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オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


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32/32

【潮の匂い】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。

潮の匂いがした。

改札を抜けた瞬間、莉緒の足が止まった。

新居浜の空気は、東京とちがう。もっと重くて、やわらかくて、なんだか懐かしい塩の味がする。

そして、いた。

柱にもたれて、スマホも見ずにぼんやりと改札の方を眺めている男。

色に焼けた肌、無造作な黒髪、昔から変わらない間の抜けた顔。

中村航。

莉緒は思わず苦笑した。

なんであいつが、真っ先に浮かぶんだろう。

東京で疲れ果てて、もう帰ろうと思ったあの夜。頭に浮かんだのは、キラキラした銀座でも、仲のいい同僚でもなく、この男の顔だった。

我ながら、意味がわからない。

「……莉緒」

航が気づいて、ひらりと手を上げた。

特別でもない、いつもの仕草。なのに莉緒の胸がじわりと痛んだ。

二年前

「東京、行くんやって?」

夏の夕方、河原でそう聞いてきたのは航だった。

莉緒は草の上に寝転がったまま、空を見上げて答えた。

「そう。こんな田舎でくすぶるつもりないし」

「……そっか」

航は何も言わなかった。

責めるでも、引き止めるでも、応援するでもなく、ただ隣に座って川を眺めていた。

その沈黙が、なんとなく嫌だった。

何か言いなよ、と思った。

でも莉緒には、何を言ってほしいのかわからなかった。

東京は、莉緒が思っていたよりずっと広くて、冷たかった。

クラブ ラ・メールのドアを初めて開けた夜、莉緒は自分がすぐにナンバーワンになれると信じていた。

地元じゃ誰もが振り返る顔だった。愛想だって悪くない。

でも現実は違った。

No.2の瑠奈は、莉緒より顔が整っているとは言えないのに、客の話をきくときの目が違った。No.3の彩花は、笑い方がとにかくうまかった。ただ笑うだけで、客が何でも話してしまうような、そういう笑い方。

莉緒には、それがわからなかった。

二年間、がむしゃらに働いた。

それでも結果は出なかった。いや、出なくはなかった。指名も少しずつ増えた。でもナンバーには、一度もかすりもしなかった。

疲れが限界に達したある夜、莉緒は楽屋の鏡の前でひとり座っていた。

もう帰ろう。

そう思った瞬間、なぜか航の顔が浮かんだ。

河原で川を眺めていた、あの横顔。

なんであいつが。

「莉緒ちゃん、ちょっといい?」

梢に呼ばれたのは、その翌日だった。

クラブ ラ・メールのナンバーワン、藤原梢。

三十代半ばで、莉緒が入店した頃からずっとトップを守り続けている人。近づきがたいと思っていたのに、梢はいつも莉緒に目をかけてくれていた。

「莉緒ちゃん、一度地元に帰っておいで」

静かな声だった。

「あなたが二年間頑張ってたの、ずっと見てたから。でもね、置いてきたものがあるでしょう。それをちゃんと見てきたら、またここに戻っておいで」

莉緒は何も言えなかった。

置いてきたもの。

その言葉が、胸の奥に静かに刺さった。

「痩せた?」

改札の前で、航が言った。

「……余計なお世話」

「そっか」

またこいつは、それだけか。

莉緒は小さく息を吐いた。

「迎えに来てくれたん?」

「まあ」

「なんで」

「なんとなく」

航はそう言って、莉緒のキャリーバッグの持ち手をさっと掴んだ。

当たり前みたいに、自然に。

潮の匂いがまたした。

莉緒はその背中を見ながら、東京では一度も泣かなかったのに、なぜか目の奥が熱くなるのを感じた。

置いてきたもの。

梢の言葉が、ゆっくりと溶けていくような気がした。

その夜、航と河原に行った。

昔と同じ場所。夏の終わりの風が、川面をなでていた。

「航ってさ」と莉緒は言った。「私が東京行く時、なんで何も言わんかったん」

航はしばらく黙って、川を見ていた。

「言う必要なかったから」

「は?」

「莉緒が決めたことやろ。俺がどうこう言う話じゃない」

莉緒は少し頭にきた。

でも同時に、胸の奥がじんとした。

引き止めなかったのは、無関心だったからじゃない。

莉緒の意志を、ただ黙って尊重していた。

「……ずっと、心配しとったん?」

「まあ」

「なんで」

「なんとなく」

莉緒は笑ってしまった。

こいつは昔から、こういう答え方しかしない。

でも今日初めて気づいた。

「なんとなく」の中に、たくさんのものが詰まっていることを。

私はずっと、ひとりで頑張ってると思ってた。

でも梢さんは見ていてくれた。航は待っていてくれた。

気づいてなかっただけで、支えられていた。

じゃあ私は、誰かを支えたことがあっただろうか。

翌朝、莉緒は東京に戻った。

今度は違った。

自分のためだけじゃなく、誰かのために笑える気がした。

客の話を、ちゃんと聞こうと思った。

隣に座る子が落ち込んでいたら、声をかけようと思った。

半年後、莉緒は初めてナンバーに入った。

僅差の、No.3だった。

発表の夜、楽屋で着替えていると、背後から声がした。

「莉緒ちゃん、おめでとう」

振り返ると、彩花がいた。

追い抜かれたはずの彩花が、本当に嬉しそうな顔で笑っていた。

莉緒は一瞬、言葉を失った。

「……ありがとう」

絞り出した声が、少し震えた。

こういう笑い方か、と思った。

損得じゃなくて、心から誰かを喜べる、そういう笑い方。

彩花はずっと、これをやっていたんだ。

それから三ヶ月後、莉緒は新居浜に帰った。

今度は逃げるんじゃなく、やり切って帰った。

その違いは、自分にしかわからないけれど、それで十分だと思った。

航は港にいた。

朝の漁から戻ったばかりで、網の手入れをしていた。

「また帰ってきた」と航が言った。

「うん」と莉緒は言った。「今度は、ずっとおるつもりで」

航が顔を上げた。

莉緒は潮の匂いの中で、まっすぐ航を見た。

「結婚しよ」

航はしばらく黙っていた。

それからゆっくり、困ったような、でも嬉しそうな顔で笑った。

「……なんとなく、そんな気がしてた」

莉緒は思いきり笑った。

潮の風が、ふたりの間を静かに通り抜けていった。


お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

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