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上海1932 恋恋不舎(上)  作者: 田中しう
上海の男たち
14/39

「一人、神戸は綺麗な町だな」

 あれは、トアロードにある「モロゾフ」の前だったか。

 叔父は武術家のくせに滅法甘い物が好きで、よく一人にもそこの洋菓子を買って与えてくれた。

 多分、あれは北野にあるユダヤ人の邸に、父の店で仕上げたスーツを届けた帰りだったのだろう。そこに行く時、叔父はたまに一人を誘ったが、帰り道には必ず「モロゾフ」に寄ってくれたから。

 何故か叔父はそのユダヤ人とは気が合って、普段は店の者が行く所を、この人に限っては当たり前のように叔父が品物を持って邸を訪ねていた。相手の方も手慰みに叔父から中国拳法の指南などを受けていたようだった。二人ともまだ使い慣れていない日本語を介しての交流だったので、一人などから見れば随分とじれったかったが、叔父は、

「言葉が通じなくても、気持ちはわかるもんさ」

と笑った。

 「モロゾフ」で菓子を買った後、叔父は気紛れに一人を伴って電車に乗り、神戸の町を一巡した。

 叔父が上海に戻ったのは、そのすぐ後だった。

 今から思えば、あの日、電車で街を巡ったのは、叔父がその目に神戸の街並を焼き付けておきたかったのかも知れない。

 上海に戻った叔父はやがて店を持ち、小吃のメニューに加えた洋菓子甜心デザートがなかなか評判なのだと手紙をくれた。

 だが、一人が訪ねた小じんまりとしたその店は、正面入り口に錠が下ろされ、昼間だと言うのにしんと静まり返っていた。

 裏口を探して小路に入ると、雑居ビルなのか、事務員風の若い女が魔法瓶を下げて出て来たところだった。

「すみません、一階のレストランは今日は定休日ですか」

 一人が訊ねると、女は訝しげに一人を見返し、眉をしかめた。

「定休日なんて無いわよ。でも、こんな日にお店を開くわけには行かないわ」

「こんな日って?」

「あんた、誰?」

「周公命の、店主の甥です。上海に今日着いて、初めて訪ねて来たんですが……」

「あら、まあ……」

 一人より二つ三つ年上に見える女は、急に態度を和らげ、それから自分の下ぶくれの顔をちょっと撫でた。

「こちらに訪ねて来なさったってことは、未だ知らないのね。周さん…… お亡くなりになったわ」

 え? と一人は聞き返すしかなかった。

「二日前の夜よ。田舎の方には電報か何かで知らせてあるんでしょうけど、今日こっちに着いたってことは丁度旅の途中だったのかしら」

「ええ……」

「周さんのお家は城内だけど、住所はわかってる?」

「わかります―― ありがとう……」

 一人はぼんやりと女に礼を言うと、路地を出た。

 亡くなった……?

 店の前に立ち、一人は何気に看板を見上げた。

『東亜路食堂』。

 「トアロード」から名をもらったのだと叔父は手紙に書いていた。

 一人はもう一度路地に戻り、屋外の共同炊事場で魔法瓶に熱い湯を詰めているさっきの女事務員のもとに走り寄った。

「すみません、城内にはどうやって行けば……」

 自分の声が意外にも切迫していることに気付いて、一人は戸惑った。



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