9 彼女はしくじり、危機に陥る
「すぐに答えて良いものではないと思います……。せめて、もう少しちゃんとお話を聞かせてください」
返事を迫る彼らに、私は怯えたように首をすくめ、身体を縮こませる。こうすれば、ただでさえ小柄な身体が更に小さく見える。
この手の輩は、相手をみくびっている時の方が舌が回る。精々ペラペラと、有る事無い事語って貰おう。
「別にそれは構わないさ」
無意識下で自分の優位を確信しているのだろう。彼は余裕綽々といった態度でフフンと鼻を鳴らす。
肩幅で地面を踏み締める足には傲慢さにも似た自信が見て取れるが、一方で忙しなく動く指先には神経質な面と臆病さが同居している。
見た目に違わず、面倒そうな男だなと私は思う。
「しかし、いったい何処に悩む余地があると言うんだい。君にとって損はないじゃないか」
「で、でも……」
私は困った様子で視線を足下に彷徨わせる。
こんな人気のない廊下の隅なのに、床にはゴミも埃もない。どうやら掃除を任されている下働きは、随分真面目に仕事をしているらしい。
「あんまり我儘を言ってこちらを煩わせないでくれるかい? そもそも、女性とはもっと素直なものだと思うけど」
「だけど、アイリスを裏切るなんて……」
「裏切りなどではないよ!」
エドワードの声の調子が、一段上がる。
「先々の事を考えれば、彼女に利する話でさえある」
これはアイリスの為でもあるのだ、と彼は強固に主張する。もっともその割には、アイリスの受ける利点について具体的な話は何もしてこないけどね。
特殊な修練を積んでいない限り、人が意図的に制御できるのは、主に言語情報に限られる。感情、動機は声・間・語尾・視線・身振りに漏れやすい。
私は彼の言動から発せられる違和感から、本音と建前のズレ、嘘と欺瞞を探り出そうと、慎重に口を開く。
「つまるところ、エドワード様が私に求めていらっしゃるのは……」
濁す言葉尻に被せるように、彼は矢継ぎ早に答えを返す。
「ああ、ちょっとした配慮と協力の二つだけ。簡単な事だろう?」
答えを急いている上に、やや早口。
自信満々に振る舞いながらも、視線は落ち着かず、語尾が上擦っている。
(これは確実に何かを隠しているな……)
私はそう判断する。
隠し事の方向性にも何となく予想は付くが、さらに確信を深める為に、私はあえて口を閉ざし、躊躇いと期待を感じさせる眼差しを彼に向けた。
沈黙は人にとって強い心理的圧力となる。案の定、彼は慌てたように自ら会話を続ける。
「勿論、こちらも君に配慮をしようっ。具体的には、こちらの陣営に属する者として縁付く先などを紹介などだ。そうそう、そんなに学びたいというのなら、僕が直々に勉強を教えてやってもいい」
ふふんと鼻を鳴らす彼は、こちらを完全に下に見ているようだ。教えられるほど成績に差があるのならば、そもそも試験に手を抜くよう要求する必要がないことも失念しているらしい。
(ならもう少し、くすぐっておくか)
元よりあまり人の来ない校舎の一角は静かだが、時間的にそろそろ授業へ向かう生徒も現れ始める頃だろう。
遠くから賑やかな声がわずかに届き出す。
だが、あと少しくらいは探ってみてもいいだろう。
私はしばらく呼吸を止め、頬を紅潮させる。そして潤ませた目で彼を見上げた。
「もし、私がそうしたら、エドワード様はどう思われますか……?」
途端に彼がヤニ下がるのが見て取れる。
「勿論、君に感謝してあげよう。君は、そう……僕の好みからするとだいぶ幼いが、たまに可愛がってあげる分には吝かではない」
うん、こちらの方こそお断りである。
段々相手をするのが億劫になってきたので、そろそろ核心に迫るとするか。
人に何かを語らせたい場合には、効率的な手順がある。
事実を確認し、解釈を聞き、感情を呼び起こし、判断を語らせる。
さて、彼は想定通り網に掛かってくれるだろうか。
「でも、その……これらは全て、ブリジッタ様のご配慮なのでしょう……?」
先ほどから、こちらの言葉を遮るほどの勢いだった彼の返事が詰まる。
(掛かった……)
「ゴホンッ……。ブリジッタは勉強だけは出来るが、貴族間の力関係など細かな機微を必要とする案件には疎い。むしろ我々こそが彼女を導く立場にあるとも言える」
