【潮の匂い】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
潮の匂いがした。
改札を抜けた瞬間、莉緒の足が止まった。
新居浜の空気は、東京とちがう。もっと重くて、やわらかくて、なんだか懐かしい塩の味がする。
そして、いた。
柱にもたれて、スマホも見ずにぼんやりと改札の方を眺めている男。
色に焼けた肌、無造作な黒髪、昔から変わらない間の抜けた顔。
中村航。
莉緒は思わず苦笑した。
なんであいつが、真っ先に浮かぶんだろう。
東京で疲れ果てて、もう帰ろうと思ったあの夜。頭に浮かんだのは、キラキラした銀座でも、仲のいい同僚でもなく、この男の顔だった。
我ながら、意味がわからない。
「……莉緒」
航が気づいて、ひらりと手を上げた。
特別でもない、いつもの仕草。なのに莉緒の胸がじわりと痛んだ。
二年前
「東京、行くんやって?」
夏の夕方、河原でそう聞いてきたのは航だった。
莉緒は草の上に寝転がったまま、空を見上げて答えた。
「そう。こんな田舎でくすぶるつもりないし」
「……そっか」
航は何も言わなかった。
責めるでも、引き止めるでも、応援するでもなく、ただ隣に座って川を眺めていた。
その沈黙が、なんとなく嫌だった。
何か言いなよ、と思った。
でも莉緒には、何を言ってほしいのかわからなかった。
東京は、莉緒が思っていたよりずっと広くて、冷たかった。
クラブ ラ・メールのドアを初めて開けた夜、莉緒は自分がすぐにナンバーワンになれると信じていた。
地元じゃ誰もが振り返る顔だった。愛想だって悪くない。
でも現実は違った。
No.2の瑠奈は、莉緒より顔が整っているとは言えないのに、客の話をきくときの目が違った。No.3の彩花は、笑い方がとにかくうまかった。ただ笑うだけで、客が何でも話してしまうような、そういう笑い方。
莉緒には、それがわからなかった。
二年間、がむしゃらに働いた。
それでも結果は出なかった。いや、出なくはなかった。指名も少しずつ増えた。でもナンバーには、一度もかすりもしなかった。
疲れが限界に達したある夜、莉緒は楽屋の鏡の前でひとり座っていた。
もう帰ろう。
そう思った瞬間、なぜか航の顔が浮かんだ。
河原で川を眺めていた、あの横顔。
なんであいつが。
「莉緒ちゃん、ちょっといい?」
梢に呼ばれたのは、その翌日だった。
クラブ ラ・メールのナンバーワン、藤原梢。
三十代半ばで、莉緒が入店した頃からずっとトップを守り続けている人。近づきがたいと思っていたのに、梢はいつも莉緒に目をかけてくれていた。
「莉緒ちゃん、一度地元に帰っておいで」
静かな声だった。
「あなたが二年間頑張ってたの、ずっと見てたから。でもね、置いてきたものがあるでしょう。それをちゃんと見てきたら、またここに戻っておいで」
莉緒は何も言えなかった。
置いてきたもの。
その言葉が、胸の奥に静かに刺さった。
「痩せた?」
改札の前で、航が言った。
「……余計なお世話」
「そっか」
またこいつは、それだけか。
莉緒は小さく息を吐いた。
「迎えに来てくれたん?」
「まあ」
「なんで」
「なんとなく」
航はそう言って、莉緒のキャリーバッグの持ち手をさっと掴んだ。
当たり前みたいに、自然に。
潮の匂いがまたした。
莉緒はその背中を見ながら、東京では一度も泣かなかったのに、なぜか目の奥が熱くなるのを感じた。
置いてきたもの。
梢の言葉が、ゆっくりと溶けていくような気がした。
その夜、航と河原に行った。
昔と同じ場所。夏の終わりの風が、川面をなでていた。
「航ってさ」と莉緒は言った。「私が東京行く時、なんで何も言わんかったん」
航はしばらく黙って、川を見ていた。
「言う必要なかったから」
「は?」
「莉緒が決めたことやろ。俺がどうこう言う話じゃない」
莉緒は少し頭にきた。
でも同時に、胸の奥がじんとした。
引き止めなかったのは、無関心だったからじゃない。
莉緒の意志を、ただ黙って尊重していた。
「……ずっと、心配しとったん?」
「まあ」
「なんで」
「なんとなく」
莉緒は笑ってしまった。
こいつは昔から、こういう答え方しかしない。
でも今日初めて気づいた。
「なんとなく」の中に、たくさんのものが詰まっていることを。
私はずっと、ひとりで頑張ってると思ってた。
でも梢さんは見ていてくれた。航は待っていてくれた。
気づいてなかっただけで、支えられていた。
じゃあ私は、誰かを支えたことがあっただろうか。
翌朝、莉緒は東京に戻った。
今度は違った。
自分のためだけじゃなく、誰かのために笑える気がした。
客の話を、ちゃんと聞こうと思った。
隣に座る子が落ち込んでいたら、声をかけようと思った。
半年後、莉緒は初めてナンバーに入った。
僅差の、No.3だった。
発表の夜、楽屋で着替えていると、背後から声がした。
「莉緒ちゃん、おめでとう」
振り返ると、彩花がいた。
追い抜かれたはずの彩花が、本当に嬉しそうな顔で笑っていた。
莉緒は一瞬、言葉を失った。
「……ありがとう」
絞り出した声が、少し震えた。
こういう笑い方か、と思った。
損得じゃなくて、心から誰かを喜べる、そういう笑い方。
彩花はずっと、これをやっていたんだ。
それから三ヶ月後、莉緒は新居浜に帰った。
今度は逃げるんじゃなく、やり切って帰った。
その違いは、自分にしかわからないけれど、それで十分だと思った。
航は港にいた。
朝の漁から戻ったばかりで、網の手入れをしていた。
「また帰ってきた」と航が言った。
「うん」と莉緒は言った。「今度は、ずっとおるつもりで」
航が顔を上げた。
莉緒は潮の匂いの中で、まっすぐ航を見た。
「結婚しよ」
航はしばらく黙っていた。
それからゆっくり、困ったような、でも嬉しそうな顔で笑った。
「……なんとなく、そんな気がしてた」
莉緒は思いきり笑った。
潮の風が、ふたりの間を静かに通り抜けていった。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




