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一人はもう長い時間、電話機の前でジリジリしていた。
ホテルに着いてから、交換台に頼んで何度も叔父の店に電話を入れているが、一向に通じたと言う連絡が入って来ない。
待っていられなくなってレセプションのあるホールまで降り、電話機を借りられるように頼んだ。だが、ホテルの交換手を通さず、直接相手の電話を呼び出しても、やはり変わりが無かった。
立夏は父親たちと一緒に既にホテルを出ていた。
一人は諦め、フロントで叔父の店の住所を書いたメモを見せ、行き方を聞いた。フランス租界の公館馬路と紫来街が交差する角。フロントは相手が少年でもよく訓練された丁重な態度で、いやな顔ひとつ見せず説明してくれる。何とかひとりでも行けそうだった。
一人は迷わずにホテルを後にした。
南京路を少しだけ東に行くと、すぐに西蔵路と言う通りに出る。電車道が走っている。上海に着いたばかりだが、言葉が通じるのを幸い、どうにかなるだろうと最初に来た電車に飛び乗った。
正直、乗車賃ひとつ支払うのにも手間取ったが、たった一人で乗り込んだ電車から見る街の景色に、一人は自分の目的も忘れて爽快な気分を味わう。東洋において、最も先端的で洗練された街。若い一人の目には、この上なく魅力的に映った。
電車は競馬場の東側を過ぎ、やがて、無国籍風な尖塔を頂きに持つビルの前を走りすぎた。その異様なたたずまいに、一人は思わず振り返った。
「大世界だよ」
お上りさんだと見破られたらしく、隣の席から初老の紳士が声を掛けて来た。
越劇を掛ける芝居小屋から、曲芸やいかがわしい見世物を供する舞台、ジャズバーや茶館など、ありとあらゆる遊芸を詰め込んだ一大遊技楼だと言う事だ。
もっとも、大人の男たちが「大世界」の名前を出す時、彼らは決まってある種の笑みをその目に含んでいた。一人は、その笑みが淫蕩を意味するとわからぬ年齢でもない。
大世界を過ぎ少し下って電車が二つ目の交差点に差し掛かる手前で、紳士が一人に「公館馬路だ」と指してくれた。一人は紳士に礼を言って、慌てて電車を飛び降りた。
街路に降り立つと、街の雰囲気が少し変わった気がした。ああ、この辺りはもうフランス租界なのだ、と一人は改めて、並木の美しい街並を見回す。
停車場の近くに、バゲットを焼くパン屋があった。大通りに目をやると、交差点の整理をしているのは白いターバンを頭に巻いた屈強なインド人ではなく、小柄な安南人(ベトナム人)だった。
東行きの電車がやって来たので、慌ててこれに乗り、紫来路に一番近い停留所で降りた。




