っていった。
大聖堂の内部は、深く静かな空気に包まれていた。高い天井。長く伸びる中央身廊。そして祭壇へ向かって並ぶ、磨き上げられた木製の長椅子。ステンドグラスを通り抜けた陽光が、石の床に宝石のような色彩を落としている。
二人は前方の長椅子に腰を下ろした。座った瞬間、グレッチェンの肩が震え始めた。膝の上に置いた手も震えている。
サーシャは、ありきたりな慰めの言葉を口にしなかった。ただ静かに寄り添い、目を閉じ、祈り始めた。
グレッチェンもそれに倣い、頭を垂れる。
数分間、完全な静寂が続いた。やがて、グレッチェンが小さく息を呑んだ。全身がびくりと震える。
「……いる」
かすれた声だった。サーシャは目を開けずに、静かに尋ねる。
「どこですか?」
「後ろ……」
グレッチェンの声が強張った。
「入口の近く。暗い隅っこに……」
唇を噛む。
「すごく……居心地が悪そう」
サーシャは目を開け、滑らかな動作で振り返った。
身廊の一番奥。重いオーク材の扉のそば、陽の光が届かない場所に、何かがいる。
影なのか。空気の歪みなのか。肉眼でははっきりと見えない。それでも、冷たい空気の中に、明確で否定しようのない存在感が漂っていた。
サーシャは立ち上がった。
「サーシャ?!」
グレッチェンが鋭い声を押し殺す。だが、サーシャはその制止を気にすることなく歩き始めた。
ゆっくりと。真っ直ぐに。暗い隅へ向かって。一歩、また一歩。
そして、影からおよそ1メートルほど離れたところで立ち止まる。
サーシャは少しだけ首を傾げた。
「こんにちは」
優しい声だった。
「私、サーシャといいます」
沈黙。暗がりから声は返ってこない。しかし、空気が揺らいだ。苛立ったような熱の揺らめきが、かすかに漂う。
サーシャは穏やかに続けた。
「あなたは、メフィストフェレスさん……ですよね?」
再び空気が歪む。まるで、露骨に不機嫌な気配が放射されているようだった。
サーシャは温かく微笑み、礼儀正しく優雅に一礼した。
「お会いできて光栄です」
長椅子から見ていたグレッチェンは、完全に固まっていた。
(挨拶してる?!)
頭の中がショートする。
(大悪魔にお辞儀してる?!)
サーシャは何事もなかったかのように長椅子へ戻ってきた。グレッチェンは、呆然と彼女を見つめた。
「……今の何?!」
「ただの挨拶です」
まるで天気について話しているかのような答えだった。
「挨拶?!」
グレッチェンの声が思わず大きくなる。自分たちがいる場所を思い出し、慌てて声を落とした。
「古代の悪魔なのよ!」
「はい」
サーシャは優しく頷いた。
「どうやら、そうみたいですね」
その穏やかな反応の方が、悪魔そのものより恐ろしく感じられた。
「怖くないの?」
グレッチェンが真顔で尋ねる。サーシャは少し考え、首を傾げた。
「それほどでもありません」
「それほどでも?!」
「ここでは何もできないようです」
サーシャは暗い隅を振り返った。
「それどころか、かなりつらそうに見えます」
グレッチェンは反射的にそちらを見た。
隅には、ただ暗い石壁があるだけだった。何も見えない。それでもサーシャは、絶対的な確信を持ってそう言っていた。
「祈りましょうか?」
サーシャは再び目を閉じた。
「え?」
「せっかくここまで来たんですから」
そう言うと、サーシャは再び祈り始めた。
グレッチェンは数秒間、信じられないものを見るような目で彼女を見つめていた。そして、ようやく目を閉じた。
時間が静かに流れていく。
大聖堂は穏やかな空気に包まれていた。
ステンドグラスから差し込む宝石のような光。
長椅子が軋む、遠くの小さな音。
その中で、グレッチェンは驚いた。
胸の奥に絡みついていた緊張の塊が、少しずつほどけていく。長い時間が経ってから、グレッチェンはわずかに目を開いた。
「……まだいる」
小さな声だった。
「分かっています」
サーシャは目を閉じたまま、さらりと答えた。
