第4話 文化祭の準備
十月に入ると、校舎の空気が変わった。
廊下を歩けばどこかの教室からガムテープを剥がす音や、段ボールを折る音が聞こえてくる。昇降口には
「第三十二回文化祭まであと十日」という手書きの貼り紙が出て、部活の掲示板には各団体の出店告知が増えていった。
夏の重たい空気が完全に抜けて、校舎全体がどこか浮き立つような、落ち着かないような、そういう雰囲気に変わっていた。
二年C組の出し物は、クラスカフェに決まっていた。
放課後のホームルームで田中先生が「今日から準備始めるぞ」と言い、教室はたちまち騒がしくなった。
役割が班として割り振られ、装飾班、メニュー班、接客班に分かれる。
「装飾やりたい!」
時雨は真っ先に手を挙げた。
「私も」
葵も続いた。
「俺は接客がいいな、絶対サボれる」
…颯らしい。
「そういうこと言うから颯くんはダメなんだよ」
装飾班の女子数人に総ツッコミを食らっていたが。
俺は何にしようかn…
「待人君も装飾ね!」
時雨が勝手に決めてしまっていた。
…なぜ?
「なんで俺が」
「手が届く人がいた方が便利でしょ」
俺は時雨のスタンドかよ。
「使われてるな」
颯がこちらを見て笑う。俺は何も言い返せなかった。
準備は思ったより賑やかだった。
教室の机を端に寄せ、窓際と壁際に飾りをつけていく作業が始まった。メニュー班は黒板の前で値段の交
渉をしていて、「ホットコーヒー二百円は安すぎる」だの「でも高いと来てくれないよ」だの、議論が延々
続いている。
接客班は練習と称したロールプレイを始めているようだ。
「いらっしゃいませ!」
颯が大声で言う。
「ぷっ」
クラスのみんなが一斉に笑い出す。
「おい待人、お前笑っただろ」
「俺だけじゃないって」
なんでわかるんだよ。
「後で覚えとけよ」
どうにかして購買の一番安いパンで許してもらおう。
装飾班は葵が仕切っていた。もともと美術部に在籍していたこともあり、色の配置や飾りのバランスにつ
いて明確なイメージを持っていた。
「ここはオレンジと茶色で統一して、秋っぽくしたい」
「いいね! あったかい感じになるね」
時雨が目を輝かせた。二人はすぐに意気投合して、飾りの配置図を紙の上に描き始めた。
クラスメイトの一人は折り紙でドングリを作り始め、一人はは貼り絵の担当だったはずが、いつの間にかメニュー班と合流して紙コップにイラストを描いていた。教室の中が、思い思いの作業でちょうどよく混沌としていた。
しばらく下の飾りつけを進めていたとき、時雨が壁の上の方を見上げた。
「あそこ、手が届かないね」
天井近くの壁に、葵の配置図ではガーランドを貼ることになっていた。脚立が一台、教室の隅に立てかけてある。
「これ、待人君が持って! 一緒に高いところに貼ろう」
俺の袖を軽く引きながら、時雨がそう言った。テープとガーランドを押しつけてくる。
二人で登る必要あるのか?時雨はすでに脚立のそばへ歩いていた。
脚立を壁際に立てて、時雨が先に上る。俺がそれを押さえながら後に続いた。狭い脚立の上で二人が並ぶ
と、自然と距離が縮まる。
「ここに貼って、次あっちに」
「角度がずれてる、もう少し右」
「こう?」
「もう少し」
やりとりをしながら作業をしているうちに、何かがうまくいったタイミングで時雨が笑った。俺も笑った。別に笑うような場面でもなかったのに、なぜか笑えた。
そのとき、下から橋口の声が上がった。
「なんかいい雰囲気じゃん」
教室の何人かがこちらを見て、くすくすと笑う。
「だから言っただろ」
「颯くん静かにして」
葵もそう言いながら笑ってる。
「うるさい」
めんどくせぇ。
時雨は脚立の上で少し照れたように笑う。
「ちゃんと貼ってよ」
そう言いガーランドの端を押さえた。俺は黙ってテープを貼った。不思議と悪い気持ちにはならなかっ
た。
脚立を降りて次の壁へ移ろうとしたとき、時雨が少しだけ歩調を落とした。
俺がガーランドを持ち直して振り向いたとき、時雨の呼吸がわずかに乱れているのに気づいた。胸のあたりに手を当てるでもなく、ただ息が少しだけ浅くなっている——そういう感じだった。
「……大丈夫か?」
俺が聞くと、時雨はすぐに顔を上げた。
「大丈夫、楽しいから!」
いつもより一音高い声で言った。笑顔はもう完全にいつも通りだった。
「次、あっちの壁も飾ろうよ」
そう言いながら歩き出す。
俺は一歩遅れて、その背中を見た。
さっきの一瞬が、どこかに引っかかっていた。楽しいから、という言い方が。息が乱れる理由の説明として、楽しいから、という言葉は少しだけ——どこかずれている気がした。
まあ、俺には確かめようがなかったし、時雨はもう颯に何かを言いながら笑っている。
俺は考えるのをいったんやめて、ガーランドを持って後を追った。
日が傾いてきたころ、田中先生が「今日はここまで」と声をかけた。
教室を見回すと、まだ半分も飾りはついていないが、それでも朝とは確かに違う顔になっていた。
窓際にオレンジ色の飾りが並び、黒板の端には葵が描いたメニュー表の下書きが貼られている。脚立の上
で貼ったガーランドが、蛍光灯の光を受けてゆっくりと揺れていた。
「いい感じになってきたね」
時雨が言った。
「あと三日あれば完成する」
葵が返す。
「俺サボっていい?」
こいつは…誰かわかるだろ、またツッコまれてるし。
教室に残った飾りの残骸を片付けながら、俺はガーランドを見上げた。さっき時雨と二人で貼ったあの一
帯が、壁の高いところで揺れている。
文化祭は、来週だった。
俺はその事実を確認してから、何を確認したかったのかよくわからないまま、荷物をかばんに詰め込ん
だ。




