<61> 錯誤の夜 (6日目) -3-
何とも言えない雰囲気があった。一見すると、穏やかな食事風景とも見て取れるのだが、とある一か所だけにおいてはどうやらそれは適用されなかったようだ。
ナナエは考え事に集中をしながら、目の前に出されたスープをスプーンで掬った。そうして一旦掬い上げると、ぼーっとしたままそのスプーンの中身を傾けて皿の中へと戻す。スープが勢い御よく皿に戻り、ピチャピチャと飛沫を上げているのもお構いなしにだ。それを何度か繰り返しながら、飛び散る飛沫を眺めながら考えをまとめようと集中した。
「ナナエ様~、ナナエさ~ま~」
酷く遠慮がちに掛けられた声の方を向けば、昨日よりもずっと顔色の良くなったナテルが苦笑いを浮かべながらナナエを見ていた。その顔色を見れば、ナナエの調剤した栄養剤が程よく効いているのがよくわかる。
「ん、なに?」
気怠そうな返事を返すと、ナテルは何かを言おうと口を数回パクパクさせた。しかし、何も思い浮かばなかったのか、そのまましょんぼりとしたように口を閉じて俯く。すぐ横の席で密かにナテルに声援を送っていたリーセッテもそれに合わせて、ガッカリした様に俯いた。
十秒ほどゆっくりとナテルの返事を待っていても、何も返答がないと、ナナエは興味を失った様に再びスプーンを動かした。掬い上げては零し、掬い上げては零し、と言うのを再び繰り返していると横からスッと綺麗な整った手が伸び、「マナー違反です」とナナエの手をピシャリと叩いた。
「ちょっとトゥーヤ。スプーンを落としちゃうじゃな……」
ナナエはいつもの調子で抗議の為に右斜め後ろを勢い良く振り返った。そうしてそこに見慣れた筈の見知らぬ人物の姿を視界に入れる。瞬間ビクリと肩を大きく震わせた後、急に勢いを失って口を噤み、再びスープに向き直った。静かにスープをひとさじ掬って飲めば、少し離れた場所から小さなため息がする。その方へと視線を向ければ、呆れたような困ったような微妙な表情のマリーがナナエを横目でチラチラと窺い見ながら、ニケに給仕をしているところだった。
「なぁに?マリー」
「……いえ、本当に兄さんのこと忘れちゃったんだなぁって思って」
「……」
その言葉に何も返せず、またひとさじ掬ってスープを口に運ぶ。もうどうしていいかわからないと言うのが、ナナエにとっての正直な気持ちだった。
気が付いたら記憶を失っている。しかも、この世界に来て関わりが深いルーデンスとトゥーゼリア2人の記憶の無くした。それだけではない。ナナエには気づいたことがあった。細かな物の記憶もいくつか抜けてしまっているものがあるのだ。
例えば花茶。もう何度も飲んでいるはずなのに、毎回初めて飲んだ気がするのだ。さり気なく気に入ったからと、毎回ラトーナの花茶を出す様にお願いした。そうして毎回飲むたびに、違和感を感じる。
――こんな色したお茶だっけ?