「たぶん、ずっと出ていかないと思う」
「そうかもしれませんね」
あまりにも軽く、何でもないことのように返されたため、グレッチェンは固まった。
「そうかもしれない……?」
「はい」
サーシャは目を開き、温かく優しい笑顔でグレッチェンを見た。
「本当に、出ていかなければならないんでしょうか?」
グレッチェンの体が強張る。
「え?」
「今は、以前よりずっと声が小さいですよね?」
「……うん」
「以前と同じ苦しみを与えてきていますか?」
「それは……」
グレッチェンは言葉を濁した。
確かに、いる。でも、以前とは違う。かつて彼女を麻痺させていた圧倒的な恐怖は、もうなかった。
「静か……」
グレッチェンが小さく認める。
「はい」
「ただ……黙ってそこにいるだけ」
「そうですね」
サーシャはグレッチェンの冷たい手を、自分の手で包んだ。
「グレッチェン。あなたはずっと、メフィストフェレスを追い出せるかどうかで苦しんできました」
グレッチェンは黙って聞いていた。
「でも」
サーシャは優しく微笑む。
「もしかすると、あなたには彼を追い出す権限がないのかもしれません。そして……それでもいいのかもしれません」
「……」
「あなたにできることは」
サーシャはその手をぎゅっと握った。
「自分の人生をどう生きるかを選ぶことです」
グレッチェンの目が震える。
「それに」
サーシャは少し恥ずかしそうに、控えめに笑った。
「もう一人じゃありません」
「……」
「私がいます」
サーシャは静かに言った。
「それに、神様もいます」
グレッチェンのまつ毛から、一粒の涙がこぼれた。
「だから……」
サーシャは囁く。
「もう、そんなに怖がらなくていいんですよ」
グレッチェンは頭を垂れ、両手で顔を覆いながら静かに泣いた。涙は止まらなかった。でも、初めてだった。それは恐怖の涙ではなかった。
「ありがとう……」
声を震わせながら、グレッチェンは泣いた。
「本当に……ありがとう……」
サーシャはそれ以上、何も言わなかった。ただ彼女の隣に座り、静かな聖堂の中で、その手を握り続けた。
しばらくして、二人は大聖堂を出た。
明るいロサンゼルスの陽射しが二人を包む。
グレッチェンは澄んだ空気を深く吸い込み、空を見上げた。
「まだいる」
静かに言った。
「でも、静か」
その表情は驚くほど穏やかだった。
サーシャは嬉しそうに微笑んだ。
「本当によかったです」
二人は手をつないだまま、石段を下り始めた。
「サーシャ?」
石段の下から、聞き慣れた声がした。
サーシャが驚いて瞬きをする。
「トシキ? シンディ?」
歩道の近くに、トシキとシンディが立っていた。トシキは二人を見つめ、つながれた手へ視線を落とす。
「あ……」
トシキは瞬きをした。どういう状況なのかを理解しようとしている。
グレッチェンは反射的に手を離そうとした。
しかし、トシキの表情はすぐに穏やかで、完全な理解を示すものに変わった。
「なるほどな」
トシキは自分自身に頷くように言った。本当に嬉しそうな笑顔が浮かぶ。
「よかったな、グレッチェン」
グレッチェンは戸惑った。
「え?」
「ずいぶん顔色が良くなった」
トシキが自然に笑う。
「サーシャと一緒に来たのか?」
グレッチェンは少し頬を赤くして頷いた。
「うん……」
「それは本当によかった」
トシキの声には、裏も何もなかった。ただ純粋に、彼女が回復していることを喜んでいる。
そのすぐ隣で、シンディはその光景を見つめていた。
そして、その瞬間。すべてが、はっきりと理解できた。
サーシャとグレッチェン。並んで立つ二人。つないだ手。サーシャの目に浮かぶ、自然で無条件の温かさ。そこに恋愛的な空気はなかった。
まったく別のものだった。それは、ただサーシャ自身だった。苦しんでいる人を見れば、そのまま置いていくことができない人。シンディは思わず、突然小さく笑った。あまりにも単純だった。
