身分の壁
三日後、セレスティアとレオナルドは王都ルミナリスに到着した。約390キロメートルの長い道程だったが、途中で一泊しただけで順調に帰還できた。
王宮に着くと、すぐに国王との謁見が設けられた。ルミナール国王アルベルト三世は、娘の帰還を心から喜んでいた。
「セレスティア、よく無事で戻った」国王が温かく迎えた。「心配したぞ」
「申し訳ありませんでした、父上」セレスティアが深く頭を下げた。「ご心配をおかけしました」
「まあ良い。お前が無事なら、それで十分だ」国王が微笑んだ。「それで、旅はどうだった?何か学ぶことはあったか?」
「はい。多くのことを学びました」セレスティアが真剣に答えた。「庶民の生活、各地の文化、そして...」
「そして?」
「愛というものについて」セレスティアが率直に言った。
国王は少し驚いた。「愛?誰かと出会ったのか?」
「はい」セレスティアが頷いた。「素晴らしい男性と出会いました。そのことで、父上にお願いがあります」
国王は興味深そうに身を乗り出した。「聞かせてくれ」
セレスティアは、マルチェロとの出会いから恋愛の発展、そして外交使節としてポルトディマーレに駐在したいという提案まで、すべてを正直に話した。
国王は静かに聞いていたが、最後に深いため息をついた。
「セレスティア...」国王が困った表情を浮かべた。「お前の気持ちは分かる。しかし、現実は厳しいのだ」
「どういう意味ですか?」
「ポルトディマーレとの外交関係は、確かに重要だ」国王が説明した。「しかし、王女を常駐させるほどの重要性があるかどうか...それに、お前は第三王女とはいえ、王家の血筋だ。結婚相手には、それなりの身分が必要になる」
「身分など...」セレスティアが反駁しようとしたが、国王が手を上げて制した。
「待て。私は頭ごなしに反対しているわけではない」国王が優しく言った。「まず、その男性と直接会ってみたい。それから判断しよう」
「本当ですか?」セレスティアの目が輝いた。
「ああ。お前がそれほど想う相手なら、一度会ってみる価値はあるだろう」
「ありがとうございます、父上」
「ただし」国王が厳しい表情になった。「お前も知っているだろうが、最近ガリア王国から政略結婚の申し入れがあった」
セレスティアの顔が青ざめた。「エドゥアール王子との...」
「そうだ」国王が頷いた。「私はまだ返事をしていない。お前の気持ちも聞かずに決めるのは適切ではないと思ったからだ」
「ありがとうございます」
「しかし、王家の結婚は個人的な問題だけではない」国王が真剣に言った。「国家間の関係、政治的安定、貴族院での承認...様々な要素を考慮しなければならない」
「分かっています」セレスティアが小さく答えた。
「その漁師と会った後、最終的な判断をしよう」国王が決断した。「ただし、貴族院の承認が得られるかどうかは分からない。それも理解しておいてくれ」
その日の夕方、セレスティアは自室で一人、今日の会談について考えていた。思ったよりも国王は理解を示してくれたが、政略結婚という現実が重くのしかかっていた。
「エドゥアール王子...」セレスティアが呟いた。一度だけ会ったことがある。礼儀正しく教養もあったが、特に印象に残るような人ではなかった。マルチェロの温かい笑顔とは対照的だった。
ノックの音が響いた。
「どなた?」
「レオナルドです」
「入ってくれ」
レオナルドが入室すると、心配そうな表情を浮かべていた。
「殿下、宮廷での噂を耳にいたしました」
「噂?」
「ガリア王国との政略結婚についてです」レオナルドが慎重に言った。「貴族たちの間では、既に既定路線として語られています」
セレスティアは深刻な表情になった。「そうか...父上がまだ返事をしていないと言っても、周囲はそう見ているのか」
「はい。特に、ハートフォード侯爵などは強く推進しているようです」
ハートフォード侯爵は、宮廷でも影響力の強い保守派の重鎮だった。彼が推進しているとなると、反対は困難だろう。
「それでも、まずはマルチェロに来てもらおう」セレスティアが決断した。「レオナルド、君にお願いがある」
「何でしょう?」
「ポルトディマーレまで行って、マルチェロを迎えに行ってくれ」
「承知いたしました」
翌日、レオナルドは少数の護衛と共にポルトディマーレに向けて出発した。セレスティアは王宮で彼の帰りを待つことになった。
