表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戻らない日常  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/44

戻らなかった時間

『戻らない日常』

 第20話「戻らなかった時間」


 人は、取り返しのつかないことが起きたあと、

 時間を巻き戻すように何度も同じ場面を思い返す。


 あの時、もう少し早ければ。

 あの時、違う言葉をかけていれば。

 あの時、別の道を選んでいれば。


 でも、どれだけ心の中でやり直しても、

 現実の時間は一度も戻らない。


 1 最後の朝を反芻する


 加賀家では、誰もが事件前の最後の数時間を何度も反芻していた。


 今日子は、あの朝の玄関を思い出す。

 マフラーを直した指先。

「寒いけぇ巻いとき」と言った自分の声。

 振り返って笑った幸枝の顔。


「行ってきます」


 その一言が、頭の中で何度も繰り返される。


 もっと引き止めていれば。

「今日はやめとき」とでも言っていれば。

 そんなことを考える。

 でも、そんな言葉をあの朝に言う理由なんて、本当はどこにもなかった。


 それでも今日子の心は、何度でも自分を責める。


「私が……」

 小さく呟く。

「私が、帰ってきてって言えばよかったんかな……」


 龍樹も同じだった。

 朝の食卓。

 焼き魚をつつきながら「たまの泊まりじゃろ」と言って、幸枝を少し照れさせた。

 それを思い出すたび、胸のどこかが軋む。


 なぜあんな普通の朝だったのか。

 なぜ、あんなふうに普通に送り出してしまったのか。


 いや、普通だったからこそ送り出したのだ。

 それは頭では分かる。

 でも心は納得しない。


 2 充の「あの時」


 充は、自分が言った言葉を何度も思い返していた。


「店終わったら連絡しろよ」


 あの一言。

 いつもの、少し口うるさい兄としての言葉。

 幸枝は「はいはい」と笑っていた。


 もっとちゃんと言えばよかった。

 迎えに行こうかと言えばよかった。

 駅まで送ろうかと言えばよかった。

 なぜ、あの程度で安心してしまったのか。


 夜、ひとりで妹の部屋にいると、考えはどんどん先鋭になる。


「俺が迎えに行ってれば」

「俺がもっと早く異変に気づいてれば」

「俺が……」


 だが、どこまで行ってもその先には何もない。

 あるのは、戻らない時間だけだ。


 充は机の上のレシピノートを見ながら、唇を噛みしめる。


「ごめんな」

 その謝罪は、もう届かない。


 3 一貴の「少し遅れる」


 一貴にとって、最後の数時間はもっと鮮明だった。


 クリスマスイブ。

 平和大通りのイルミネーション。

 泊まりがけ。

 尾道駅前で落ち合う約束。


 そこに入った、急な整備依頼。


 《ごめん。少し遅れる》


 自分が送ったそのメッセージが、何度も頭の中で再生される。


 もし、あの仕事を断っていたら。

 別の整備士に代わってもらっていたら。

 無理をしてでも時間通りに向かっていたら。


 考えれば考えるほど、

「少し遅れる」という、あまりにも小さな予定変更が、

 人生を断ち切った分岐点のように見えてくる。


 もちろん、実際に罪があるのは一貴ではない。

 そんなことは誰に言われなくても分かる。


 それでも、自分の中ではどうしても切り離せない。


「俺が遅れたから……」

 その考えは、呪いみたいに一貴の中に残っていた。


 スマホを開けば、最後のやり取りがある。


 《じゃあ、家に帰って待ってる》


 そのあとに送った自分のメッセージには、既読がつかない。


 何百回見ても、つかない。

 何百回見ても、時間は戻らない。


 4 石田家と親族の無力感


 石田家でも、親族たちもまた、答えのない時間の中にいた。


 星羅は、自分が見た充の背中を思い返していた。

 石田家へ挨拶に来た日の、あんなに緊張していた背中。

 夕方の尾道水道を見ながら、「中途半端なつもりじゃない」と言った声。


 そんな未来の話をしていた人たちが、どうしてこんな場所に立たされているのか。


 詩織は雄介にぽつりと言う。


「人の人生って、こんなに簡単に壊されるんやね……」


 雄介は返せない。

 正しい言葉が、ひとつも思い浮かばない。


 親族たちも同じだった。

 何か言わなければと思いながら、何を言っても薄い。

 励ましは空回りし、沈黙は冷たく感じる。

 だから結局、ただそばにいるしかない。