ここ数日、自分を苦しめていた重く息苦しい疑問。トシキとサーシャの間にある、あの謎の「親密さ」。その答えが、今ここにあった。
サーシャは誰に対しても、こうなのだ。この点でトシキが特別なわけではない。サーシャは、ただ根っから優しい人間で、助けを必要としている人に惜しみなく心を差し出す。
(カヨの言った通りだった……)
胸に残っていた重荷が、完全に消えていく。自分がここまで考えすぎていたことがおかしくて、笑いたくなった。
「おめでとう」
シンディはグレッチェンに温かく微笑みかけた。
「何のお祝い?」
グレッチェンが困惑したように尋ねる。
「すごく元気そうになったから」
グレッチェンは、恥ずかしそうに、それでも心からの笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
サーシャも嬉しそうに頷く。
「今日は素晴らしい一日でした」
「本当にそうみたいだな」
トシキが笑う。
「グレッチェン、顔色がずっと良くなってる!」
「そう?」
「間違いない!」
三人が話しているのを見ながら、シンディは体から最後の緊張が抜けていくのを感じていた。
サーシャは、やっぱりサーシャだった。トシキは、やっぱりトシキだった。何も変わっていない。
変わったのは――シンディが自分の頭の中で作り上げていた、壮大なドラマだけだった。
「そろそろ戻らないと」
サーシャが優しく言った。
「またベーカリーで会いましょう!」
「じゃあな!」
トシキが手を振る。
「またね」
シンディも笑顔で答えた。二人の少女は手をつないだまま、通りを歩いていった。
その後ろ姿を見つめながら、シンディは長く、大きな安堵のため息をついた。
トシキが不思議そうに彼女を見る。
「どうした?」
「何でもない」
シンディは笑った。
明るく、自然な笑顔だった。
「ただ……ホッとしただけ」
「何に?」
「まあ……いろいろ」
トシキは首を傾げた。完全に意味が分かっていない。だが、それ以上は聞かなかった。シンディも説明しなかった。その必要はなかった。
二人は並んで、陽の光に包まれたロサンゼルスの歩道を歩き始めた。
近くのカフェ
大聖堂を出たあと、サーシャとグレッチェンは近くの小さなカフェに入り、窓際のテーブルに腰を下ろした。二人の間には、湯気の立つカップが二つ置かれている。
グレッチェンは両手でコーヒーカップを包み込み、低い声でつぶやいた。
「……まだ、いる」
「分かっています」
サーシャは紅茶を一口、上品にすすった。
「そこにいるの」
グレッチェンは弱々しく笑った。
「メフィストフェレス」
「はい」
「でも、なんだか変なのよね」
グレッチェンは首を傾げた。
「完全に黙ってるの。いつもなら、ずっと喋ってるのに。ささやいたり、からかったり、叫んだり……」
「それが今は?」
「何もない」
「それは、とても良いことですね」
サーシャは心からそう言った。
「正直に言うと……なんだか、ふてくされてるみたい」
グレッチェンが言った。
「暗い隅っこに座って、腕を組んでる感じ」
サーシャは思わず小さく笑った。
「それは、十分ありそうですね」
「ありそうなの?!」
「はい」
サーシャは真顔で答えた。
グレッチェンは吹き出した。二人はしばらく一緒に笑った。
温かなカフェの空気に包まれながら、グレッチェンはふと気づいた。こんなふうに笑ったのは、何か月ぶりだろう。
「ありがとう、サーシャ」
グレッチェンが静かに言った。
「何にですか?」
「全部」
グレッチェンは少し照れくさそうに答えた。
「私のことを信じてくれて」
「『信じる』という問題ではありません」
サーシャは首を傾げた。
「あなたは苦しんでいた。それは事実ですから」
「ほとんどの人は、そういうふうには見てくれないわ」
グレッチェンは寂しそうに笑った。
「病院へ行けって言うだけ」
「医療を受けることも、とても大切ですよ」
