第3話 静かな場所で
九月が深くなるにつれて、時雨は俺の日常の中に当たり前のように居場所を作っていた。
朝、教室に入ると時雨がいる。昼休みには机が寄せられている。放課後、颯と葵と四人で帰ることもあれば、二人で寄り道することもある。気づけばそういうリズムになっていた。誰かの日常にこれほど自然に入り込んでくる人間を、俺はそれまで知らなかった。
「待人は最近顔が違うよね〜」
颯は意味深なことを言う。
「仲いいよね、二人とも」
葵はそう笑ってきた。
「そういうんじゃない」
「言い訳の速度が速い」
颯に鼻で笑われてしまった。腹立たしい。
その日の休み時間、時雨が俺の席に来た。ノートを胸に抱えて、少しだけ困ったような顔をしていた。珍
しいな、と思った。彼女が困った顔をしているのを、俺はほとんど見たことがなかった。
「今日、放課後図書室で勉強教えてくれない? 私、数学苦手なんだよね」
「いいけど……俺もあんまり得意じゃないぞ?」
思わず苦笑する。
「二人で苦手なら一緒に悩めるじゃん」
時雨はそう笑った。
それはそれで勉強になるのかどうか怪しかったが、時雨の論理はいつもそういう形をしていた。
「颯の方が数学できるだろ、颯に頼めよ」
「颯くんに聞くと話が脱線するんだもん」
「ふふっ」
容易に想像できる。
「……わかった」
放課後の図書室は、校舎の喧騒からひとつ切り離されたような静けさがあった。
時雨が「窓際がいい」と言ったので、二人で窓に沿った長机の席に並んで座った。外は夕方には少し早く、校庭で陸上部が走っているのが見える。かすかな掛け声が、ガラス越しに届いた。
問題集を広げる。ページをめくる音が、静かな部屋に響く。
しばらく二人とも黙って問題を解いていた。
「ここってどうやるの」
俺のノートを覗き込んでくる。
「この公式使えば展開できる」
「……へえ、字きれいだね」
時雨が俺のノートを見てそう言った。数学の話はどこへ行ったんだ。
「関係ないだろ」
「関係ある。字きれいな人って説明もわかりやすいもん」
「根拠がない」
「でも当たってるでしょ」
俺は何も言わなかった。否定できなかったわけではないが、時雨がそう言い切るときの顔は、反論する気を削いでくる何かがあった。
「よし、もう一回やってみる」
時雨はそう言ってまた問題に向かった。
図書室にいる他の生徒たちも、それぞれ静かだった。ページをめくる音、鉛筆の音、時折椅子が軋む音。その中に、時雨の小さな息遣いが混ざっている。
時雨がちょっと不服そうにしているのは気のせいだろう。
問題集の一章分を終えたところで、時雨がペンを止めた。
ノートの上にペンを置いて、窓の外に目を向ける。校庭の陸上部はもう引き揚げていて、グラウンドに誰もいなかった。
しばらくそうしていた後、時雨が小さく呟いた。
「……君の横にいると、なんだか昔みたいに安心する」
俺はペンを持ったまま、動かなかった。
「変だよね」
変じゃない、と思った。でもそれをすぐには言えなかった。
時雨の横顔を、俺は初めてちゃんと見たような気がした。笑っていない顔を。明るくいようとしていない顔を。窓の外を見たまま、ほんの少しだけ、ただそこにいる顔を。
不意に、この子が隣にいるという事実が、今この瞬間、突然違う重さを持ち始めた——そういう感覚がした。
「……変じゃない」
俺は結局、そうだけ言った。
時雨が俺の方を向いた。一瞬だけ、何か言おうとするような顔をした。でも次の瞬間には、もういつもの笑顔に戻っていた。
「ありがとう」
短くそう言って、またペンを手に取った。
「次の章もやる?」
「時雨次第だ」
「じゃあやる」
ぺらり、と紙がめくれる音がした。
図書室の閉室時間が近づいたころ、二人で荷物をまとめて席を立った。
廊下に出ると、校舎の中はもうすっかり静かで、どこかで清掃中の機械音がくぐもって聞こえてくるだけだった。非常灯のぼんやりした明かりの中を、二人で並んで昇降口へ向かう。
階段を下りたところで、時雨が足を止めた。
少し上目遣いになって、こちらを見る。
「また明日も……いい?」
迷っているような、でも答えを半分もうわかっているような顔だった。
俺は一瞬だけ、考えた。
考えるふりをした、というほうが正確かもしれない。
「……ああ」
時雨がぱっと笑顔になった。
「よかった!」
そう言いながら靴を履き替えて、ガラス戸を押して外に出る。夜の始まりかけた空の下、白いセーラー服がどこか透き通るように見えた。
俺はその後ろ姿を見ながら、俺の時雨に対する考え方が変わったような感じがした。なんか、時雨は俺に無理やりついてきているわけでも、自分の気持ちを押し付けているわけでもない気がしてきた。
言語化はできない。
気のせいかもしれない。
でも俺は、気のせいにするのが得意な人間じゃなかった。




