表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

第3話 静かな場所で

 九月が深くなるにつれて、時雨は俺の日常の中に当たり前のように居場所を作っていた。


 朝、教室に入ると時雨がいる。昼休みには机が寄せられている。放課後、颯と葵と四人で帰ることもあれば、二人で寄り道することもある。気づけばそういうリズムになっていた。誰かの日常にこれほど自然に入り込んでくる人間を、俺はそれまで知らなかった。


「待人は最近顔が違うよね〜」


 颯は意味深なことを言う。


「仲いいよね、二人とも」


 葵はそう笑ってきた。


「そういうんじゃない」

「言い訳の速度が速い」


 颯に鼻で笑われてしまった。腹立たしい。


 その日の休み時間、時雨が俺の席に来た。ノートを胸に抱えて、少しだけ困ったような顔をしていた。珍

しいな、と思った。彼女が困った顔をしているのを、俺はほとんど見たことがなかった。


「今日、放課後図書室で勉強教えてくれない? 私、数学苦手なんだよね」

「いいけど……俺もあんまり得意じゃないぞ?」


 思わず苦笑する。


「二人で苦手なら一緒に悩めるじゃん」


 時雨はそう笑った。


 それはそれで勉強になるのかどうか怪しかったが、時雨の論理はいつもそういう形をしていた。


「颯の方が数学できるだろ、颯に頼めよ」

「颯くんに聞くと話が脱線するんだもん」

「ふふっ」


 容易に想像できる。


「……わかった」


 放課後の図書室は、校舎の喧騒からひとつ切り離されたような静けさがあった。


 時雨が「窓際がいい」と言ったので、二人で窓に沿った長机の席に並んで座った。外は夕方には少し早く、校庭で陸上部が走っているのが見える。かすかな掛け声が、ガラス越しに届いた。


 問題集を広げる。ページをめくる音が、静かな部屋に響く。


 しばらく二人とも黙って問題を解いていた。


「ここってどうやるの」


 俺のノートを覗き込んでくる。


「この公式使えば展開できる」

「……へえ、字きれいだね」


 時雨が俺のノートを見てそう言った。数学の話はどこへ行ったんだ。


「関係ないだろ」

「関係ある。字きれいな人って説明もわかりやすいもん」

「根拠がない」

「でも当たってるでしょ」


 俺は何も言わなかった。否定できなかったわけではないが、時雨がそう言い切るときの顔は、反論する気を削いでくる何かがあった。


「よし、もう一回やってみる」


 時雨はそう言ってまた問題に向かった。


 図書室にいる他の生徒たちも、それぞれ静かだった。ページをめくる音、鉛筆の音、時折椅子が軋む音。その中に、時雨の小さな息遣いが混ざっている。


 時雨がちょっと不服そうにしているのは気のせいだろう。


 問題集の一章分を終えたところで、時雨がペンを止めた。


 ノートの上にペンを置いて、窓の外に目を向ける。校庭の陸上部はもう引き揚げていて、グラウンドに誰もいなかった。


 しばらくそうしていた後、時雨が小さく呟いた。


「……君の横にいると、なんだか昔みたいに安心する」


 俺はペンを持ったまま、動かなかった。


「変だよね」


 変じゃない、と思った。でもそれをすぐには言えなかった。


 時雨の横顔を、俺は初めてちゃんと見たような気がした。笑っていない顔を。明るくいようとしていない顔を。窓の外を見たまま、ほんの少しだけ、ただそこにいる顔を。


 不意に、この子が隣にいるという事実が、今この瞬間、突然違う重さを持ち始めた——そういう感覚がした。


「……変じゃない」


 俺は結局、そうだけ言った。


 時雨が俺の方を向いた。一瞬だけ、何か言おうとするような顔をした。でも次の瞬間には、もういつもの笑顔に戻っていた。


「ありがとう」


 短くそう言って、またペンを手に取った。


「次の章もやる?」

「時雨次第だ」

「じゃあやる」


 ぺらり、と紙がめくれる音がした。


 図書室の閉室時間が近づいたころ、二人で荷物をまとめて席を立った。


 廊下に出ると、校舎の中はもうすっかり静かで、どこかで清掃中の機械音がくぐもって聞こえてくるだけだった。非常灯のぼんやりした明かりの中を、二人で並んで昇降口へ向かう。


 階段を下りたところで、時雨が足を止めた。


 少し上目遣いになって、こちらを見る。


「また明日も……いい?」


 迷っているような、でも答えを半分もうわかっているような顔だった。


 俺は一瞬だけ、考えた。


 考えるふりをした、というほうが正確かもしれない。


「……ああ」


 時雨がぱっと笑顔になった。


「よかった!」


 そう言いながら靴を履き替えて、ガラス戸を押して外に出る。夜の始まりかけた空の下、白いセーラー服がどこか透き通るように見えた。


 俺はその後ろ姿を見ながら、俺の時雨に対する考え方が変わったような感じがした。なんか、時雨は俺に無理やりついてきているわけでも、自分の気持ちを押し付けているわけでもない気がしてきた。


 言語化はできない。


 気のせいかもしれない。


 でも俺は、気のせいにするのが得意な人間じゃなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