サーシャは真剣な顔で言った。
「ゴールドバーグ先生の精神科医療は必要不可欠です」
それから、表情を柔らかくした。
「でも、つらい時には、誰かがそばにいてくれることも同じくらい大切だと思います」
グレッチェンは目を伏せた。
「あなたって、本当に変わってるわね」
「よく言われます」
「自覚あるの?」
「完全に」
サーシャは即答した。グレッチェンはまた笑った。そして、ふと何かを思いついた。
「そういえば……」
「はい?」
「『メフィストフェレス』って名前……」
サーシャは首を傾げた。
「長すぎますか?」
二人の間に、一秒ほど沈黙が流れた。
「確かに、長いわよね」
サーシャも真剣な顔で頷いた。
「毎回、全部言うのは大変そうです」
「でしょ?」
サーシャは深く考え込んだ。
「では、もっと呼びやすい名前をつけた方がいいかもしれません」
「呼びやすい名前?!」
グレッチェンにも、サーシャが本気なのが分かった。少しして、サーシャの顔がぱっと明るくなった。
「『メフィ』はどうでしょう?」
グレッチェンは固まった。
「……何?」
「メフィです!」
サーシャは嬉しそうに繰り返した。
「メフィストフェレスの短縮です」
グレッチェンは呆然とサーシャを見つめた。
「メフィ……?」
声に出してみる。
メフィ。
なんだこれ。どうしてこんなに、馬鹿みたいに可愛い響きなんだろう?
「……どうですか?」
サーシャが、期待に満ちた無邪気な目で尋ねる。グレッチェンはついに耐えきれなくなり、テーブルに突っ伏して笑い出した。
「無理! 絶対無理!」
「駄目ですか?」
「いや、駄目っていうか……」
グレッチェンは涙を拭いながら、笑いを止められない。
「可愛すぎるのよ!」
「そうですか?」
「あれ、魔王級の悪魔よ?!」
「はい」
「何千年も生きてる存在なのよ?!」
「そうですね」
「それをメフィって呼ぶの?!」
サーシャは満足そうに頷いた。
「素敵な名前だと思います」
そして、テーブルの横にある空いた椅子へ向かって、礼儀正しく小さなお辞儀をした。
「これから仲良くしましょうね、メフィさん」
グレッチェンはお腹を抱え、笑い続けた。
こんなに心が軽くなったのは、いつ以来だろう。
そして部屋の暗いエーテルのどこかでは、古代の悪魔が、人類史上もっとも屈辱的なあだ名を与えられたことに、激しく憤慨していた。
⸻
深夜――ゴールドバーグ家
ルイーズの研究室では、二台のノートパソコンとタブレットが、研究資料と空になったコーヒーカップの山の中で明るく光っていた。
ルイーズはスマートフォンを耳に押し当てていた。
「グレッチェン」
その声は、いつものように鋭く事務的だった。
「現在の心理状態を報告してください」
「すごく……いい感じ。ほんとに」
電話の向こうから、穏やかで落ち着いたグレッチェンの声が返ってくる。ルイーズのペンが、すぐさまメモ帳の上を走り始めた。
「具体的に」
「ほとんど不安を感じないの」
「睡眠状態は?」
「ここ数週間で一番いい」
「幻聴は?」
わずかな間があった。
「まだある」
ルイーズのペンがぴたりと止まった。
「まだある?」
「うん」
「頻度は?」
「常に」
ルイーズは眉間を押さえた。
「常に?!」
「でも、静か」
「静か?」
「そう」
「『静か』という表現は科学的に曖昧です」
ルイーズは額に手を当てた。
「詳しく説明してください」
グレッチェンは少し考えた。
「ええと……別の部屋でついてるテレビの、背景のノイズみたいな感じ。そこにあるのは分かるけど、特に気にならないの」
ルイーズの眉間の皺が、さらに深くなった。
「つまり、幻聴そのものは残っている」
「そう」
「しかし、苦痛はない?」
「全然」
「パニックも?」
「ゼロ」
ルイーズは完全に黙り込んだ。
理論上、これは説明がつかない。症状は残っている。なのに、心理的な苦痛だけが消えている。これは一体、どんな臨床状態なのだ?