その間、セレスティアは王女としての公務に専念したが、宮廷での視線が以前と変わったことに気づいた。貴族たちは彼女を見る時、ガリア王国との関係強化への期待を込めた目をしていた。
「セレスティア様」
振り返ると、ハートフォード侯爵が近づいてきた。60代の威厳ある男性で、長年宮廷で権力を握っている。
「侯爵」セレスティアが挨拶した。
「旅はいかがでしたか?」侯爵が社交辞令を言った。「庶民の生活を学ぶのも、将来の統治には有益でしょう」
「はい、多くのことを学びました」
「ところで」侯爵が本題に入った。「ガリア王国のエドゥアール王子は、大変優秀な方だと伺っております」
セレスティアは内心で身構えた。
「一度お会いしただけですが、礼儀正しい方でした」
「そうでしょう。政治的にも、この結婚は両国にとって大きな利益をもたらします」侯爵が続けた。「王女様には、国家の未来を背負っていただいているのです」
「分かっています」セレスティアが答えた。
「それでは、近日中に正式な返事をいただけるでしょうか?」
「父上の判断に従います」
侯爵は満足そうに頷いて去っていった。セレスティアは、自分が政治の駒として扱われていることを痛感した。
一週間後、レオナルドがマルチェロと共に王都に到着した。
「殿下、マルチェロ・ロッシをお連れいたしました」レオナルドが報告した。
「ご苦労だった」セレスティアが安堵した。「マルチェロ、よく来てくれた」
マルチェロは王宮の豪華さに圧倒されていた。港町の質素な生活とは別世界だった。
「セリア...いえ、セレスティア様」マルチェロが緊張しながら挨拶した。
「セリアで構わない」セレスティアが微笑んだ。「ここでも、君には私をセリアと呼んでもらいたい」
「しかし...」マルチェロが周囲の豪華な装飾を見回した。「こんな場所で、僕が...」
「お願いだ」セレスティアが真剣に言った。
マルチェロは頷いた。「分かりました、セリア」
その夜、王宮の迎賓館でマルチェロは一人、明日の国王との謁見について考えていた。部屋は自分の家の何十倍もの大きさで、調度品もすべて見たこともないような高級品だった。
「本当に僕がここにいて良いのだろうか...」マルチェロが不安になった。
窓から見える庭園も、手入れの行き届いた美しさだった。しかし、それは自然の美しさではなく、人工的に作られた完璧さだった。海の荒々しい美しさとは全く違う世界だった。
翌日、ついに国王との謁見の時が来た。マルチェロは宮廷から借りた正装に身を包んでいたが、緊張で手が震えていた。
謁見の間に入ると、その豪華さに息を呑んだ。天井の高さ、壁の装飾、そして玉座の威厳。すべてが自分の世界とはかけ離れていた。
「マルチェロ・ロッシ、ポルトディマーレよりお越しいただき、ありがとう」国王が丁寧に迎えた。
「恐れ入ります、陛下」マルチェロが深く頭を下げた。
「顔を上げてくれ」国王が優しく言った。「セレスティアから話は聞いている。君は漁師だそうだな」
「はい。代々漁師の家系です」
「海の仕事は大変だろう」
「はい。しかし、やりがいのある仕事です」マルチェロが答えた。「海は厳しいですが、多くの恵みを与えてくれます」
国王はマルチェロの誠実な態度に好感を持った。セレスティアが愛した理由が少し分かった気がした。
「ところで」国王が本題に入った。「セレスティアとの関係について聞かせてくれ」
マルチェロは緊張しながらも、正直に答えた。出会いの経緯、共に過ごした時間、そして芽生えた愛情について。
「君は、セレスティアと結婚したいと思うか?」国王が直接的に尋ねた。
マルチェロは長い間沈黙していた。
「陛下」マルチェロがついに口を開いた。「僕は確かにセレスティア様を愛しています。でも...」
「でも?」
「僕のような身分の者が、王女様と結ばれることが正しいのでしょうか?」マルチェロが苦しそうに言った。
国王は意外な答えに驚いた。
「というと?」
「セレスティア様は、国の宝です」マルチェロが続けた。「そのような方が、一介の漁師と結婚することを、国民は受け入れるでしょうか?」
「君の考えを聞かせてくれ」
「僕は海しか知りません」マルチェロが率直に答えた。「政治も、外交も、統治も分からない。そんな僕が王女様の夫になることが、果たして国のためになるのでしょうか?」
国王は深く考え込んだ。マルチェロの言葉には、確かに一理あった。
「君は、自分の立場を客観視できる賢明な人だ」国王が言った。「ただ、愛だけでは結婚生活は成り立たないのも事実だ」
「はい...」