僅かに眉を顰めているのは、不服さゆえか。
「所詮女には、家同士のことは分からないのだろう。一族のことを真に考えて、秘密裏に動いてやっているのは僕らなのだからね」
「なら、こうやってわたくしに声を掛けてくださっているのも、エドワード様が決めてくださったということなんですね」
「まあ、そういうことになるかな」
ふふんと得意げにエドワードは頷く。
大仰な仕草、声の大きさは、逆に不安感の表れでもある。
なるほど。これはエドワードらの独断専行か。
言葉尻からちらほら伺えるブリジッタへの反感。おそらく彼らは、主家であると言うだけで、ブリジッタに従わなければならないことが許せないのだろう。
ただ、功を焦っているにしては、やり方が稚拙に思える。
最後にもう少しだけ、裏を探ってみることにする。
「でもエドワード様は、御自身の試験の結果を心配されているというよりも、勝敗の責任を負いたくない、という風にも見えてしまうのですが……」
人間、誤解を放置することに対して、心理的抵抗を感じる。
あえて事実から遠い話を突きつけることで、無意識にそれを修正しようと言う意識が働く。
果たして、彼はどんな本音を語ってくれるか……と思っているうちに、彼の顔がみるみる赤くなっていった。
私は自分の失敗を悟り、舌打ちしたくなる。
(図星なのかよ……っ!)
話を誘導するために、わざと突飛な質問を投げたのに、それが正鵠を射るとは予想外だ。
と言うか、わざわざ策略を練ってまでやる理由が、単なる責任逃れとか誰が気付くか。
侮っていた相手に図星を突かれ、私を見る彼の目が逆恨みに似た憎しみと怒りで染まって行く。
(これはよろしくないぞ……)
手札を誤った以上、ここは撤退の一手しかない。
私はそそくさと一礼をする。
「やはり、この場ですぐにお答えするのは難しいですわ。少し考えさせてくださいませ」
そして私は一目散に、彼らの前から逃げ出したのだった。
◆ ◇ ◆
チラチラと雪が降る。
頭上を覆う樹々の隙間から、白くて小さな氷の欠片が舞い落ちてくる。
かじかむ指先は赤くなり、吹きかける吐息の有無すら感じられない。
いつからか疲労も空腹も分からなくなった。お陰で少しだけ気持ちが楽になる。ただ、足だけが鉛のように重かった。
寒い。
とても寒い。
身体の芯から冷えていて、あと少しで残りの体温もすべて凍えてしまうと予想できる。
きっと涙のひとつでも流せば、それでおしまい。この命諸共に凍りついてしまうだろう。
ただ足を動かす。
ひたすらに、無言で。
それが自分に科せられた責務であると理解しているから。
–−生きなければならない。
でも、たった独りで生き延びて、いったいそこに何の意味があると言うのか。
浮かぶ思考を振り切って、ただ足を動かし続ける。
寒い。
とても寒かった。
◆ ◇ ◆
何だか暖かい気がする。
すっかり冷え切っていた体が、外からの熱でじんわりと暖まっていくような気がする。
凍えていた為なのか、嫌な夢を見た。
そんなものが残っていたことに呆れながらも身じろぎをしたところ、すぐ耳元で声がした。
「意識が戻ったなら、そろそろ起きてくれるかい。目を開けないようなら、このままキスしてしまうよ?」
私はカッと目を見開き、目に飛び込んできたモノに狼狽する。
咄嗟に逃げようと身を捩るが、逆にきつく抱き寄せられてしまった。
「こら。無闇に暴れると床に落ちてしまうよ。そんな無様なことはしたくないだろう」
落ち着け。
落ち着け、自分。
私はかつてないほどの速さで、思考を回転させる。
どうした訳か、私はまるで子供のように膝の上に抱き抱えられている。
それも、あの、エミール・クレッシェンの腕の中で!
彼は癪に触る薄ら笑いを浮かべながら、まるで幼子のように膝に座らせた私の髪を漉き、手慰みのように指に絡ませている。
ぺたりと寄り掛からせられた胸板から聞こえる心音が、トクトクと平常通りの拍を刻んでいることも酷く腹立たしい。
こちらも早く、驚きに弾んだ鼓動を戻さなくては。
ここは何処で、何故こんなことになっているのか。
私は懸命に記憶を蘇らせた。