「サーシャは具体的に何をしたんです?」
ルイーズが問い詰める。電話の向こうで、グレッチェンがくすくす笑った。
「いろいろ」
「『いろいろ』では臨床報告になりません!」
「受け入れてくれたの。私を、そのまま受け入れてくれた」
ルイーズはメモを取った。
主観的社会的承認。
「他には?」
「一緒に祈った」
ルイーズのペンが動く。
宗教的グラウンディングによる対処メカニズム。
「他には?」
「彼に名前をつけた」
ルイーズの手が、途中で完全に止まった。
「……名前?」
「うん」
「誰に?」
「メフィストフェレスに」
電話の向こうが沈黙する。
「……もう一度お願いします」
ルイーズの声が、ゆっくりになる。
「サーシャは彼をメフィって呼んでる」
さらに沈黙。
「メフィ……?」
「うん」
ルイーズは無表情のまま、研究室の壁を見つめた。脳が完全に停止しかけている。
「つまり……」
慎重すぎるほど慎重に確認する。
「十九歳のパン屋の店員が……」
「うん」
「……古代の、位階の高い悪魔の存在に……」
「そう」
「……可愛いあだ名をつけた?」
「だいたい、そんな感じ」
ルイーズは天井を見上げた。頭の奥で巨大な頭痛が育っていく。
「それで?」
グレッチェンが楽しそうに続ける。
「そのあと、私の気分がものすごく良くなった」
ルイーズは固く目を閉じた。
「ゴールドバーグ先生? 聞いてる?」
「残念ながら、聞いています」
ルイーズは平坦に答えた。
「先生?」
「今の口調は無視してください」
ルイーズはため息をつき、こめかみを揉んだ。
電話の向こうから、グレッチェンの明るく澄んだ笑い声が聞こえてくる。ルイーズはそれを聞きながら、科学者として認めざるを得なかった。方法論がどれだけ馬鹿げていようと、対象者の状態が客観的に改善しているという不都合な事実だけは、否定できない。
「定期的な状態報告は続けてください」
ルイーズが指示する。
「それと、現在の治療スケジュールも維持すること。薬を変更する場合は、必ず私に相談してください」
「分かりました」
「急激な苦痛が発生した場合は、すぐに連絡してください」
「了解です。ありがとう、先生」
通話が切れた。
研究室に静寂が戻る。ルイーズはタブレットの画面を見つめ、自分のメモを読み返した。
対象:グレッチェン
現在:安定
幻聴:継続
苦痛レベル:ほぼゼロ
介入要因:宗教的/社会的支援
結果:著しい臨床的改善
結論:???