 その“何もできなさ”もまた、別の苦しさだった。


 5 逮捕


 そして、捜査は動く。


 防犯カメラ映像。

 公開映像への情報提供。

 アパート隣人の証言。

 足取りの照合。

 移動履歴。


 その積み重ねの末、警察は太田大地を逮捕した。


 ニュース速報のテロップが流れる。


 尾道市の女性殺害事件 福山市の大学生の男を逮捕


 それだけで十分、家族の息は止まりそうになる。


 名前が出る。

 年齢が出る。

 居住地が出る。

 二十一歳。

 福山市、備後赤坂駅近く在住。

 被害者との直接的な面識は確認されていない。


 “面識は確認されていない”。


 その一文が、家族にはとくに残酷だった。

 つまり、本当に、何の接点もなく狙われたのだ。


 6 警察署の記者会見


 逮捕後、警察署には報道各社が押しかけた。


 会見場の前にはカメラの列。

 フラッシュ。

 マイク。

 ざわめき。


 やがて会見が始まる。


 捜査幹部が淡々と説明していく。


「本日、福山市在住の大学生、太田大地容疑者(二十一)を逮捕しました」

「容疑は、尾道市内において、被害女性に暴行を加え、殺害した疑いです」

「防犯カメラ映像の解析、公開映像に対する情報提供、関係先の裏付け捜査を経て特定に至りました」


 記者から矢継ぎ早に質問が飛ぶ。


「容疑者と被害者に面識はあったのか」

「現時点では直接の面識は確認されていません」

「動機は明らかになっているのか」

「捜査中です」

「性的暴行を伴う犯行だったのか」

「捜査への支障があるため詳細は控えます」

「計画性はあったのか」

「現時点では断定できませんが、尾行の事実は確認されています」


 尾行。

 面識なし。

 若い大学生。

 クリスマスイブ。

 婚約者と外出予定だった女性。


 どの単語も、あまりに強すぎる。

 会見は事実を整理しているだけのはずなのに、

 見ている側には、事件の異様さだけがどんどん浮き彫りになる。


 7 見ていられない


 加賀家では、その会見をまともに見ていられなかった。


 充がニュースをつけたが、

「太田大地容疑者」という名前が読み上げられた瞬間、今日子が耳を塞いだ。


「消して……」

 声がかすれる。

「もう、消して……」


 充はすぐにテレビを消した。

 けれど、消しても耳には残る。


 福山市。

 二十一歳。

 面識なし。

 尾行。

 逮捕。


 江守家でも同じだった。

 一貴は会見の途中で画面から目をそらした。

 百合愛は涙が止まらず、小百合は口元を押さえたまま動けない。

 一也だけが最後まで画面を見ていたが、その目には怒りがあった。


 石田家でも、星羅は途中でテレビを消した。


「無理……」

 そう言って、ソファに座り込む。


 あまりにも短絡的だった。

 あまりにも猟奇的だった。

 しかも、その理由がまだはっきりしない。


 恨みでもない。

 因縁でもない。

 何か特別な背景があるわけでもない。


 それが逆に、人の心をえぐる。


「こんなんで……?」

 星羅が呟く。

「こんなんで幸枝が……?」


 8 “戻らなかった時間”の意味


 逮捕されたからといって、時間は戻らない。

 犯人の名前が分かったからといって、幸枝は帰ってこない。

 記者会見で事実が並べられても、

 あの夜の坂道も、

 あの朝の「行ってきます」も、

 平和大通りのイルミネーションも、

 もう元の形には戻らない。


 家族や一貴が何度も反芻する“最後の数時間”は、

 どこまで行っても仮定の中にしか存在しない。


 あの時こうしていれば。

 あの時違う道を選んでいれば。

 あの時一緒にいれば。


 でも、すべては“もし”でしかなく、

 現実だけがひどく冷たく、ひとつだけ残る。


 戻らなかった時間。

 それは、時計が進んだからではない。

 誰かが勝手に断ち切ったから、戻れなくなったのだ。


 9 次の地獄へ


 逮捕は区切りではなかった。

 むしろ、ここから先に別の地獄が始まる。


 取り調べ。

 動機。

 起訴。

 裁判。

 そして、幸枝の人生が“証拠”として並べられていく時間。


 加賀家も、江守家も、石田家も、

 そのことをまだうまく想像できていない。


 ただひとつ分かるのは、

 幸枝がもう戻らないことと、

 この先も簡単には終わらないことだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