毎回そう思うのだ。ラトーナの花茶は黄色味が強い薄いオレンジ色だ。特徴的な色で飲んでるときは忘れる筈がないと思うのだが、出されるたびに違う色だったのではないかと言う疑問がムクムクと頭の中で首をもたげるのだ。
もちろん、花茶だけではない。毎日食卓に上がってくるメニューも分からないものがいくつかある。それが元々知らないものなのか、それとも忘れてしまったのかが判別できないのだ。本来ならすぐにマリーに尋ねればいいことなのかもしれない。しかし、何となく怖くて聞けずにいる。
このまま記憶がどんどんと亡くなって行ってしまうのだとしたらと考えると怖いのだ。マリーに尋ねて忘れている事をどんどん知っていくかもしれないと言う、忘却の確認作業に怖気づいていた。
「そういえば……」
ふと、気付いたことに思わずナナエが声を上げると、皆が注目するようにナナエを見た。いや、なんでもないです。とすぐに訂正してみたものの、どうしても気になってしまう。
ルーデンスだと言うあの青年は、1日空けると言って出て行った。それから3日が経つ。いくらなんでも遅すぎる。そう思わずにはいられなかった。だが、それを問うてどうするというのだと言う気持ちが強かった。ルーデンスをルーデンスだと思う事の出来ない自分が、ルーデンスが居ない事について言及していいものだろうかとも考えた。それを言及した結果、やはり行きつくところは”ルーデンスを思い出せ”になる事は目に見えている。
出来る事ならば思い出したいと思っていないはずは無かった。だが、ナナエにはどうしても思い出せないのだ。花茶と同じように、その容姿を言葉で表せば同じ者である筈なのに、どうしても違うと思えてしまってならないのだ。視覚と記憶を一致させることが出来ない。それはナナエを酷くイライラさせた。
思い出さなければ、ルーデンスは死ぬ。だが、どうしても彼をルーデンスだと認めることが出来ない。だからこそ、彼の名前を気軽に口に出すことが出来なかった。
「殿下の事であるならば、そのうちいらっしゃいますよ。……お分かりになっていらっしゃるとは思いますが、来たらすぐにここを引き払わねばなりませんね」
「え?」
ナナエの気持ちを見透かしたようにニケが淡々と言葉を紡ぐ。そうして出てきた言葉に、ナナエは首を傾げた。まだ薬は完成してない。だからエナも臥せったままだ。病人がいる中、無理に移動する理由がわからなかった。
「どうして?」
ナナエがそう問えば、ニケは面倒そうな視線を投げかけた。
「朝方来た襲撃者をお忘れですか?ここはもう内情を完全に把握されているようです。我が国の馬鹿どもにしろ、オラグーンのアホ共にしろ、再びやってくることは目に見えていますが?」
「でも、病人もいるし、薬もまだ出来てない。マリー達もいるし、そんなに急がなくても大丈夫じゃ……」
「はぁ……。あなたには危機管理や危機評価と言う物を教えてくれる誰かは近くにいなかったのですか?病人?陛下がいらっしゃるまでにどうにもならないようなら置いていくに決まってるでしょう。もともとただの罪人ではないですか」
「でも、ニケは薬を作るの手伝ってくれてるじゃない。何でいきなりそんなことを」
「個人的に魔種とその薬に興味があったからですよ。学識を深めるのは私の畢生(※ライフワーク)の様なものですからね。病人には些かの興味も感情も持ち合わせてはいませんね。こんなクダラナイことに巻き込んでくれた恨みがあると言えばありますが」
彼の言う事はいちいちもっともだった。襲撃者が来る中で病人を連れての逃走はリスクが高い。移動速度も遅くなるが故に、見つかる危険性が高い。見つかるという事は同行者達を危険にさらすという事でもある。
その観点からいえばエナは最も連れていくのに適さない人物であった。オラグーンの王家に唾を吐いてバドゥーシと手を結び、ナナエの命を脅かした。そうやってナナエを騙し、命を取ろうとした相手を連れていってまでデメリットを抱えなければならない理由が無いのだ。そのデメリットのせいで誰か傷を負ってしまったりする可能性を考えれば、ニケの言葉は正論過ぎて何も言えない。