ルイーズはスタイラスを強く握った。
「受容療法……?」
モニターを睨みつける。
「スピリチュアル・セキュリティ・バッファー……?」
嫌だった。どうしても嫌だった。認知行動療法の枠組みに、きれいに分類できない。
ルイーズは極端に渋々、新しい項目を臨床ノートに入力した。
特殊な心理現象においては、理論的な完全解明よりも、実際の治療効果を優先して評価する必要がある場合がある。
入力を終える。ルイーズは、その一文を五秒間じっと見つめた。そして、タブレットを勢いよく伏せた。
「私は認めない」
誰もいない研究室で、ルイーズは憤然と宣言した。
「……ただし、効果があったことは否定できない」
椅子にもたれかかる。まるで、現実そのものに腹を立てているような顔だった。
グレッチェンのアパート
グレッチェンはベッドに横になり、静かな天井を見上げていた。
窓は揺れていない。冷たい風も吹いていない。ただ穏やかで、静かな日曜の夜だった。
グレッチェンは、午後のことを思い出しながら微笑んだ。
大聖堂。サーシャ。祈り。そして――
「メフィ」
小さく、その名前を口にした。その瞬間、部屋の暗い隅から、心底不機嫌そうな、しゃがれた声が響いた。
「……本当に、その馬鹿げた呼び名を使い続けるつもりなのか?」
グレッチェンは、思わず吹き出しそうになった。
「起きてたの?」
「私は眠らない」
「ああ、そうだった。忘れてた」
「それに、私はその呼称を認めていない」
影の中から、悪魔が不満そうに唸った。
「何千年にもわたって恐怖をもたらしてきた私の名を、三文字の惨めな呼び名に縮めるなど、地獄の位階に対する侮辱だ」
「でも、呼びやすいじゃない」
グレッチェンは枕に顔を埋めながら笑った。
「それは本質とは何の関係もない!」
「それに、可愛いし」
「それはもっと悪い!」
グレッチェンは枕に顔を押しつけ、声を殺して笑った。
ほんの今日まで、この存在は目を覚ましている間ずっと続く悪夢だった。
でも今は?ただ……そこにいる。
「ねえ」
グレッチェンは暗闇に向かって、静かに言った。
「ありがとう」
沈黙が落ちた。
「……何に対してだ?」
悪魔が不機嫌そうに尋ねる。
「静かにしてくれてること」
数秒間、沈黙が続いた。
「……勘違いするな」
声には、ひどく気位の高い苛立ちが滲んでいる。
「私は単に、活動を控えているだけだ」
「教会のせい?」
「教会だ」
「サーシャ?」
「サーシャだ」
「十字架?」
「十字架だ」
「全部?」
「全部だ」
グレッチェンは柔らかく微笑んだ。
「笑うな」
影が苛立たしそうに唸る。
「ごめん」
「ふん」
また部屋に静寂が戻った。
そして、しばらくしてから。暗闇の中から、低い唸り声が聞こえてきた。
「……ただし」
グレッチェンは耳を澄ませた。
「その……馬鹿げた呼び名についてだが」
その言葉を口にすること自体が苦痛であるかのように、声が歪んでいた。
「……一時的に、許容してやってもいい」
グレッチェンは笑いをこらえた。
「つまり、認めたの?」
「認めてはいない!」
「完全に認めてるじゃない、メフィ」
「私は断固として認めていないと言っている!」
「おやすみ、メフィ」
分厚い、不機嫌そのものの沈黙が返ってきた。
グレッチェンは目を閉じ、毛布をしっかりと引き上げた。
そして何年ぶりかに、深く穏やかな眠りへと落ちていった。部屋の最も暗い隅から、ほんの小さな、しぶしぶとした囁きが夜へ溶けていく。
「……おやすみ」
カラマゾフ家
サーシャはベッドの横に跪き、祖母の銀の十字架を両手で握っていた。
窓から差し込む月明かりが、静かな部屋を照らしている。
「主よ」
サーシャは静かに祈った。
「今日も一日、ありがとうございました」
目を閉じ、穏やかな祈りを捧げる。
「どうかグレッチェンを見守り、その心を守ってください」
サーシャは少しだけ間を置いた。そして、ふと思い出したように、静かに付け加える。
「それから……メフィのことも、どうか見守ってください」
サーシャは小さく笑った。
「どうか、彼を光の方へ導いてあげてください」
自分でも今の祈りがおかしく思えたのか、サーシャは小さく、くすりと笑った。銀の十字架に口づけをして、祈りを終える。そして柔らかな毛布の中へ入り、ベッドに横になった。
最後にもう一度、月明かりを見つめる。そして、夜に向かって小さく囁いた。
「おやすみなさい、メフィ」




