【こはる日和】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
第一章 好きになった理由なんて、わからない
水瀬こはるが沢村誠一を意識し始めたのは、入社二年目の秋のことだった。
きっかけは些細なことだった。残業続きでくたびれ果てた夜、給湯室でインスタントのみそ汁をすすっていたこはるに、沢村が無言でカイロを差し出してきたのだ。
「手、冷たそうだったから」
それだけ言って、彼はさっさと自分の席に戻っていった。
こはるはしばらくそのカイロを両手で包んだまま、動けなかった。
沢村誠一は、営業第二課のエース社員だ。入社十年目、三十二歳。物静かで口数は少ないが、仕事の精度は社内でも一、二を争うと言われている。余計なことは言わないけれど、必要なことは必ずやる。そういうタイプの男だった。
こはるとは部署が違う。接点なんてほとんどない。名前を知っていたのも、社内で「沢村さんって仕事できるよね」という噂話を耳にしていたからに過ぎなかった。
なのに、あのカイロ一個で、全部狂った。
翌日からこはるの目は、気づけば沢村を追うようになっていた。
こはるは自分のことを、地味だと思っている。
身長百五十八センチ、黒髪ボブ、化粧はするけど主張しすぎない程度。服はいつもシンプルで、笑い方はちょっと遠慮がちで、自分から話しかけるのが苦手で、会議で意見を求められると心臓が口から出そうになる。
入社三年目になって、仕事にはようやく慣れてきた。でも「自分から動く」ことだけは、相変わらずうまくできない。
だから沢村のことも、ずっと遠くから見ていた。
朝、エレベーターで一緒になれば胸がどきどきする。廊下ですれ違えば視線を逸らす。社内の共有スペースで彼がコーヒーを飲んでいるのを見かけると、なんとなく近くの席に座ってしまう。それだけだ。
声をかけたことなんて、ほとんどない。
一度だけ、コピー機のトラブルで困っていたときに助けてもらったことがある。「ここ押せば直る」と言って、慣れた手つきで紙詰まりを解消してくれた。「ありがとうございます」と言ったら、「うん」とだけ返ってきた。
それだけのやりとりなのに、こはるはその夜、日記に三ページも書いた。
第二章 三月が来る前に
二月の終わり、こはるは決心した。
きっかけは、同期の友人・梶原さつきの一言だった。
「こはる、沢村さんのこと好きでしょ。もう一年以上経つじゃん。いい加減なんかしなよ」
ランチの帰り道、さつきはあっけらかんとそう言った。こはるは思わずうどんを噴きそうになった。
「え、なんで知って——」
「わかるよそんくらい。目が全然隠せてない」
さつきは笑いながら続けた。
「三月末に沢村さん、大阪の案件に関わり始めるって話、聞いた?出張が増えるらしいよ。もしかしたらそのまま向こうに——なんて噂もあるけど」
そのとき、こはるの胸にぐっと何かが刺さった。
大阪。出張。もしかしたら——。
「……ねえ、さつき。それって、本当の話?」
「噂だけどね。でも沢村さん、ここ最近ずっと大阪の仕事抱えてるじゃない。あの人なら任されてもおかしくないよ」
その夜、こはるはなかなか眠れなかった。
好きだと気づいてから一年以上、ずっと何もしてこなかった。声をかけることも、近づくことも、気持ちを伝えることも。「いつか」と思い続けて、「いつか」は来なかった。
でも、もし本当に彼がいなくなってしまったら。
後悔する。絶対に後悔する。
こはるは布団の中で膝を抱えて、小さく呟いた。
「……告白、しよう」
決めたはいいが、どうすればいいかわからなかった。
こはるはさつきに相談しながら、三月の第二週を「決行日」に設定した。場所は会社の近くの小さな公園。時間は仕事終わりの夜。「今日、少しだけ時間もらえますか」と声をかけて、そこで全部話す。
シミュレーションは何十回もした。
沢村さん、お時間いいですか。少しだけ、お話ししたいことがあって。
私、沢村さんのことが好きです。ずっと、好きでした。
付き合ってほしいとか、そういうことじゃなくていいんです。ただ、言いたかったんです。
何度練習しても、声が震える気がした。でも、言わなければ何も始まらない。言えなければ、ずっとこのままだ。
こはるは毎朝鏡の前で自分に言い聞かせた。大丈夫、できる、やれる、と。
三月の第二週、火曜日。
その日のこはるはいつもより三十分早く出社して、いつもより丁寧に仕事を片付けた。定時を過ぎた頃、沢村の席をそっと確認する。まだいる。パソコンに向かって何かを打ち込んでいる。
こはるは深呼吸した。
今日だ。今日じゃないと、絶対また逃げる。
席を立って、沢村の方へ歩いていく。心臓が喉元まで上がってきているような感覚。足が少し震えている。
でも、歩く。
沢村の席まで、あと五メートル。
そのとき、総務の田所さんが大きな声で言った。
「みなさん、ちょっといいですか!三月末の人事異動、先ほど正式に発表になりました。掲示板に貼り出してありますので——」
オフィスがざわっとする。
こはるの足が、止まった。
第三章 辞令
掲示板に人だかりができていた。