そもそもナナエがエナに命を脅かされることによって、巡り巡って、結果ルーデンスの命を脅かすことになったと考えられなくもないのだ。ルーデンス配下の者であれば、エナを殺すことには賛成しても、助けることには賛成しかねると言った感情は当然の感情であると気づいた。
現に、マリーやトゥーゼリアはエナを助けることにとても否定的だ。ナナエが余りにも主張するからと殺すことだけは思い留まっていてくれては居るが、エナを連れていくことにより危険を背負い込むのであれば、躊躇なくその命を放棄するであろうことは、容易に想像が出来た。
ここはナナエの生まれ育ったあの世界とは違うのだと言う事が今更になって身につまされた。それでも、ナナエにはどうしてもエナを見捨てる気になれなかった。
ナナエは食事もそこそこに席を立つと、再び調剤作業に戻ることにした。今のナナエにはエナの為だけに皆を引き留める力はない。ナナエ自身が皆の足を引っ張っているのだ。そのナナエがそんな我が儘を言える筈もない。しかし、ナナエは諦めたくはなかった。ぎりぎりまで足掻こうと決めた。そう決めると、自然とルーデンスの事も向き合う事が出来るような気がした。
エナの事も、ルーデンスの事も諦めない。
そう決心すれば、早くルーデンスに会いたくなった。少しでも関わって早く思い出したい。思い出せなかったら?なんて後ろ向きで、消極的になって。そんなのは愚の骨頂でしか無い事に気付く。
パンと両手で自分の顔を思い切り叩く。まだ何も終わってはいない。出来ることを精一杯やる。ナナエにはそれしかできないのだから当たり前だ。今ナナエに出来ることは一つ。魔種を完全に排除するための薬を完成させることだ。
魔種を消滅させる成分はわかった。後は体内にある魔種……いや、もう魔虫と言うべきか。その魔虫に薬剤を食べさせる方法を確立させなければならない。
「って言っても、私もニンジンは何があっても食べたくないしなぁ。嫌いな物を食べさせる……ねぇ」
顎に拳を当てるようにして考え込みながら、部屋の中をウロウロと歩き回る。以前の検証からもしかしたら血を混ぜれば食べるかも……なんて、こっそり混ぜて実験もしてみた。しかし、混ぜた途端明らかに香りも色も大きく変化してしまい、そこから精製した薬剤は普通に吸収されてしまった。ドクリと大きく波打った後、一回り大きく成長したのだ。つまり、魔虫にとっては毒になるどころか、良質の餌になってしまったのではないかと推察できる。
野菜嫌いな子に野菜を食べさせるライクな作戦・とりあえず混ぜちゃえ!は失敗と見ていいだろう。
「食後のお茶をお持ちしました」
「うぎゃあっ!」
突然背後で聞こえた声に、ナナエは驚いて思わず素っ頓な狂大声を上げて飛びのいた。そのまま声の方を慌てて向けば、そこにはいかにも執事と言った感じのお仕着せを来た彼が、表情をピクリとも動かさない様な無表情のままで立っていた。
「申し訳ありません。何度かお声を掛けさせていただいたのですが」
「いや、ああ、うん。ごめん。貰うわ」
近くの長椅子に腰かければ、トゥーゼリアが黙ってローテーブルの脇にトレイを置いて花茶を入れる準備を始めた。何の気なしにそのお茶をいれる手元をずっと眺める。
ルーデンスの事だけでなく、トゥーゼリアの事もきちんと向き合わなければならない。その為にはとにかく認識の擦り合わせが必要な気がした。だが、何をすり合わせればいいのかがまだ自分の中で結論付けられていない為に、ついついその手元ばかりを凝視してしまった。
「……なにか不手際でも?」
「あ、ううん。綺麗な手だなと思って」
ナナエがそう言うと、トゥーゼリアは自分の手を眺め、不思議そうに手のひらを返してみたりと確認をする。その様子が、朝の淡々と人を殺した彼の姿とはかけ離れて見えてナナエはくすりと笑みをこぼした。
「手の皮は厚く固いですし、武器だこもありますが……綺麗な手と言うのはナナエ様の手の様な事を言うのかと思います」
「長い指がスッと真っ直ぐに伸びてて、綺麗だよ。指先も綺麗だと思う。私のは不格好だし、荒れてないのはマリー達のお蔭でしょ」
