Episode 1: The Invitation from L.A.
登場人物
田所健一
伝説的映画監督シュピーガー作品で、一度だけ主演を務めた男。ハリウッド映画の主役に抜擢された過去を持つが、決してスターではない。むしろ映画を観た人の大半は彼の顔すら覚えていない。どこにいても自然と背景に溶け込んでしまう、ごく普通の中年男性。巨大すぎる妻の影に隠れ、その存在感は年々薄くなっている。
田所カヨ
健一の妻であり、ハリウッド業界では伝説的な裏方の大物。撮影現場の規律そのものを変えたと言われるカリスマ的存在。健一の健康管理だけでなく、主演女優たちの生活習慣やメンタル面まで指導していた。触れるものすべてを最適化せずにはいられない、生粋の管理魔。
田所トシキ
健一と佳代の息子。東京大学に通う秀才。知的で落ち着いた雰囲気を持つが、その実態は筋金入りのマザコンである。
シンディ・ゴールドバーグ
俊樹の恋人で、東京大学に留学中のロサンゼルス出身の学生。明るくエネルギッシュな性格で、佳代を人生最高の師匠として崇拝している。
ある日、ケンイチの受信箱に一通のメールが届いた。
差出人:Hollywood AI Summit 2027
ケンイチ
「これは何だ?」
ケンイチは呟きながら未読メッセージを開いた。
親愛なるタドコロ様、
2027年ハリウッドAIサミットにて、基調講演者としてご招待させていただきたく存じます。
AIを活用したクリエイティブコンテンツ制作のご経験とハリウッドでのご活躍は、業界の多くの人々にインスピレーションを与えています。
「AIと映画制作の未来」についてご講演いただければ幸いです。
日程:2027年3月15日〜17日
場所:ロサンゼルス・コンベンションセンター
ご都合をお知らせください。
敬具
Hollywood AI Summit 実行委員会
ケンイチは画面を見つめた。ハリウッドAIサミット——業界では大規模で権威あるイベントだ。そして彼に基調講演を依頼してきた。
ケンイチ
「うわ……これ、かなり大きいな。」
その時、カヨが音もなく後ろから肩越しに覗き込んだ。
カヨ
「何を見ているのですか?」
ケンイチ
「ああ、これ。」
カヨは素早く英語の本文を読み取った。
カヨ
「ハリウッドAIサミット、ですか。」
ケンイチ
「ああ。基調講演をやってほしいって。」
カヨ
「日程はいつでしょう?」
ケンイチ
「来月。3月15日から17日。」
カヨ
「ロサンゼルスですね。」
カヨは数秒間沈黙し、頭の中でスケジュールを計算しているようだった。
カヨ
「行くつもりですか?」
ケンイチ
「どうしよう……どう思う?」
カヨ
「断る理由は見当たりません。行きましょう。」
ケンイチ
「でも……」
カヨ
「でも、何でしょう?」
ケンイチ
「大勢の前で話すのって、すごく緊張するんだよ……」
カヨは落ち着いた無表情で夫を見た。
カヨ
「ケンイチ、あなたはシュピーガー監督の映画で主演を務めた方です。なぜ大勢の前でのスピーチに躊躇されるのですか?」
ケンイチ
「あれは演技だった。台本があった。これは全く別物で……」
カヨは短く静かに息を吐いた。怒っているわけではなく、次の最適解を探しているだけだった。
カヨ
「分かりました。あなたが行くのであれば、私も同行します。」
ケンイチ
「え、なんで?」
カヨ
「血圧を監視するためです。一人で行かれると、薬を時間通りに服用し忘れる確率が100%に近くなります。旅行前に健康リスクは排除しておきたいのです。」
ケンイチ
「……了解。ありがとう。」
ケンイチは弱々しく頷くしかなかった。カヨの論理はいつも完璧で銃弾も通さない。