「もう一つ聞かせてくれ」国王が続けた。「もしセレスティアが王女でなく、普通の女性だったら、君はどうする?」
「迷わず結婚を申し込みます」マルチェロが即答した。「彼女ほど素晴らしい女性はいません」
「そうか」国王が微笑んだ。「正直な答えをありがとう」
謁見が終わると、セレスティアがマルチェロを迎えに来た。
「どうだった?」セレスティアが心配そうに尋ねた。
「陛下は...とても優しい方でした」マルチェロが答えた。「でも、僕は改めて感じました」
「何を?」
「僕たちの間にある壁の大きさを」マルチェロが悲しそうに微笑んだ。
その夜、二人は王宮の庭園を散歩していた。月明かりが美しく、噴水の音が静かに響いている。しかし、二人の間には重い沈黙が流れていた。
「マルチェロ」セレスティアが口を開いた。「何を考えているのだ?」
「この庭園を見ていると、あなたの世界がよく分かります」マルチェロが答えた。「美しく、完璧で、そして僕には手の届かない世界だということが」
「そんなことはない」セレスティアが否定した。
「でも、現実です」マルチェロが振り返った。「僕がここにいることで、あなたに迷惑をかけているのではないでしょうか?」
「迷惑なんて...」
「セリア」マルチェロが真剣に見つめた。「正直に教えてください。あなたには、政略結婚の話があるのでしょう?」
セレスティアは言葉に詰まった。隠すことはできなかった。
「ガリア王国のエドゥアール王子との縁談がある」セレスティアが小さく答えた。
マルチェロは深く頷いた。「やはり...」
「でも、私はまだ返事をしていない」セレスティアが急いで付け加えた。「君への気持ちは変わらない」
「ありがとうございます」マルチェロが微笑んだ。「でも、僕には分かります。あなたは王女として、多くの責任を背負っている。僕のような者が、その重荷を増やすべきではない」
「君は重荷なんかじゃない」セレスティアが涙声になった。
「僕も、あなたを愛しています」マルチェロが優しく言った。「だからこそ、あなたの幸せを一番に考えたい」
「私の幸せは、君と一緒にいることだ」
「でも、それは本当にあなたの幸せでしょうか?」マルチェロが問いかけた。「王女としての責務を放棄して、漁師の妻になることが?」
セレスティアは答えられなかった。心の奥底で、マルチェロの言葉が正しいことを感じていた。
「少し時間をください」マルチェロが言った。「僕も、冷静に考えてみたいのです」
翌日、マルチェロはセレスティアに別れを告げた。
「もう帰るのか?」セレスティアが寂しそうに尋ねた。
「はい。このまま滞在していても、答えは出ないと思います」マルチェロが答えた。「それに、僕がいることで、あなたの立場が悪くなるかもしれません」
「そんなことはない」
「貴族の方々の視線を感じました」マルチェロが苦笑いした。「僕のような者が王宮にいることを、よく思っていない人も多いでしょう」
確かに、マルチェロが滞在している間、宮廷での噂は絶えなかった。「王女が漁師を王宮に招いた」という話は、すでに貴族社会で広まっていた。
「でも...」セレスティアが言いかけた時、マルチェロが彼女の手を取った。
「セリア、僕は決して諦めるわけではありません」マルチェロが真剣に言った。「でも、今は時ではないのかもしれません」
「時?」
「僕は漁師です。身分も低く、財産もない」マルチェロが続けた。「でも、いつか...いつか、あなたにふさわしい男になりたい」
「君は既に十分素晴らしい」セレスティアが涙を浮かべた。
「ありがとうございます」マルチェロが微笑んだ。「でも、愛だけでは乗り越えられない現実があることも理解しました」
マルチェロが王都を出発する時、セレスティアは城門まで見送りに来た。
「必ず、また会おう」セレスティアが手を振った。
「はい」マルチェロが馬上から答えた。「でも、その時は...僕がもっと成長してからにします」
「マルチェロ...」
「あなたも、王女として立派に成長してください」マルチェロが最後に言った。「僕は、いつまでもあなたを見守っています」
マルチェロの姿が見えなくなるまで、セレスティアは城門に立ち続けていた。
胸の奥で、何かが終わったような、そして何かが始まったような、複雑な感情が渦巻いていた。
初恋の美しさと、現実の厳しさ。身分の壁という、愛だけでは乗り越えられない現実。
セレスティアは、この経験を通じて一歩大人になったのだった。