ナナエは自分の手の形が嫌いだ。まるで子供の手のように小さく、指もまるで子供の指のように指先は丸まり、お世辞にもスッとしているとは言えない。爪もまるで貝のような形で小さい。その手の形を見れば、子供のように足手まといになって役に立たない自分を重ね合わせてしまい、否が応でもその事を自覚してしまうのだ。
ナナエのそう言った考えを理解しかねるようにトゥーゼリアは少しだけ眉を寄せ、視線を下に落とした。まつ毛が影を作り、一瞬目を閉じているように見える。意外と長いまつ毛は、普段はどことなく冷たい印象の彼の容姿を柔らかくさせている様に見えた。
「まつ毛、結構長いんだね」
ぽつりと呟いてみれば、その言葉に激しく既視感を覚えてナナエは首を傾げた。以前も全く同じ感想を抱いたような気がする。それは何時の事だったか。記憶の中を探ろうと集中してみても、酷くおぼろげで曖昧だ。その感覚だけを手繰り寄せようとしてもなかなか形にならない。
「どうかなさいましたか?」
「……ううん、なんでもない」
返事をしようとしたが考えがまとまらず、結局ナナエは首を横に振って差し出されたカップを受け取った。そうしてカップの中を覗き込めば、やはりこんな色のお茶は初めて飲むような気がする。それに違和感を覚えながらも黙って一口目を飲む。
「ラトーナの花茶です」
ボソリと告げるその声に、ナナエはビクリとして顔を上げた。お茶の名前を問うていないにもかかわらず、トゥーゼリアはその名を告げている。自分の虚勢がすっかり見抜かれていることに気付きながらもナナエは小さく「知ってる」と答えた。
トゥーゼリアが下がってしばらくすると、ニケが再びさも当然のような顔でナナエの居室にやって来た。そうして食堂での会話など無かったように、簡単な素材の作成を始める。そのことにナナエは僅かの不満を覚えながらも、手伝ってもらえないよりはましだと黙って受け入れた。
彼はその主張通り、知識を深めたいだけなのだ。時折興味深そうにナナエの手元を見つめては何やら考え込んでいる。そうしてナナエには考え付かなかった方法やレシピをポロリと提案してみせるのだ。それが無ければここまで早くこの段階まで漕ぎ着けていなかったことは疑いようもない。
「少しお休みになられたらいかがです?」
夜も更けたころ、ニケは珍しくナナエを気遣ったような発言を背中越しにした。昨日はナナエが机に突っ伏して寝てしまった時には見せなかった気遣いに訝しく思いながら、ニケを半分睨むような形でナナエは肩越しにニケを見る。
「まだ眠くないし、時間が無いからもう少しやるわ」
「……ま、構いませんが」
ナナエがやんわり断ると、ニケは意外なほどあっさりと引き下がる。その意図が見えずに、ナナエは不審に思い、体の向きを少し変えてニケの方にきっちり向き直す。
「突然何なの?」
そう問えば、ニケはチラリとナナエを一瞥した後、手元の乳鉢に視線を戻す。そのまま、ナナエが視線を反らさずにニケを凝視すれば、彼は面倒そうに口を開いた。
「昨日より明らかに魔力が減っています。……そもそも、他人の魔力は定着しませんからね。魔力が少ない時の対症療法ですし、その間に休息をとって自己の回復に努めるのは定番でしょう。貰った魔力とはどんどん抜ける物。その間にきちんと回復させないのであれば、魔力の与え損になります」
「そう、なんだ……」
「その上、調剤には多少なりとも魔力を使いますからね。そろそろセーブをした方がよいかと思いました」
ニケの言葉にナナエは小さく唇を噛んだ。どんどん八方塞がりになっている気がする。誰が悪いのではない。元々、ナナエが安易に選んできたいくつもの選択肢が結局のところナナエ自身を苦しめているのに他ならない。
ここで無理をするのは簡単である。しかし、朝の襲撃の件もある。ナナエが無理をして倒れてしまうような事態になれば、その負担はナナエ以外に大いに降りかかることは容易に想像が出来た。
「わかった。少し休むわ」
そう言えばニケは眉一つ動かすことなく頷いて見せた。