その夜、トシキがシンディを連れて家にやってきた。
トシキ
「ただいま、父さん、母さん。」
ケンイチ
「おかえり。」
シンディ
「こんばんは、タドコロ夫妻!」
シンディはいつもの高出力・千ワットスマイルで挨拶し、部屋を一瞬で明るくした。
カヨ
「こんにちは、シンディ。どうぞ入って。」
カヨは完璧なタイミングで紅茶を淹れた。まるで二人の到着を正確に予測していたかのようだった。
カヨ
「今日はどうしたのですか?」
トシキはケンイチに視線を送った。
「実は、父さん……」
ケンイチが合図を受け、AIサミットのメールの話を説明した。
トシキ
「ハリウッドAIサミット!?」
トシキの目が大きく見開かれた。
トシキ
「しかも基調講演を依頼されたの? すごいじゃないか、父さん!」
ケンイチ
「まあ、そうなんだけど……」
シンディの目が即座に輝いた。
シンディ
「ロサンゼルス! 私のホームタウンよ!」
ケンイチ
「ああ、そうだったね。」
シンディ
「L.A.に行くなら、絶対に私の家族に会ってください! 両親は映画の話をすごく聞きたがっています!」
シンディは興奮して身を乗り出した。トシキも嬉しそうに頷いた。
トシキ
「いい機会だと思うよ、父さん。母さんの管理スキルがL.A.に里帰りするみたいな感じで、俺も結構楽しみだ。」
ケンイチ
「それはそうだけど……」
ケンイチがまだ迷っている間、カヨが落ち着いて会話を掌握した。
カヨ
「スケジュールは空いています。私たちは行きます。」
トシキ
「待って、母さんも行くの?」
カヨ
「当然です。ケンイチのバイタルデータを遠隔監視するのは非効率ですから。現地で直接監督します。」
トシキ
「さすが母さん。完璧なリスク管理だ。」
トシキは楽しそうに笑った。彼は典型的なマザコンだった。
シンディ
「やった! 現地の移動とレストラン予約は全部私が完璧に手配します!」
カヨ
「ありがとう、シンディ。良い結果を期待しています。」
カヨは優雅に微笑んだ。
ケンイチは静かに小さくため息をついた。またL.A.か……しかも今度はシンディの家族にも会わなければならない。
この旅行に、はっきりとした不安な予感があった。
数週間後、彼らは成田国際空港にいた。
ケンイチ、カヨ、トシキ、シンディ。四人は出発ゲートの前に立ち、ロサンゼルスへ向かう準備をしていた。
ケンイチ
「よし、行こうか。」
カヨ
「ええ。」
カヨはパスポートとチケットを確認した。
カヨ
「ケンイチ。血圧の薬はちゃんと入れた?」
ケンイチ
「入れたよ。」
カヨ
「サプリのボトルも?」
ケンイチ
「バッグの中。」
カヨ
「見せて。実際の在庫が私のデータと一致しているかちゃんと確認したい。」
ケンイチ
「……はい、愛しい人。」
ケンイチは従順にバッグを開けてボトルを見せた。隣でトシキが嬉しそうに笑った。
トシキ
「父さんたち、本当に変わらないよね。でも母さんのおかげで健康なんだから、感謝した方がいいよ。」
ケンイチ
「……黙れ。」
シンディが明るく言った。
シンディ
「心配しないで、タドコロさん! L.A.に着いたら、カヨさんの指示通りにケンイチさんの健康管理をダブルチェックするわ!」
カヨ
「ありがとう、シンディ。協力に感謝します。」
カヨは満足そうに頷いた。
ケンイチは賑わう空港ターミナルに、最後にもう一度静かにため息をついた。
天才的なデータ駆動型の妻と、その超熱狂的な弟子。
「ダブル管理チーム:L.A.編」が正式に始動する。
神よ、助けてくれ——ケンイチは思った。
彼らは搭乗ゲートをくぐった。目的地:ロサンゼルス。
全く新しいトラブル波が、これから始まろうとしていた。




