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上海1932 恋恋不舎(上)  作者: 田中しう
上海の男たち
12/39

「僕のことは構わない。従兄さんの話を聞きたい」

「南洋の狸親父たちの話なら、ゆっくり聞かせてやるさ。全く、華南人は仁義だ任侠だと黴の生えたしきたりが多くて参ったぞ。何より、美味い緑茶が飲めなくて困った」

「向こうに居る間、飲みたい飲みたいとうるさかったから、美味しいお茶を淹れてあげたのに、そのお返しが広東人の悪口?」

 背後から女の声が割って入った。

 振り向くと、すらりとした肢体を派手な旗包に包んだ女が盆に茶器を乗せて立っていた。

「姐さん―」

 月陵は一瞬躊躇した後、彼女をそう呼んだ。

 彼女は艶然と微笑を返した。

 栗色の髪を肩口で揺らしながら、彼女は修英の元へ茶を運ぶ。

 一歩進むごとに、膚に張りつくような絹のドレスは、彼女の鍛え上げた体の線を強調する。部屋に居る男たちは、わざと彼女から視線を外した。ボスの女に色目を向けるなど、許されない。

 リーナ・ウォン

 『桃源』随一の、と言えば今の四馬路で並ぶ者が無いと言っていい、人気の歌手だ。

 広東人にしては背も高く、骨格も太い。その理由は、中国人にしては白すぎる膚と、薄い色の髪、彫りの深い面立ちで知れる。香港出身の彼女は、明らかに西洋人の血を引いていた。

 白磁の茶杯に、龍井ロンジンの気に入りの茶農家から直接取り寄せた茶を注ぐと、リーナは修英が戻ったソファの肘掛部分に腰を下ろした。長い腕をするりと修英の肩に回す。

 あからさまなのは慣れているが、やはり月陵は視線をそらした。

 リーナを傍に置くようになってから修英の手腕に何か変化が生じたわけでも、リーナが不都合を起こすような女でもなかったので、それを批判するわけには行かない。むしろ、広東や東南アジアの華僑世界の大物たちと渡りをつけるのに一役買った彼女に対しては感謝の念を示すべきだろう。

 だが、月陵はこう言うことがやはり気に入らなかった

 若く有能な男に女の切れようはずがなかったし、これまで、女よりも仕事を優先させる修英に構ってもらえず、ヒステリーを起こしてまだ年若い月陵を悩ます女も居た。だが、リーナのように堂々とこの執務室に入り、男たちの前で自分が修英の情婦イロであることを主張する女は初めてだ。しかも、修英はそんなリーナの態度にさほど頓着しない。

 修英が頓着しないことに、月陵は口出しすることは出来ない。従兄弟とは言え、二人の間にはそう言う線が引かれていた。

 それをまたまざまざと見せられ、月陵は、先ほどまでの、三週間ぶりに修英の顔を見た嬉しさが去り、気持ちが冷めていくのを感じた。

「では、従兄さん、しばらく休んで旅の疲れを取って下さい。僕は下に居ますから用がある時にはお声を」

 不機嫌が表に出ないように、月陵は言った。

 修英が茶杯から目を上げる。

「何だ、茶に付き合わんのか」

「雑用に追われてるんですよ」

「ふうん」

 修英は茶杯をテーブルに置き、二本目の煙草に火を点けた。ゆっくりと長い足を組む。

「確かに、お前も色々と忙しいようだな」

 下がりかけた月陵は、絡みつくような修英の低い声に、その足を止めた。

 煙を吐きながら、修英は月陵の目を凝っと見詰める。

 黒目がちの濁りの無い目で見詰められるのが、昔から苦手だった。心の底にあるものまで見透かされそうだ。だが、月陵はその視線に耐えた。

「張友啓のシマは早晩こちらに転がり込んで来るだろう。あそこは趙に任せるつもりだ」

 月陵の形の良い眉が、微かに動いた。

 趙の表情を見ると、修英の全ての発言を飲み込んでいるのか、ポーカーフェイスを決め込んでいる。

 月陵は修英に視線を戻した。

 この男、やはり長旅の疲れに甘えて、女の傍で寛いでいるだけの男ではない。

「身辺が騒がしくなるだろうが、お前にはお前にやってもらわなきゃならない仕事がある。覚えておけ」

 有無を言わせない響きがあった。

 月陵はただ「知道了チータオラ」と答えて、修英の部屋を辞した。

 いつもの事ながら、ドアを閉めた途端、我知らずほっと息を洩らした。狭い階段を降りながら、月陵は自分に言い聞かす。

 あの男は、自分の心の何処かを束縛する。

 十二歳で浙江省から出て来た田舎の少年が、この上海でここまでのし上がって来れたのは、そう言う術に長けているからだ。裏社会を牛耳る老人たちも、命知らずの三下も、彼は自分の虜にする。自分の手の内で人を動かす。

 何処かでそれを払わなければ、飲み込まれる――

 月陵は、階段を降り切る前にその焦りを胸の中に押し込めた。



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