こはるはその輪の外側に立ったまま、動けなかった。
隣にいた同僚が小声で言う。
「沢村さん、大阪営業所に異動だって。三月三十一日付けで」
頭が、真っ白になった。
噂は本当だった。
さつきが言っていた「もしかしたら」は、「やっぱり」だった。
こはるはゆっくりと沢村の席に目を向けた。彼はまだパソコンに向かっていた。表情は変わらない。静かで、落ち着いていて、いつもと同じだった。
もう知っていたのだろう。だから驚かない。
こはるは自分の席に戻った。椅子を引いて、座る。パソコンの画面を開く。何も入力できなかった。
三月三十一日。
あと、三週間もない。
その夜、さつきからLINEが来た。
「発表、見た? 大丈夫?」
こはるはしばらく返せなかった。
「見た。……まだ、言えてない」
「今からでも遅くないよ」
「でも、異動するんだよ。言ってどうするの」
「どうするって、気持ちを伝えるだけじゃん。結果とか関係なくない?」
こはるはスマホを伏せて、天井を見た。
さつきの言う通りだと思う。結果なんて最初から期待していなかった。付き合えるとも思っていなかった。ただ、言いたかった。ずっと好きでいたことを、知ってほしかった。
でも今は——。
異動が決まった人に、告白する。それは正しいことなのか。迷惑じゃないか。重くないか。引き留めようとしているみたいに思われないか。
考えれば考えるほど、わからなくなった。
第四章 最後の朝
三月三十一日が来た。
こはるは結局、三週間、何もできなかった。
あのあとも何度か「今日こそ」と思った。でも沢村は異動前の引き継ぎで忙しそうで、こはるにはどうしても声がかけられなかった。廊下ですれ違えば「お疲れ様です」と言えた。それだけだった。
最終出社日の朝。
こはるは普段より少しだけ早く出社した。理由は自分でもよくわからなかった。ただ、最後にもう少しだけ、同じ空間にいたかった。
オフィスに着くと、沢村はもういた。
机の上のものをダンボール箱に詰めている。一冊一冊、丁寧に本を並べて、ファイルをまとめている。その背中を、こはるはしばらく見ていた。
声をかけようと思った。
沢村さん、今まで——
でも、足が動かなかった。
結局こはるは自分の席に座って、パソコンを立ち上げた。
午後、沢村の送別会が簡単に開かれた。会議室にケーキが並んで、みんなで写真を撮って、沢村は静かに「お世話になりました」と言った。笑顔はほとんど見せない人だけど、そのときだけ、少しだけ口元が緩んでいた。
こはるはその顔を、ずっと見ていた。
ああ、笑うとこんな顔するんだ。
一年以上好きだったのに、初めて知ったような気がした。
定時になって、沢村が席を立った。
ダンボールを抱えて、一度オフィスを見回す。それから歩き始める。
こはるは立ち上がった。
自分でも驚くくらい、体が動いた。
「沢村さん」
声が出た。震えていたけど、出た。
沢村が振り返る。
「水瀬さん?」
名前、知ってたんだ。そんな場違いなことが頭をよぎった。
「あの——」
こはるは一歩、踏み出した。
「今まで、ありがとうございました。その……去年の冬、カイロをくれたこと、覚えてますか」
沢村は少し考えるような顔をして、それからゆっくり頷いた。
「覚えてる」
「あれ、すごく嬉しかったです。なんか……ずっと、嬉しかったです」
それだけ言うのに、全力だった。
沢村はこはるをまっすぐ見た。表情は変わらない。でも、なんとなく、柔らかくなったような気がした。
「……そうか」
短い返事だった。
それから彼は、静かに続けた。
「水瀬さんって、いつも一生懸命だよな」
こはるは何も言えなかった。
「大阪でも、仕事頑張ります」と言おうとした言葉が、喉のところで消えた。
沢村はもう一度小さく頷いて、「じゃあ」と言って歩き出した。
エレベーターのドアが閉まる。
こはるはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
エピローグ 春のにおい
四月になった。
オフィスの窓から、桜が見えるようになった。
沢村の席には、四月入社の新人が座っている。元気のいい男の子で、よく失敗して、よく謝っている。こはるはなんとなく、自分の入社一年目を思い出した。
あのとき、自分もこんなふうだったかな。
昼休み、こはるは一人で外に出た。会社の近くの小さな公園。告白しようと決めていた、あの場所。
ベンチに座って、桜を見上げる。
伝えられなかった。
ちゃんとした言葉は、何も言えなかった。「カイロが嬉しかった」なんて、告白でも何でもない。ただの感謝だ。
でも——。
一生懸命だよな、って言ってくれた。
それだけで、なんだかよかった気がした。
見ていてくれた人がいた。それだけで、一年以上の片想いが、少し報われた気がした。
こはるは目を細めて、桜を見た。
泣くほどではなかった。
でも、胸の奥がじんわりと、温かかった。
来年も、桜を見よう。
そう思えたから、たぶん大丈夫だ。
水瀬こはるの、短い春が終わった。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




